第2話 ゾンビと少女と預金通帳(4)
その夜。夕飯をいつものごとく軽めに済ませた僕は病院のベットに寝ころびながらずっと考えていた。
――誰を選び、助けるのか。その基準はどこにあるのか。
彼女の言葉を思い出す。その言葉はもし僕が大学生として順風に過ごし、生きていったならば、きっと見過ごしてしまうようなことだろう。
人は幸せに生きているうちは、悲しいくらいに人の話を聞かない。利己的な要素や社会的な位置づけのラベルがない言葉を受け止めない。
でもそれは当たり前なのかもしれない。世の中の全ての人が、発言する口と権利をもって生まれてきた。世の中はそんな人たちの喜び、笑い、愛、優越、お世辞、嘘、おだて、嘆き、感動、罵声、怒り、陰口、つぶやきで溢れている。どうしても情報が多すぎてしまう。
僕が選ぶべき人は誰だろう? 楓さんの言葉を思い出す。会社に見放された。病気になって、家族に見放された。居場所を取り上げられ、支えとなる人たちまでに捨てられた。
その苦しみは、きっと僕が想像できるものじゃない。信じていた人に裏切られてしまう苦しみを、僕は知らないんだ。きっと彼をあんなゾンビのような形相に変えたのもそのせい。それほどの威力を持つもの。
なら僕の支えになってくれる人って? 本当に信頼できる人って?
……分からない。どうしてだろうか。なんで、頭に浮かんでこないんだろうか? きっと僕にもいたはずなのにな。
僕はだんだん彼を放っておく気になれなくなってきた。
それは、もしかしたら将来自分も同じ立場に立つかもしれないという恐怖なのかもしれない。そんな悲しい運命で死ぬなんて、僕なら絶対に嫌だ。そんな不幸な人がいていいわけが、ない。
僕は起き上がって缶コーヒーを買いに行った。時計は午後八時半を指していた。今から缶コーヒーなど飲めば十時の消灯からしばらく寝られなくなってしまう。それでも僕はどうしても大切な課題を突き付けられたような気がして缶コーヒーが飲みたかった。
いつもの休憩所でベンチにドカッと座った。休憩所は閑散としてほとんど人はいない。僕は外で降る雪を眺めて、缶コーヒーを啜った。その時伸ばした腕が誰かに当たる。
「ん? 」
振り向けば小柄な少女、向岸だった。
「ひっ…! 」
いつものヒステリックな声を少し聞いたが、彼女は僕と分かって安心したようだった。
「……なんだ、荒巻さんか」
「ああ、そうだよ。どうしたんだ? この時間に? 」
「うん、ちょっと漫画を読みに来たの」
そう言って手に持つ週刊誌は、例の如く彼女の年齢にはいささか早いものだった。確かに置いてはいるけど、普通彼女の年齢では読まないよな。注意しようか迷ったけど、まあいいかと結局あきらめた。
「お前っていつも会うと本読んでるけど……漫画好きなのか? 」
「んー、分からない。でも他にすることないんだもん」
「そうだよな。この病院、退屈だもんな」
「それにね、もうすぐお父さんとお母さんと会えるからいい子にしてなきゃいけないの」
「へえ……そうか」
彼女は十四歳。思春期真っ盛りというところが、この病院ならそういうわけにもいかないよな。
「お父さんとお母さんは決まった日に来るのか? 」
「ううん、今まではいつ来るか連絡もくれなかったのに、今度は約束してくれたの」
「そうか、なんかそういうの、いいな」
彼女は、なんだかわくわくしているようだった。
誰を選び、誰を選ばないか。その範疇に唯一おさまらない存在。もしかしたらそれは親子なのかもしれない。
「なあ、向岸。知恵を貸してくれないか? 」
「なに? 」
彼女は不思議そうに僕に聞いてきた。
「たとえば向岸のところへある日突然知らない青年が訪ねてきて、急に力になりたいといいだしたら、どうする?」
「あやしいと思う」
「……だよな。ならさ、どうすればあやしいと思わないんだ? 」
「どうして? 」
「いや、ちょっと聞きたいだけだ。どうなんだ? 」
「……」
しばらく彼女は押し黙って考えていた。しばらくして結論に至ったらしく、答えた。
「仲良くなれば、怪しくないよね」
「……そうできないから、怪しまれてるんだけどな」
「まず相手に自己紹介してほしいかも。そうしなきゃ、相手のこと分からないし」
「……なるほどな」
僕は彼女の意見を聞くと、空になった缶をゴミ箱に放り込んだ。缶は空で弧を描き、ゴミ箱のふちに当たって跳ね返り、床に転がった。
「……ミスシュートだな」
「おにいちゃん、あんまり意地を張らなくてもいいんじゃないかな? 」
「え? どういうことだ? 」
「おにいちゃんは、きっとどこまでもおにいちゃんなんだよ。意地を張ったって、カッコつけても、いつかはばれちゃうよ。おにいちゃんはおにいちゃんとして、人に接していけばいいと思うの」
「……そっか、ありがとな。参考にするよ」
「ありのままを、ぶちまければいいんだよ」
「そうか、ぶちまければ……って」
僕は少し口を止めて考えた。そして彼女の持つ青年誌をさっと取り上げてページを見た。
やっぱり、そのままのセリフで書いてあった。
「没収だ」
僕がそう言うと彼女はさも不満そうに声を上げた。
「今、ちょうどいいところなのに! 」
「だから没収するんだ! 今からこんなもの読んでどうするんだよ」
そう言って僕はそれを手に持って病室に戻ろうとしたが、向岸に呼び止められた。
「待っておにいちゃん。なんで持っていくの? 」
「そりゃ、ほっといたらまた読むだろう? 」
僕はさももっともなことを言うが、彼女はそんな僕を見過ごさなかった。
