第2話 ゾンビと少女と預金通帳(2)
――友人は多い方が幸せで、お金はある程に良いものだ。人間の幸せとは、傍らに彼氏彼女と呼べる存在がいて、美しい容姿をして運動神経が良いこと。
それは高校まで僕が信じてきた。そして今でも小学生にすら染みついている子供社会の常識だ。
だからみんな競って自分の身体能力の良さを周りに見せつけ、髪型を気にし、美しい異性を隣に置きたがる。これはもしかしたら子供の世界のみではなく、大人でもそうなのかもしれない。
なら僕は何を望むのか。
――分からない。自分の中から湧き出る欲求というものが、今の僕には無かった。
若いころは責任が少ないから挑戦しろ、とか言われたっけ。あれは確か高校の時の教師の言葉だった。でも意志がなければどうすればいいんだろうか? 目的が無ければ……。
結局僕は答えなんか出ないまま考えることを止めた。もしかしたら意志が湧かないのは欲求がすべて満たされているからかもしれない。それなら僕は幸せ者だろう。将来に不安が無いわけでも、現状がすべて満たされているわけでもないけれど、とにかく今を気楽に生きている。
僕は通路を散歩しながら、朝の小鳥の声を窓ごしに聞いて、そんなことを考えていた。
楓恭一郎、五十一歳。元会社員で、現在は無職。二年前から肺がんを患い南里病院にいる。ここにいることからも、もう快方は望めない。ただ死を待つ時間が目の前に横たわっているだけ。
正直、その残された時間の質を高めようと思っても、僕ならどうすればよいか分からない。全くと言っていいほど、分からない。会社で日々忙しく働いている社会人だってその限りだろう。きっと何をすれば良いか分からなくて、困ってしまう人の方が多いはずだ。
彼は病院内でも浮いた存在だった。
よく聞いてみれば、特に病院関係者には疎まれていた。というのも彼は精神的に荒んでいるらしく、よく自殺を図った。しかしこの病院は高い階は窓が開かなくなっているし、辺りは茂った森で自殺ができる環境ではない。最初に投身自殺を図った(もちろん高度不足であばら骨を数本折る重傷で終わった)とき以来、医者たちは彼が自殺をしないよう、食事のフォークから点滴用の管まで、自殺の道具となるものをすべて取り上げてしまった。
人間一人が死ぬことは、簡単なことではない。小型ナイフなら心臓に到達しなければ死ぬことは無いし、他の自殺だって人間の生命を一発で断とうと思ったら大変だ。自分を自分で殺すなんて、僕は考えただけで萎えてしまう。
彼は精神は死を求めるのに、体は生き物として、動物として、一つの生命体として死を拒んでいる。生きていくうえで、身体と頭が連動しない生き物なんて、人間くらいではないのか。
僕はこの病院で最初にできた友人である白織との約束を果たすべく人助けのボランティアをしている。とはいっても未だ一人助けただけだし、はっきり言って助けたかは微妙だった。
消極的性格が災いしてなのだろうか、誰を助けたらいいのかも分からなかった。そんな時、僕がこの楓というおやじを助けようと考えたのは白織優の姉、白織葉菜との会話がきっかけだった。
瑠璃川と別れてから時間が経ち、秋はもう終わりを迎えようとしていた。
この病院は日本海側にあるせいで、これから少しすれば豪雪の日も出てくるだろう。空はどんよりといつも曇り、外出がますます億劫になってくる。
そんな中、葉菜は久しぶりに僕のお見舞いに来てくれた。なぜ弟がいなくなってからもお見舞いにきてくれるか、とある時、僕は彼女にふと聞いてみた。すると彼女は何でもないという顔をして言った。
「そりゃ弟の大事な友達だし。あなたが入院してることが他人事だなんて思っていないわ」
僕はその言葉に素直に感謝した。誰も僕のお見舞いには来ない。僕が入院していることを知っているかもあやしい。だから彼女が来てくれることは本当にうれしかった。 この世界にまだ僕を思っていてくれる人がいたんだ、と思えた。誰かを無償で愛する、そんなことができるのはイエス・キリストか両親だけだと思っていた。だから彼女を僕はたまに畏敬の念で見ることがある。ただ、
「今日もケーキ、焼いてきたわよ」
「……」
彼女のケーキはそろそろ食べるのがきつかった。毎回焼いてくれるけれど、大きさが一人分じゃない。それに一ホール食べきるころには、味にすっかり飽きていた。
今日お見舞いにきた葉菜は、いつも通りケーキを焼いてきた。それを受け取り、話すために休憩所に向かった。
その日も雲は空をおおい、日本海側特有の悪天候だった。廊下も昼間だというのに薄暗く、どこか陰気な雰囲気が漂う。葉菜は茶色のふわふわしたコートをまとい、首に白いマフラーを巻いていた。
