第2話 ゾンビと少女と預金通帳(6)

その日は金曜だったので、次の日に楓さんと一緒に履歴書を書いた。


現在の職業というところで、二人ともぱたりと筆が止まった。果たして今の僕たちは何者なのか? 楓さんは素直に、無職、僕は未来形だけど、学生、と書いておいた。大学入学は決まっているんだから、浪人生とも違っていた。無職と、曖昧な学生という表記。


 散々な社会地位だった。


僕は人と比べて、字が汚いことを自覚している。学校の書道の授業はいつも平均以下の評価しかもらったことが無い。履歴書に書く文字も、我ながら汚かった。


僕が横をちらと見ると、楓さんの履歴書が目に入った。


「楓さん、すごく字が綺麗じゃないですか。書道とか、やってたんですか? 」


 楓さんは、当たり前だ、と言う風に答えた。


「ふん、そんなものはやっとらん。そんなことしても、何の役にも立たんからな。


学生時代、ちょっと物を書くのに熱中しとった時期があったんや。今はワードで打つんだが、昔は、鉛筆と万年筆やったからな」


「楓さんって、万年筆使って書き物してたんですか? 」


 僕は、ちょっと意外だと思った。僕の中のこの人なら、役に立たないとか無駄だとか言って、学生時代から先取的な取り組みをしていそうなんだけどな。


「ふん。今となっては、あまり良い思い出じゃないな。あれは、若気の至りでやったことじゃ。今、もし昔に戻れるなら二度とやらんよ」


 楓さんはそう言い切った。自分が物を書いていたことは、彼にとってあまり良い思い出ではないらしい。


「まあ、あれをやって良かったと思うことは、字を書くことがちょっとばかり、うまくなったことかの。まあ、かけた時間を考えれば、それに見合った成果はぜんぜん出せておらんのじゃがな」


 そして来たる月曜日。


 夕方になって僕たちは葉菜の紹介してくれた居酒屋へと赴いた。今日は葉菜も来てくれているということだったが、かなり緊張した。社会人なのだから慣れているのかと楓さんを見れば、少し脂汗までかいて緊張している。


そんなふうに二人はおどおどしながら居酒屋ののれんをくぐった。


「らっしゃいませー」という威勢のいい声とともに居酒屋独特(初めての僕にもなんとなく分かった)の、少し淀んだ空気が鼻にかかった。玄関の正面には調理場があって、お客さんは板前の人たちが料理する姿を見ながら奥の客間に案内されるらしい。


「あらあらいらっしゃーい」


 そういって奥の座敷の方から、中年のおばさんが出てきた。


頭にはパーマがかかっていて、おしろいで白くなった顔に口紅の色が目立つ人だった。そして鼻がもう少し曲がっていれば「魔女」というあだ名がつくほどに鼻がつき出ていた。しかし魔女と呼ばれるには、少々横に太すぎるかもしれない。腰の少し上に巻いたエプロンが、彼女の木の幹みたいなウェストを露呈してしまっている。大きな唇と真っ赤な口紅、その奥に垣間見える白くて尖った歯は、地球上の大抵の生物なら噛み砕けそうな異様さを演出している。


店はまだ午後四時ということで、がらがらだった。


「あの、バイトの面接の者なんですが」


 そういうと急におばさんは「ああ……」と少し気を抜いたような、がっかりしたようにも受け取れる声を上げた。


「あっち行って」


そう言って客間の一番奥に僕らを座らせた。


おばさんはさっきまでのはきはきした営業姿勢とは異なった、だるそうな様子で来て履歴書を要求してきた。僕らはそれらを渡すと、おばさんはざっと目を通して、ふんっと鼻で声を上げた。僕にはそれが、馬が鼻で息を吐いているのと重なった。そして面接で通ったからシフトを決めるように言われた。


僕は短時間でお金を稼ぐために、たくさん入れるように希望日を書いた。楓さんも僕ほどじゃないけれど、たくさんシフトを入れた。その日はそれで用は済んだということで、僕らはさっさと店を追い出されてしまった。


 その週の木曜日からバイトは始まった。


この日は僕一人でバスと電車を乗り継ぎ町の居酒屋へ行った。


挨拶をしてユニフォームに着替え、ホールに入った。ホールには葉菜は居なかったが学生らしき先輩が二人いて、他には月曜の魔女もどきみたいなおばさんがいた。


後で知ったことだが、このおばさんがホールのボスらしい。


この日は僕の人生でも最悪の部類に入る日だった。


僕は何度もミスしておばさんに怒鳴られた。注文を間違え料理人の人たちに睨まれた。注文を取りに行ったお客さんに顔が真っ赤だと笑われた。


バイトが終わったころには頭がぐちゃぐちゃになった気分で、もう放心状態だった。もう無気力のするめみたいに、ふらふらしながら電車に乗り込み、途中から看護師さんに車で迎えに来てもらった。