「それは休憩所のものですよ。私はもう寝に行くから、それは置いておきましょう」
などと言ってスタっと立ち上がって、戻ろうとして僕をじろじろ見た。
「……なんだよ」
「まさか、人に読むなと言っておいて自分だけ読もうなんて、考えないよね? 」
「僕は今コーヒーを飲んだから目が冴えちゃったんだ。そうだな向岸、読まないからもうお前は戻りな」
「お兄ちゃんが戻らなきゃ、戻らない」
「ああ、お前を見届けたら帰るから。なんの後腐れも無く、後ろを振り返ることもなく、さっさと戻るから」
「お兄ちゃん、読むつもりでしょ? 」
「今ちょうどいいとこなんだよ」
「……」
向岸にまるでケダモノを見る目で見られた。
イメージダウン確定、ショックだった。
そんなことで、僕は結局なんの思考の整理もできないままに自室のベットに戻っていた。
そうだ、どっちしにしろ怪しまれてしまう。しかし僕が今一番救うのにふさわしい人は楓さんをおいて他はないだろう。
明日、ほんの少しでいい。話を聞かせてもらおう。
もう人助けについて考える気分にもなれず、僕は結局ベットに入ったまま、深い眠りに落ちていた。
あくる朝。僕は午前六時には目が覚めていた。
昨日はすぐに熟睡した。コーヒーを飲み過ぎたせいか、カフェインはあまり僕の眠りを妨げる作用は無いようだ。冬場は二十二時には眠りに落ちて、六時には目が覚める。夏場はだいたい午前五時に目が覚める。
どうやら冬場は睡眠時間が延びるらしい。まあ、起き抜けの病室は少し寒いしな。
彼と仲良くなる手段を、それからいろいろ考えてみた。
けれども有力な手段もないから、僕は待ち伏せをしようと決めた。病室では万が一楓さんに怒鳴られれば周りに迷惑がかかってしまう。一方廊下ならまだ話せるし、人が多いのだから、彼も誰かに話し掛けられる気持ちの準備はできているだろう。
僕は午前九時から隣の棟に歩いていき、彼の病室の前に到着。怪しまれる可能性が十分あるので、持参したケータイ電話を通路に寄り掛かっていじりだした。
電車に乗っているとケータイだのスマホだのをみんな盛んにタッチしている。それにしても彼らはなんであんなにケータイをいじっているのか、僕には疑問だ。
僕はケータイをかまうことが退屈でしょうがない。
メールや電話をしないから当然だろうが、ケータイにそんな退屈しのぎになる機能が満載だとはとても思えない。ここは小説を持参したいところだが、本では気が散るのと、余計に不審がられてしまう可能性がある。
僕は結局そこで二時間も待つことになった。
ケータイを内容も無く機械的にいじるのはかなり退屈で、おまけに一時間後くらいから足まで痺れてきた。あまりに退屈で頭までボーっとしてきたが、そんな時に楓さんはやっと出てきた。
彼は僕には気づきもしないままにトイレの方の向かった。
僕はストーカーさながらに身を返してついてゆく。こうなれば、トイレで彼の隣に着く。その後はなんとか話し掛けるか。
僕は自分のめちゃくちゃな作戦に内心ドキドキしながら、トイレへ向かった。刑事課から情報を聞き出そうとする新聞記者さながらに、彼が立つ横に立った。
「……どうも、楓さん」
思ったより小さな声が出る。すると少し驚いたように楓さんは目を見開いた。
「なんだ、この前の奴か」
意外と冷静な声だった。
「その節はご迷惑かけました」
「ふん、もういいわ」
ぶっきらぼうな声が返ってきた。
だが今ならまともに彼とやり取りできる。僕は一気に話を進めてしまおうとした。
「本当にすまなかったと思います。普通、驚きますよね。でも、僕は決してあなたをバカにしようとか、いやしい目的があってあなたのところにお邪魔したんじゃないんです。それは分かってほしい。だから」
僕は一旦言葉を切った。
「あなたの力になりたいんです。ほんのわずかでもいい。礼もいらないし、嫌になったらいつでも断ってくれて結構です。だから、お願いします」
そう言って僕は便器から一歩引いて少し頭を下げた。端から用を足してはいなかった。
「……」
楓さんは黙っていた。自分の素直な気持ちを伝えながら、一方で、受け入れられなくて当然だと言う冷めた自分がいた。
「言うてくれるな。しかしな、私は妻も子も失った。けれど私には会社とその二人が世界の全てだったんだ。今さら、何も望まんよ」
「そんな……。何かあるんじゃないですか? その、趣味とか旅行とか」
「そうさな……」
楓さんは便器から離れて、ズボンのジップを上げる。そして物思いにふけるように考え込んだ。
「やっぱりないな。だが、」
間を置いて言った。
「たまに無性に死にたくなる時が来る。そうなれば、――ナイフの一本でも調達してきてもらおうかの? 」
僕は黙っていたけど、そんな自殺の手伝いなどするわけがなかった。それは相手も分かっているだろう。
結局彼にはもう絶望しか残っていないのだろうか? 今までの人生で築き上げてきたすべてを奪われてしまった人間は、もう慟哭するしかないのか? そんな悲しい結末しか彼には、そしてもしかしたら未来の僕にもないのだろうか?
あまりにもあっけからんとする彼に、僕は「明日また十一時に来ます」と言った。
「結論は変わらんぞ? 」
と楓さんは言った。だけれど僕はなんとか彼を少しでも助けたいのと、無償に感じるやるせなさで心が一杯だった。そしてとにかく明日、もう一度だけ行くと言って、自分の病室に戻った。
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