僕と彼女の会話は大した中身があるものではなく、最近調子はどうだとか、彼女は研究で忙しいとか、そんな話ばかりだった。
「葉菜さん、曇ってるね」
僕は休憩所の窓から外を覗いた。
「ホントにね、全くこれだからここらへんは嫌なのよ……。冬は寒いし、夏は暑いし、サイアクよね。就職したら、さっさと出て行ってやるわ」
「就職か……」
そうだよな、大学生活を終われば、就職の時が来る。
「そういえば荒巻くん、退院したら大学生活よね。大学生活は楽しみ? 」
「うーん、微妙だな。なんか、時間があり過ぎて結局ここに居る時みたいに時間を持て余してしまいそうだ」
「そうね。確かにヒマかも。時間の使い方は、新しく見つけていくしかないよね」
「葉菜さんは見つかった? 」
そう言うと彼女はぜんぜんっ、と言った。
「一日中寝てることもよくある」
「なんかもったいねーな」
「きみと同じよ」
その言葉がやけに正確で、思わず笑ってしまった。暇な時間は人生の夏休みなんだ。
「何かやるのって意外とめんどくさいよな。寝てる方がよっぽど楽だ」
「ニートの発言ね」
「ここじゃニートだよ。天国だね」
しかし話を聞いてみれば彼女は今は研究が忙しいらしく、その傍らバイトもしているらしい。大したものだな。僕とは大違いだと思ってしまう。彼女もそうやって社会勉強をして前に進んでいる。
「バイトか、大変そうだな。どこでやってるの?」
聞いてみれば彼女は飲食店でバイトをしているらしい。
「わたしね、そこで学んだことが一つだけあるわ」
そう言って彼女は教えてくれた。
「人にこき使われるのって、わたしは嫌い」
「ああ……」
なんというか、プライドの高い彼女らしかった。確かに彼女くらいプライドが高ければ人に扱われるのは気に障るだろう。それは何も彼女に限ったことではない。たぶん僕だってそう思う。
「組織のためにここまで自分を犠牲にするのなんて、日本人くらいらしいじゃない? 全く大した国に生まれてしまったわ……。はっきり言って就職とか不安だらけだし、先のことを考えれば不安が募るばかりよ」
「きっとみんなそうだよ。でも、その先にも喜びとかもきっとあるんだろうな」
なんて、先のことを考えてみる。僕は今まで働いた経験がない。だから分からないし、今はまだ考えないでもいいような気がする。
そんないつもの中身のない会話をつらつらしている時だった。
目の前にひょろひょろの男が、息も絶え絶え向こうの通路から走ってきた。頭は半分はげ、息は絶え絶えぜえぜえと言っている。彼は相当疲労しているらしく、休憩所の前で膝をついた。するとすぐさま医者や看護師が数人駆け寄ってきて、彼を取り押さえた。
「や、やめろぉー、決めたんだ。俺を死なせろぉー! 」
彼が叫んだ。それを医者がけん制するように言った。
「そういうわけにはいきません。さ、早くそのナイフを離して! 」
「やめろ! がぁー」
いつも静かな病院の中で、その光景はあまりに異質だった。僕も葉菜もポカンとその様子を見つめていた。
よく見ればあのおやじ(それ以外に僕は妥当な表現が思いつかなかった。それくらい彼には『おやじ』という表現がしっくりきた。別にけなしているわけではない)は片手に小型ナイフを握っていた。しかし彼の腕は至極細く、とても医者にはかなわなかった。医者もそれを承知していて、多少の危険も顧みずに無理やり彼の手からナイフを奪い取った。
「き、きさまぁー! 」
恨めしい叫びをおやじが上げた。
「早く、鎮静剤急いで!」
医者がそう言うと、看護師は錠剤を医者に渡し、医者はナイフを看護師に渡して錠剤をおやじの口につっこんだ。おやじはしばらくうめき声をあげたが、やがて力なくだらりと体をもたげ、力なく俯いた。
看護師たちはほっとすると、やれやれとあきれ声を出して、そのおやじをずるずると向こうの棟に引きずって行った。
「……なに、あれ」
葉菜がしばらくたって口を開いた。
僕は少し前に不思議少女の向岸(僕の中ではそんな位置づけに決まっていた)から教えてもらったことを思い出し、名前を言った。
「確か、楓さんとかいう人だよ。なんか、自殺をよく図るらしい」
「へえ、なんで知ってるの? 」
「人脈さ」
なんて、らしくないことをなんとなく言ってみた。それをなにも気にするでもなく、葉菜は「ふーん」と納得してしまった。
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