第3話 ゾンビと少女と預金通帳(1)

薄暗い病室では僕の担当医藪川がしきりに診断書を書いていた。

「で、このところどうだい? 話ではあんまり食欲がないみたいじゃないの」

多分僕が必ず病院食を残しているからだろう。

「心配ないです。……今はなんだか、とても気分がいい。ここ最近はずっと安らかで、心が平穏です」

「そうかい。結構結構。人間は少食になると倹約遺伝子が働くんだ。おかげで食事の量を減らしたところで痩せ衰えることはない。むしろ、脳下垂体からα波とβエンドルフィンが分泌されて安らかな平穏と幸福に包まれるんだ。

最近は体重の減少も止まったし、もう調子は良くなるばかりだと思うよ。君みたいにストイックにできないから、こうなる」

藪川はそう言って自分のお腹の脂肪をぶよぶよつまんで、「はっはっはっ」と大笑いした。

「……ははは……はは」

僕は笑えないギャグに苦笑した。

最近はこの老医師も精神的な距離が縮まったせいか、余計に冗談の回数が増えた。理系でカチコチの医者も多いなかでこの人は特別柔軟で、その点は結構なのだが、たまに自分の診断結果に不安を感じてしまうのだった。

「先生あの…倹約遺伝子ってなんですか? アルファなんとかとか……」

「ああ、倹約遺伝子ね。

人間は飢餓において生き延びるために少ないエネルギーを効率よく使うよう体ができてるんだ。だからホントは一日三食食べる必要も無いんだ。

むしろ、仏教の断食やイスラム教のラマダンみたいに、断食することで体は活性化して体内の傷を治す働きがある。その時には脳が一種の幸福物質を分泌して、精神的にも平穏になるんだ」

「へぇ、知らなかった」

「まあ飽食の時代なんだ。食べすぎて短く生きるか、食べずに長く生きるか、それは本人次第かな」

 ほう、なるほど。なら僕はどっちがいいんだろう。考え方によっては食べたいものを食べたいだけ食べて生きるのもいいだろう。もっとも、今の僕はあまりお腹が空かないし、むしろ満腹では動けなくなってしまうから、あまり食べない方がいいだろうな。

「まあ君はちょっと身長のわりに軽いかな…。運動しないならいいけど、体力の面ではもう少し重い方がいいから、退院後スポーツをする気ならもう少し食べておきな。そうだな、今日から玄米食にしよう」

 そういえば僕は退院後は何をするんだろうか? 

退院したらもちろん日常生活に戻る。僕の日常生活とは、もちろん大学生活。しかし僕は大学に一度も行ったことがないのだから、大学生活とはどんなものか知らない。大学入試後すぐに入院してしまったため、僕には戻る場所が無かった。行くあてはあっても落ち着ける場所は無い。

 僕の高校生活はといえば、たいして身の無い抜け殻みたいな生活だった。なりたいものも、目指すものも、夢中になるものもなかった。友人ともその場限りの関係になってしまった。勉強面でも大した成績をおさめちゃいない。家族との関係は……思い出せない。

でも僕はそれを決して悲観なんてしない。

一体自分にとってなにが幸福で、何が大切なのか。そんなことを考え出すと、僕にとっては、親友と呼べる存在も、燃えるような恋の相手も、大して価値を感じられなかった。「俗物的」とさえ思ってしまう。高校生の頃からそんな灰色の人間だったし、今もそうなのかもしれない。自分では分からない。第一、まだその問いに対する答えはない。自分にとって何が幸福であり、何が価値があるのかという問いの。

 僕はいつも通り診察室を出て、いつもの休憩所へ。目的はいつもの缶コーヒーだった。健康のため一日一本と決めているが、最近は午前中に飲むと夕方になってまた飲みたくなる。砂糖も牛乳もたっぷり含んだ缶コーヒーが健康に悪いことは明白であるけれど、なんだか習慣的に飲みたくなる。もともとコーヒーの含むカフェインも中毒作用のある成分だから、僕はコーヒー中毒なのかもしれない。

なんだかやだな、十八ですでに中毒とか……。

 友好関係が狭い(というか話の合う年代がほとんどいない)この病院ではあるけれど、環境に人間は逆らえないというか、老人たちの会話が自然と耳に入ってくる。そんなことを続けていると、嫌でも何が健康によくて何が健康に良くないかの知識が豊富になってしまう。健康について、敏感になる。

