第2話 酒宴の花(6)


  電車は駅で、溜まった熱気と一緒に大量の人間を吐き出した。

僕はそれに乗じて電車を降りた。そこから電車を乗り換える。電車を二回乗り継いでいった駅から徒歩で一〇分歩いた場所が、今日の目的地だった。

 正午を回ったところで、やっと目的の駅に着いた。場所はどこにでもあるような地方都市だ。なんてことない普通の町だ。

「えーっと、確かこのへんだよな……」

 住所から住む場所を突き止めることは、僕にとって初めての経験だった。

仕方ないことだけれど、かなり手こずった。もし路上の住宅地図がなかったら完全にお手上げだったろう。一時間の格闘でなんとか僕は目的のアパートに着いた。

少し小汚い、普通のアパートだった。それが、僕の久しぶりの外出の目的地だった。しっかりアパートの名前まで確認し、ぼろっちい階段を上った。

 目的の部屋の前に立ち、僕は今更だが少しどきどきしてきた。きっと相手は、見ず知らずの相手が訪ねてきて驚くだろう。だが僕は彼に伝えるのだ。僕は南里病院の患者で、そこで瑠璃川さんと仲良くなった人間だ、と。あなたの元彼女の瑠璃川さんの命が明日か明後日までなんだ、と。だけどそのことを瑠璃川さんはあなたに伝えていない。病気を気付かれまいと、ずっと隠し続けてきたのだと。あなたの身を自分より大切に考える彼女だからこそ、あなたに何も言わなかったのだと。

 昨日僕が瑠璃川の部屋で見たおびただしい手紙は、彼女の闘病生活について一切の言及が無かった。瑠璃川には本当に申し訳ないと思うけれど、中身をいくらか拝見した。みな普通の生活と変わらない体裁を装っていることが明らかだった。

 僕は、少しは彼女と仲良くなった気がしていた。少しは彼女と心が繋がった気がしていた。でも蓋を開いてみれば、僕は彼女のことなんか何にも知りやしなかった。そう僕は思ったのだった。

 僕はゆっくりと深呼吸し、インターホンを鳴らした。

 しばらく待っていた。

たぶん一分くらい経過したころだろう。あまりに相手が出るのが遅い。時間が無かったから今日来たけれど、今日は平日だ。普通の社会人なら仕事に行ってる時間だよな。

僕は仕方がないと張り込むことにした。彼がこの家に住んでいるなら、今夜戻ってくるはずだ。話はそれからにしよう。まだ一日だけだけれど、時間はある。

 なんだか僕は急に瑠璃川が心配になってきて、最悪のシナリオを思い浮かべた。

最悪のシナリオ。それは彼女が僕の留守中に息を引き取ってしまうことだ。彼女の望みをかなえられないどころか、彼女の死に際にすら対面できない。そんな悪い予感が頭をよぎったが、考えても仕方ないことなので考えるのを止めた。

 ふと見るとこの部屋のネームプレートが無い。他の部屋には確かにネームプレートがあるのに、おかしい。不審になってドアノブをひねってみた。

それはいともたやすく開いた。僕はその中を覗いた。

 その部屋は空き家だった。

「そんな……」

 ここまで来て、なんてことだろう。その男性はもうここに住んでいなかった。

 僕は一気に絶望感に駆られて、やり場のない気持ちに襲われた。

 急いで下の階へ行き、「管理人室」と書かれた部屋のチャイムを鳴らした。しばらくして初老の女性が出てきた。手には黒っぽい猫を抱えていて、僕が猫遊びを邪魔したらしく少し怪訝な顔をしていた。

「あのー、すいません。上の四○二号室の男性と友達で、久しぶりに訪ねたんですけどもう住んでないみたいで……。だから」

 僕はダメもとで聞いてみた。

「よろしければ引っ越し先を教えてくださいませんか? 」

 最初管理人はいぶかしむように僕の顔を見ていた。だがしばらくして答えた。

「あなた、家違いよ」

 といった。

 ふむ、家違いとはどういうことだろうか?