車の中であれこれバイトについて聞かれたが、完全に上の空。


「やばかった」としか返答しなかった。結局午前零時回ったころに自分のベットに着くなり、風呂も入らずに寝落ちしてしまった。


 次の日、午前九時回ったころにやっと目覚めると、気持ちの悪い感じがして、しばらくベットから起き上がることができなかった。それからやっとシャワーを浴びて食事をすると、それきりまた立ち直れずベットで悶えた。


それからの一か月は僕の人生の中で最も辛い時期だったような気がする。


その間僕は何度もバイトで叱られ、忙しい時は店を駆けずり回って、ろくに筋肉も無いのに重いものを持たされた。


バイト四回目勤務の翌日だったと思う。その日見舞いに来てくれていた葉菜の前で、僕はストレスのためか、胃がひっくり返るような衝動に駆られた。そして食べたものを戻してしまった。


「うっ……うっ……」


床に吐しゃ物を戻した後、僕は口を押えたままでしばらく呻いていた。そのうち、なぜか目から透明な雫がしたたり落ちていることに気付いた。情けなく吐いて、さらに目元も言うことを聞かなかった。


「大丈夫? 」


 葉菜は驚いて看護師を呼ぼうとしたが、僕はあまりに自分がみじめすぎて思わず空いた手で葉菜の腕を掴んだ。


よく喋れなかったが、首を振って葉菜にそれとなく促した。


葉菜に僕の情けない泣き顔を見られてしまった。


最悪だった。他人に自分の弱いところを見られるなんて。でもきっと溜め込んだストレスと体の変調が、彼女を見たせいで濁流のようになって心の堰をこわしてしまったんだろう。


なんたる醜態。きっとそんな僕を見たら、彼女だって僕に愛想を尽かしてしまうだろう。


そんな不意の恐怖が、心に鋭利な針みたいに突き立って、すぐに不快感は全部、恐怖に変わった。


できることなら今すぐ逃げ出したい。それで、もう彼女とは二度と会いたくない。呻いている僕は目線を下げて、ぼんやりと自分の吐しゃ物を見ながら彼女を見ないようにした。


 そっと、何か温かい感触が僕の背中の上に乗った。


僕の体の前に伸ばさた腕は葉菜のものだった。彼女は突っ伏して俯いている僕に後ろから抱きかかっていた。


彼女のどこにそんな大胆さがあったんだろうか? でも彼女の体温と首筋にかかる小さな吐息が僕の心に、安堵と、なんだか表現できない気持ちを同時に与えた。


自分が情けない。


僕はここから出たらもう一人で生きていくしかない。辛いことも弱いところも、自分で抱えて生きていく。それなのに実は、僕はすごく傷付きやすくて、弱かった。そんな僕をそっと包んでくれる彼女。でも彼女の腕の中ですら僕の体はこわばっていた。


言葉はいらなかった。ただ、そこに彼女がいてくれるだけで僕は少しだけ世界に居られる実感があった。


 いつまでもこうしていたい。僕はそう思った。


 バイトを始めて一か月くらいしたころだろう。


人間はだんだん学習していくもので、少しずつ、まるで玉ねぎの薄皮をはがしていくように、僕は働ける人間になっていった。怒られる回数も減って、もし怒られても以前ほど気にならない。感じる疲労感も減っていき、心なしか骨と皮ばかりの腕にかわいらしい力こぶができた。そうすると心なしか気力も充実して、フットワークも軽くなった。


 ビール瓶が収納された箱を抱えて店の裏口を出ると、楓さんがいた。


「あ、どうも」


 僕は声を掛けた。楓さんは僕より肉体労働に向かないと判断されて材料の発注やおしぼりを捨てたり、まかないの弁当を注文したり、言ってみれば雑務係になっていた。


「……おう」


 楓さんは小さく答えた。


ちなみに彼は僕と同等かそれ以上に腰が低い。僕はかなりの腰の低さだから、この人は店長などには頭が上がらなかった。僕が以前それを指摘したことがある。


彼は、「そりゃ会社では営業をしてたからな」と言った。僕よりずっと年上の彼がこんなに腰が低くなるなんて、会社とはどんな恐ろしい場所だ、と僕は思った。


 楓さんは台帳に発注する材料をチェックしていた。


「この時間にここにいるなんて珍しいですね。いつも楓さん、昼間に発注の仕事してるから…」


「ああ、それが今日はちょっと寝過ごしてな……。だから今やっとるんや」


「ふうん」


 遅刻したということは、多分怒られたんだろう。楓さんはなんだか気付かれまいとするようにこっそりと仕事をしていたが、少し決まり悪そうだった。僕は入口からお客さんが入る音を聞いてまた店内に戻ろうとした。