何事も先達はあらま欲しきものなり。そんな学校で覚えた古文の言葉が思い出される。人生の教訓は、人生の先輩から習え、ってことだ。 

 僕が休憩室に行くと、今が旬のリンゴとみかんがカゴに入れられテーブルに置いてあった。そばには果物ナイフが添えてあった。

それでリンゴをむいて、今のコーヒーが飲みたいという欲求をごまかすという手もあっただろう。しかし僕は生まれてこの方リンゴをむいた記憶がなく、みかんも食べたいわけではない。

というわけで今日一本目のホットコーヒーを勢いよく自販機から購入。機械は勢いよく「リーダー」の缶コーヒーを吐き出した。

僕はそれを掴みとり、勢いよく栓を抜き、缶ごしに伝わる液体の温もりを感じながら、一口目を口の中に入れた。「リーダー」に見られる芳醇な香りとコクが僕の口いっぱいに広がり、脳が今日初のカフェインに歓喜している……! ような気がする。そのまま液体は舌の上に甘さと、それでいて存在感のある苦みを残して喉へ。まだ温かさを残して液体は流れて行った。

ホットのおかげで「リーダー」のコーヒー豆の香りがアイスより強調されている点がホットの強みだろう。僕はほっと息を吐いた。

「……うまい」

思わず口から洩れた感嘆だった。

コーヒーの夢から醒めたのか、急に傍らに気配を感じて、僕は横を見た。

誰もいない。しかし、確かに誰かいた気が……。

そう思い下を向いた僕は、一瞬心臓が飛び出るかと思った。そこには僕をまるで珍しい生き物でも見るかのように見上げる女の子がいた。

あの、僕を異常に怖がる少女だった。

「……」

「……」

一瞬、互いが凍りついた。

しかし、僕は完全に不意を突かれたことへの驚きと、独り言を聞かれた恥ずかしさで顔に血が上っていくのを感じた。思わず後ろに下がった。女の子も完全に僕に気づかれないものと思っていた(もしくは僕の意識に自分は入っていないと確信していた)みたいで、あたふたしながら後ずさった。

 なんなんだよ。この子は一体! よく分からないがここにたびたび姿を現す正体不明の少女だった。

「き、君は一体……なんなんだよ?」

「え? わ、わたし? わたしはわたしよ。向岸ねねよ」

「ねね? 君の名前? 」

「そうよ、普通分かるじゃない。察しが悪くてかわいそうな人」

 ……なんだこの子。急に口を聞いてみれば、少し嫌味くさい。

「向岸さん……か。この病院なんだね? 何棟? 」

「B棟」

「ああ、B棟。ならこの棟の隣だね。歳はいくつ? 」

 僕は彼女の幼い容姿から小学生くらいだと予測した。

「わたしは、十四歳」

「中学二年生? 」

「うん……、中学校には、行ったことないけど」

「へえ……、意外だな」

「え? 何か言った?」

「いや、なんでもない」

随分幼い中学生だな。それに話し方といい口使いといい、まるで小学校低学年だ。

「……ずっとここにいるの? 」

「ううん、ちょっと前に事故に会ってからここにいるの」

「そりゃ大変だね。僕の友達はさ、ここでずっと暮らしてたよ。生まれた時からここにいたんだよ」

「そう。ここに居る子なんて、みんなそんな感じ。おにいちゃんは、ちょっと違うみたいだけど」

 僕はおにいちゃんという言葉が自分を指していることに最初気が付かなかった。そして彼女が少しでも心を開いてくれた、という気がして少し頬がほころんでしまった。

「まあ、僕は違うよ。最近ここに入ったばかりだし、ずっとは居られないかな」

「そう。わたしはそんな風に思わなかった。おにいちゃんはずっとここに居ると思ってた。だって」

 心が病気になってるもん。そう彼女は言った。

「心が病気か。別に僕は、自分では普通だと思ってるよ。確かに精神病で入院したけどね。もうだいぶ良くなってるんじゃないかな」

 しかし彼女は首を振って真っ向に否定した。


 彼女が何か言ったが、僕にはその声が聞こえなかった。

彼女の言葉が遮られたのは、大ボリュームで叫び声を上げる人が緊急搬送されて、休憩所の隣を通ったからだ。

見れば、中年のいかにもおやじ顔をした男性が、移送用ベットに寝かされて運ばれていた。

顔は丸顔だが痩せて頬がこけていた。肌の色がとても白く、しばらく日に当たっていなかったのかもしれない。毛の生え際がかなり後退しており、おでこにはもう前髪がなく、横に二本皺が通っていた。痩せて目がやけに大きく浮き出て見えた。それが電灯の光を反射して、不気味な光を帯びていた。しかめ面をした表情は、まるで昔映画で見たエジプトのミイラの生き返った奴みたいだった。

