第2話 ゾンビと少女と預金通帳(5)

 その夜、僕は結局やるせない気分を一日引きずってしまい、気分が悪いままに休憩所にいった。今日の目的は、コーヒーではなかった。

「ん? おにいちゃん、こんばんは」

「ああ、こんばんは」

 無垢な少女・向岸は今日もこの時間、ここで読書をしていた。静かに、誰に迷惑をかけるでもなく、親を待っている少女。

「なあ、向岸。僕の話を少し聞いてくれないか? 」

「ん? なに? 」

「僕さ、ちょっと調子が悪いんだよ……」

「私にもそういう日はあるよ。特にお薬の次の日は」

「お前も大変だよな……。でもさ、今の僕は体じゃなくて、なんだろ、心の調子が悪いんだ。

 最近知った人がいてさ、もう社会人なんだけど。その人会社もやめて家族もいなくて、もう何も希望が持てないらしいんだ。でもあれだよな、そういう人を見ていると自分まで将来そんな人たちの一人になっちまうような気がしてさ。結局、僕たちには何が幸せなんだろうか?」

 そんなことを呟いてみたら、向岸はきょとんとした顔をした。

「んー、分かんない。私お兄ちゃんみたいに頭も良くないし」

「だよな。ごめんな。別に僕が頭いいとかそんなんじゃないんだ。誰にもそんなこと分かんないんだ。ただ、誰かに悩みを聞いてもらいたかっただけんだ。俺さ、ここに友達いないからさ」

 多分ここの外にだっていない、とまでは言えなかった。

「私も、いない」

 向岸は言った。

「だいぶ前に一人の女の子がいたけど、いつの間にかいなくなっちゃってた」

「そうなのか」

 僕は自分の暗い気分を向岸にまで移してしまった気がして、申し訳ない気持ちになった。

 たぶん僕は寂しかったんだ。一人ぼっちで悩みを抱えたくなかった。けれど僕の世界にいる人は極わずかで、その中で最も身近にいたのが、この少女なのだ。

「分かんない。けど、お兄ちゃんあんまり深刻にならない方がいいよ」

「かな……」

「答えがでないなら、ゆっくり寝かせないとね」

 どうやら僕なんかより、彼女の方がこの持て余した気分への対処法を知っていた。

 次の日、訪ねた楓さんは、僕を見るなりうれしそうに「おお」と言った。明らかに昨日までと比べて機嫌がいい。

僕はそれを不審に思いつつ、まだ悩みがあるのかと聞いてみた。

「それがの、急に思い立ったよ」

「思い立った? たった一晩でですか? 」

「ああ。それが昨日久しぶりに夢を見たんだが……。なんと、もう今は年に一度しか会わないおふくろのところに行く夢だったんだ。今もおふくろは妹夫婦と暮らしているが、久しぶりにおふくろに会いたくなったよ。しかし俺にはもう治療費以外は金が無いんだ。これじゃあんまりにも情けない。だから、それを調達してくれないか? 」

「調達、ですか。まあ、お金ならバイトとかでなんとかなるかも」

「それも結構な額が欲しい。なんならどうせ暇な身だ、わしも手伝うしな」

「いくら欲しいんですか?」

「そうだな……とりあえず一五〇万か」

「一五〇万!」

 僕にはなかなか大金だ。

「でもそれっていったい何に使うんですか? 」

「おふくろは若いころにイギリスに旅行に行ったらしいが、それがよっぽど楽しかったのか、昔はよくそのことを話していたよ。だから二週間程度の海外旅行に連れて行こうと思ってな。それと、」

「それと?」

「あと少しで……娘の誕生日なんだ。最後に、今までで一番見栄を張ったプレゼントをしてやりたい」

「……」

 自分を捨てた、と自ら言った妻と娘。それでも彼はやっぱり親なんだ。親として子に何かを残してやりたいと感じている。死が迫った今だからこそ、本当に大切なものは何か、きっと一晩悩み抜いたんだろう。

 僕はそれを承諾し、金が必要とあらばバイトをするしかないと考えた。

僕はバイトをしたことなんかない。

仕方がないので求人広告でも見ようとして看護師に頼んで持って来てもらった。

僕は肉体的な損傷はないし、もう三か月後にここを去る。学費のためと言えば、バイトに関して医者に首は振られないだろう。求人広告にはさまざまな広告があって何を選べばいいのかさっぱり分からない。

業種はどうしよう? 日給バイトがいいか? それとも長期バイトにしようか? そうだとしたら勤め先はどこがいいんだろうか?

「……」

取り敢えず時給がいいのは居酒屋だった。僕は少し考えて、やっぱりアドバイスが必要だと感じて、ケータイを開いた。やっぱり知らないことは先輩に聞くべきだ。

 僕は簡潔なメール内容を打ち込んで、送信ボタンを押した。

 二時間後、返信が来た。白織葉菜からの返答は至極簡単なものだった。

「だったらウチで働かない?」。

 ウチというのは彼女の勤め先だろう。僕はそれでいいような気がしてきたが、僕が病院にいるうちに二人で合計一五〇万円貯めないといけない。

そんなにシフトに入れるかと返信すると、また返事が来た。なんでも少しなら葉菜も協力してくれるらしい。それに今人手が足りなくて困っているとのことなので、結構シフトにも入れるらしい。

僕はその内容を伝えるべく楓さんのところへ行き、評細を伝えた。

彼は二日と経たずに僕がバイトの話を持ってきたことに驚いたようだったが、お金が入るならどんなバイトでもいいと言ってくれた。

僕は、彼の許可を得たことを葉菜に伝え、いつ面接に行ったらいいのかと聞いてみた。すると「来週の月曜に! 」とのことだった。僕と楓さんは月曜からバイトに行くことになった。

まだ僕にはバイトなんて全く分からなくて、まさかあんな苦労が待っていようとは、その時は考えもしなかった。

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