「と、言いますとどういうことなんでしょうか? 」

「あそこはずっと空き家よ」

「え?そんなはずは……」

 ないはずだよな? 僕は確かに酔っていたけれど、長い住所は正確にメモしたはずだ。

「そんなはずはありません。ここ宛てに手紙を送っていた人がいたはずです」

 すると管理人はさらにいぶかしむように僕を見た。僕は畳み掛けるように質問した。

「あの、何年くらい空き家なんですか? 」

「どうかしら? ちょっと待ってて」

 もしかしたら彼女の手紙は、十年くらい前のものなのかもしれない。そう言えば日付を全く確認していなかった。それなら管理人がずっといないと言ったのにも合点が付く。

「……ああ、いたいた。もう十年も前に男性が一人住んでいたわ」

 やっぱりか。僕は内心ほっとしてしまった。やはり瑠璃川の彼氏はここに住んでいた。十年前というから、瑠璃川の部屋にあった手紙は多分十年以上前のものか。大学在学中のものではないだろうか。

「えーっと、すみません。その人の引っ越し先を教えてください」

「それはあなた、個人情報だもの。教えられないわよ」

「ぐっ……」

 僕はひるんだが、もうここまで来て引き下がれない。僕は瑠璃川のことを管理人に話した。僕にはそれ以外希望を持てる打開策が思い浮かばなかったからだ。

 話の内容はもちろん、あまりに熱心に話す僕の姿がいたたまれなくなったようで、「最近の若者の中にも立派な人がいるものね。……わかった、口外無用でお願いね」と特別に聞き受けてもらえた。

 しばらく部屋に入り、しきりに段ボールをあさる音が聞こえた。それが止むと管理人は住民の登録帳を携えてこちらにきた。

「えっと四○二号室、四○二号室……」

 しばらく調べ、こちらに顔をあげた。その顔は、さっきと一変して、知ってはいけないものを知ってしまったような顔だった。

「あのね、もしかしたら気を悪くするかもしれないけれど、四○二号室の住民はどこにも引っ越してないわ」

「え? どういうことですか」

「八年前、自動車事故で死んでる」

「……まさか……」

 そんなわけはないだろう。瑠璃川は、彼は他の女性と付き合いだしたと言っていた。

「その彼女には悪いけれど、もう彼はこの世にいないわ。それにしてもおかしいわね、その人も交際相手だったなら、元恋人の死くらい知ってるんじゃないかしら? 」

「そ…そうですよね。その人、そんなこと一度だって口に出したこと無かったのに……」

 僕は、顔をハンマーでぶたれたような衝撃を受けていた。起こっている事態の帳尻がまったく合わない。僕には、この事態をどう考えれば良いのか、全く分からなかった。

管理人の女性は、そんな僕の顔を気の毒そうにしばらく眺めていた。しかしちょっと時間が経つと、埒が明かないと考えたらしい。

「まあ、私にできることはこのくらいだから。じゃあね」

 そう言って管理人はドアを閉めた。

後には棒立ちになった僕だけが残された。僕には頭が混乱してよく分からなかった。恋人が八年前に死んでいるとは、どういうことだろうか? それをまさか知らない瑠璃川ではないだろう。

 僕は少し考えて、冬だというのにじんわりと冷や汗を流してしまった。そういえば、なんで彼女の手紙が彼女の手元にある? 普通それはもらった相手に行っているはず。

「……」

 おそらく結論は分かった。なんで今まで僕は気づかなかったのか。僕の計画は見事に失敗した。それどころか、僕は自分で墓穴を掘っていたんだ。僕は居ても立ってもいられない気持ちになり、アパートから思わず駆け出した。

目指す場所はただ一つ、瑠璃川のいる南里病院。

最初彼女が言った願い、それが彼女の本心からの願いだった。そんな小さな願いすら叶えられない自分が心の底から情けなかった。

 ゆっくりと流れ落ちる点滴の音が、彼女の部屋に響いていた。僕が彼女の部屋にたどり着いたのはもう夜の八時だった。病室には彼女の危篤を聞きつけた身内やら友人やらがいるが、部屋は閑散として、たまにすすり泣きの声が聞こえるだけだ。心臓の脈打つセンサーが、淡々と死へのカウントダウンをしている。