「おい、荒巻」


 そう言って楓さんに呼び止められた。


「なんですか? 」


「……ありがとな。がんばれよ」


 そう言って楓さんはまたほそぼそと仕事を始めた。


 少し笑って僕はまた店内に戻った。少しだけいい気分になっていた。


歳は暮れて、新しい年が来た。いよいよ僕が大学へ行く年になった。


この病院でも正月は家族のもとへ帰る人が多く、病院はいつも以上に静寂になっていた。


窓の外からは、相変わらず北国らしく雪がごうごうと降り続く。


僕に行く場所は無いわけで、看護師さんたちが小さく催してくれた新年会の後は、暇を持て余して楓さんのところへ立ち寄った。


楓さんは以前のようにカーテンを日中も閉めるようなことはせず、人の居なくなった病室で一人でいた。手には旅行雑誌を持っていて、僕が姿を見せると「おお、荒巻か」と言ってくれた。


 表情はまだ硬いが、表情が随分柔らかくなった楓さんだった。血色も随分良くなり、以前のゾンビみたいな骨ばった、怒りに満ちた顔はしなくなっていた。


彼はバイト代の収めてある通帳を手にして愉快そうにしていた。


「もうじき目標額だ。これでおふくろを旅行に連れて行ってやれる。おふくろ、久しぶりに俺が来てそんなこと言ったらどんな顔するかな……」


「きっと喜んでくれますよ」


僕はそう言った。実は最近僕はあまり体調が優れないのだった。


それは多分「働く」ということのイメージと現実のギャップだろう。


僕が思うより働くことは辛かった。誰もが大学を出れば働かなくてはならないとは分かっていても、僕は今から憂鬱になりだしている。


でもいいこともあったと思う。僕は以前より葉菜のことが少し分かったような気がしていたのだ。彼女が他のホールスタッフとある程度は仲よく御付き合いできていることは分かった。僕のお見舞いに来ては、僕をいじり倒していく彼女だけど、お客さんや店員さんの前では素直で良い子だった。「魔女」おばさんが忙しいと取り乱して、暴言めいたことを周りに吐くのに対して、葉菜はいつも冷静で大学生のスタッフをよく束ねた。


彼女が誰かをいじったり嫌味を言うのは、どうやら僕の前だけみたいだ。彼女のそういう面を知れたことが、僕としてはうれしい。


「これだけ短期間に集めれたのは本当にお前のおかげだよ」


そういうと楓さんは僕に、「世話かけたな」と言った。


 それから半月で、いよいよ目標額まであと一歩というところまで来た。


来週にでも楓さんは、集めたかった目標額を手にできる。僕はいよいようれしくなってきた。バイトで汗を流して稼いだお金だからだろう、楓さんのために使えることが素直に嬉しかった。


 今日は別にバイトは無い日だったが、楓さんの様子を見に彼の病室に出向いた。彼とは、働くことを通して信頼感が結べるようになった、少なくとも僕はそう思っている。


 僕は病室まで来て、「楓さーん」と名前を呼んだ。すると「おうっ」とみじかい返事が返ってきたので、「お邪魔しますよ? 」と聞いた。するとまた短く「おうっ」という返事が返ってきた。


 僕は少し不審に思ったが、躊躇わずレースを引いた。


 楓さんはベットに座りながら胡坐をかいていた。あごに手を当てて、何か考え事をしている。その顔は額に皺がより、バイトをする前の彼の顔に戻ったようだった。僕は急に話し掛けづらくなった気がした。気難しい中高年の男性を相手にしたような気分になる。彼はこの病院に来る前は、ひょっとしたら毎日こんな顔つきで過ごしていたのかもしれない。


「どうしたんですか? 何か考えてらっしゃいますよね」


 そう呼びかけた僕の声は自分でも分かるくらいに上ずっていた。


「いや……、そんなんじゃ……」


 楓さんは勿体ぶってなかなか言おうとしない。少しためらってから「オホン」と咳払いをした。


「やっぱり、お袋を旅行に連れて行くのは止めようと思う」


「え? 」


 僕はとっさのことで彼の言っていることが理解できなかった。やめる? 旅行を? なんでまた、ここまで来て? あんな良い顔をしてたじゃないか。


「よく考えたんだが、お袋を旅行に連れていくのはやってみたいことの一つだが、どうしてもやりたかったことではない。お袋を旅行に連れて行ったって、わしの気持ちが本当に晴れることは無いやろう。もっと別に、やりたいことがあったはずなんや」


「やめるって……。今更ですか? 今まで頑張ってお金貯めてきたじゃないですか!僕たち頑張ったんだから、せめてお母さんを旅行に連れて行ってからそういうことは言いましょうよ!」


「いや、そんなことしとったらわしの貴重な寿命が一か月も犠牲になる。そういうことは避けねばならん」


「でも、勿体ないじゃないですか」


「ああ、勿体ない。お前らにはすまないと思っとる」


 そうは言ったが、楓さんの顔は謝罪の意を表すどころか昔の気難しい顔に逆戻りしている。この顔をした彼は基本的に説得に応じるような状態ではないだろう。


僕はこのおやじ! の急な心変わりに怒りが沸き起こってきた。しかし救済は本人次第なのだから、ここで僕がいくら不満を述べたって、骨折り損だと感じだ。その日はこれ以上話をしないで、僕は病室を後にした。

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