よく見れば太いロープでベットにガチガチに縛り付けられている。それを運ぶ医者や看護師はなぜかあきれ顔をしている。それに対して患者の男性は「アーッ! 」と喚きながら右手を天に伸ばしていた。四肢をジタバタさせて、金属製の移動ベッドがガチャガチャとうるさい音を立てている。

その一団が嵐のように病院の静寂を破っていった後、再び僕らはぽつんと残された。

「……なんなんだ、今の」

「楓さん」

「楓さん? 」

「そう。肺がんの患者さん。少し前からいるの。だけど、病気で死ぬまえにもう死にたがって何度も窓から飛び降りてる」

「じ、自殺志願者か……。ってか、なんで楓さんのこと知ってるんだよ?」

「仲良しの看護師さんが教えてくれるの。みんな、よく愚痴ってるらしいの。扱いづらくて困った人だって」

「ふうん……」

 自殺志願者で、迷惑が。そりゃ、扱いづらいよな。下手に死にたいから死なせてあげましょう、ってわけにもいかないし。本人も死にたいのに死ねなくて、互いにどうしようもないってわけか。

「あの人は心が病気になってる。ここに来たのは癌のせいだけど、その前から心は病気だったみたいよ」

「そうなのか」

「うん、見ればわかるわ。良かったね、お兄ちゃん。友達ができて」

少女はそう言って僕に笑った。

僕はこの少女に病気病気と言われて、不快感が募った。しかしここで取り乱すことは年長者としての自覚に欠ける。抑えろ、僕。こらえるんだ。この子はけつの青い子供ではないか。話題を別の話に移そうと思った。

「きみって……向岸さんて、ここに詳しいね。さすが、ここに関しては先輩だな」

「……先輩」

 彼女は僕の放ったその言葉をゆっくり吟味しているようだった。それを自分なりに呑み込んで、感想を述べた。

「……恥ずかしい。そんなこと言われたの、初めて」

「そっか。しばらく病院にいるもんな」

 彼女くらいの年齢なら、もう後輩がいていい時期だろう。それでもそんなこと言ってもらえない状況の彼女だから、恥ずかしさを覚えても無理はない。

「……ありがとう。今日はこんなに僕と喋ってくれて。

最初はなんだか……変わった子だと思ってたけど、話せば物知りだね。久しぶりに同年代の子と話せて、うれしかったよ」

 そう言うと、彼女も急に恥ずかしそうに胸に手を当てた。ほおが、急に恥ずかしさで赤く染まって、それが白い肌によく目立った。さっきまでの嫌味口調とはあまりに対照的だった。

「わ、わたしも初めてこんなに喋った……気がする。おにいちゃん、変な人じゃなかった……」

 変な人って。彼女の中でさっきまで僕は、変人の分類に分けられていたみたいだ。

「変な人ね……。まあ、僕の持論ではあるけれど、みんな人間なんて変な奴なんだよ。みんなそれぞれ他人と違っていて、だから個性があって、だから普通は存在しないんだ」

 急にそんなことを言われて、彼女は少し驚いた顔をした。まあそうだろうな。でも彼女なりに僕の発言を受け止めて(彼女はとても純粋だろう。普通はこの類の発言は受け流されて終わってしまうから)、少し悩んで答えてくれた。

「それ、ちょっと違うと思うな」

 ためらいがちな笑いが混じっていた。

「普通は普通だよ。でも、わたしとおにいちゃんは、普通じゃないと思う」

「……まあ、そうなのかもな」

 答えは出ないけどな。僕は言った。

僕は「普通」という言葉が好きじゃない。なんだか皮肉めいたニュアンスがこもっているから。「普通に幸せ」とか、「普通のひと」とか、なんだか自分ではあまり言いたくない。

「私はおにいちゃんと今日仲良くなった、だからわたしにとっておにいちゃんはもう普通の人じゃない。おにいちゃんもわたしと仲良くなった、だからおにいちゃんにとってわたしはもう普通のひとじゃない、そうなんじゃないかな」

「……ああ、なるほどね。結局普通の人か特別な人かって、見る人次第なわけか。でも、君の……向岸には一つ盲点があるよ」

「なに」

「僕は最初から変な人だったろ? 」

「ふふ」

 向岸は、くすっと小さく笑った。

それはなんだか相手に見せつけるような笑顔じゃなく、表に出る感情を抑えつけようとして漏れたもののようだった。なんだか、その自然さに僕の頬も自然にほころんでしまう。

「やっぱりおにいちゃんって変な人だね」

「それは、お互い様だな」

 かくして変な二人は今日、少しだけ仲良くなった。

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