僕は誰も知る人がいないのを気にせず、寝ている瑠璃川のベッドにしがみついた。

「瑠璃川さん、瑠璃川さん! 僕だよ! 荒巻大輔だ! 」

 そう言うと、まだ意識はあるみたいでゆっくりこちらを彼女は振り返った。顔は普段の色白から、少し土気色に変わっていた。後ろから小さく「おおっ」という声が聞こえた。

他の人に何が分かる? 彼女のやり場のない愛情も、一人残された孤独感も、きっとここにいる人は誰も分からない。僕だけが彼女を理解している。

「やっとあなたを喜ばす方法がわかったよ……。なのに、ごめん、ごめんよ。今日ここにいればもっとたくさん話せたのに! もっと一緒に時間を過ごせたのに……。 

最初からあなたは、自分の本当の気持ちを僕に言ってくれてたんだ。それなのに僕はあなたを疑って、お酒を飲ませて、手紙を見て恋人に会いに行こうとした。あなたを信じていなかった……」

 彼女はいつも僕に向けてくれていたような優しい微笑みをした。

「……いいじゃない、最期にはちゃんと来てくれた、ね? あの人に会いに行ったんだ」

「……ごめんなさい……」

「わかったでしょ? ホントは彼、だいぶ前に死んじゃってた。けどね、その時にはあたしは振られ、別の女の子と付き合ってた。だから結局二人一緒に事故に会って、永遠に届かない人になっちゃった」

「……」

「あたしはね、ずっと自分をだましてた。彼は死んだって悟るのが嫌で、だからずっと過去に閉じこもって…・・・。それでも最後に前を向けたのは君のおかげなんだよ? 」

「僕の……おかげ?」

「そう。窓辺に白のカーネーションがあるでしょ? 私はあの花みたいに、ずっと抜け殻のような病院生活を過ごしていた。でも、君が来てまた希望が湧いた。君の純粋な目を見ていると、自分の内側にわずかな光が差し込んでくるような気持ちになったの。自分の檻の中から、勇気を持って抜け出そう、私もがんばろう、って思えたの。

……荒巻くん、最後にあたしのお願いを聞いてくれる? 」

「もちろんです! なんだって聞きますよ! 」

「なら、あたしの息子になって。最後に、母親があたしにくれた名前の使命を全うさせて。愛する人は失ったけど、女のあたしがいた確かな証になってほしい」

そうだ、母親だ。

僕が彼女にずっと抱いていた特殊な感情、親しみやすさのような、それともどこか違う感じの気持ち。その正体は、自分の母親と彼女をだぶらしていたんだ。

今やっと僕は自分の疑問に回答を得た。だから僕はわがままを言ったんだ。子供が母親にだだをこねるように、彼女の過去を勝手に詮索した。母親を喜ばすためだと思ったんだ。

僕は彼女の冷たくなってしまった手をしっかり握った。少し前がうるんでいたけれど、とてもうれしかった。

「……あなたは僕の母親です。今までありがとう。これからも僕のこと、見守っていて」

 真冬の夜は本当に寒くって、だけれど僕はどうしても病院内の薬物的な匂いが嫌で外に出た。パジャマにジャンパーを一枚羽織っただけだった。片手にはビールの缶を引っ提げていた。僕は息が白くなるのも気にしないで、中庭のベンチに腰かけた。そして勢いよく缶ビールの蓋を開けた。すでに缶を持つ手が冷えて赤くなっていた。

 僕は瑠璃川の言っていた言葉を思い出す。

――お酒の味がわかったら、一人前の大人ってことかしらね。

僕は勢いよくビールをあおった。零度近い屋外で冷えたビールを飲むなんて、はたから見たらきっと頭のおかしな奴だろう。冷たい炭酸が口の中を冷たくし舌に痛みを与えた。液体は喉をひやりと通って、内臓へ流れ込んで身体中を冷たくした。

「母親、か……」

 よく考えてみれば、僕は彼女に甘えっぱなしだったと思う。彼女のために昔の恋人を探しに行こうとしたことだって、よく考えてみれば、彼女を幸せにしたいという「自分の願望」を追求した結果じゃないか。僕は彼女を見ているようで、結局彼女の向こうにいる自分の願いを叶えたかっただけだった。でもそんな僕を否定せず、最期まで受け入れてくれた瑠璃川の優しさを想った。もうあの優しさに、僕は二度と触れ合えないとも考えた。

僕は誰に言うともなくつぶやいた。

「……ちくしょう、やっぱまずい……」

鼻水が垂れてきて、おまけに目まで水が溜まってきた。僕は構わずそれをジャンパーの裾で拭い、そのまま顔をうずめたのだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る