第2話 酒宴の花(5)
癌治療のみに限らずあらゆる病の最たる治療方針は「早期発見」だ。問題が小さいうちに取り除いておくことはなにも病気だけに当てはまることじゃない。僕はそれを重々承知の上だったけれど、その日の晩だけは、瑠璃川に会ってから葉菜と会うまでに時間が空きすぎたことを恨みたい気持ちになった。
その日の晩、僕は緊急治療室近くのカウンターへ行き、瑠璃川について尋ねてみた。昼間あえてここを通ったのは看護師に不審がられないため。僕が開示してほしい情報はただ一つ。瑠璃川天海の危篤の予定日だ。僕はカウンターへ行き、自分が瑠璃川さんと親しいこと、気持ちの準備だけにでも来たるべき日を教えて欲しい旨を話した。すると看護師は少し隣の看護師と話した後、特別だと言って教えてくれた。
「えっ……三日?」
僕は思わず尋ね返してしまった。
「そう、もって三日。もう彼女は心の準備をするように伝えられているはずよ」
「……」
言葉に詰まってしまった。
たったの三日。あまりに短い。ということは僕が彼女と初めて知り合った時点で彼女の寿命は二週間を切っていたことになる。タイムリミットが一週間や二週間はさすがに予測していたけれど、まさかたったの三日だとは思わなかった。とんだ短時間だ。
僕は看護師に礼を言った後、すぐさま休憩室に行った。人気のない休憩を何往復かそわそわしながら早足で歩いた。その後本日二本目の缶コーヒーを飲んだ。健康に悪いことは承知だ。缶コーヒーなどは専門家に言わせればコーヒー牛乳に近い。ミルクも、そして何より砂糖がたっぷり入っている。けれど今夜に限っては仕方ない。自分を落ち着けるために飲むのだ。しかしコーヒーを飲んでもその日の焦りは消えなかった。
あと三日。これからは医者の監視も置かれ余計自由もきかなくなる。それなのに僕は彼女の望みを聞き出し、彼女を喜ばせなければいけない。たったの三日で。果たしてどうしたものだろう。
たったの三日。もし瑠璃川を救ってあげなかったらどうしよう? 仕方なかった、と自分に言い聞かせながら他を当たろうか? この病院には、まだまだたくさんの患者がいることだし。でももう一人の自分が、それは間違っていると言っている。彼女を救えなければ、僕も自分に自信を失ってしまうかもしれない。瑠璃川を失った悲しみと自分の無力さを味わって。
危篤まであと二日半。僕は午前中に瑠璃川のところへ行った。
「あら、通い詰めね」
なんて言われたけど僕が深刻な顔をしていたからかもしれない、彼女は少したじろいだ様子だった。
雑談もそこそこに僕は本題を切り出した。
「瑠璃川さん、前に言ったこと覚えてるかな? 僕はこの病院で人助けをしたいんだ。まだ誰も助けてないけど、できればあなたをその第一号にしたい。だからさ、望みを聞かせてほしい。なんでも言ってくれ。すべてが満たせるわけじゃないけれど、できることはなんでもするつもりだよ」
「あら? そうだったわね。んーそう言われてもなー」
彼女は腕を組んで考え出した。ちなみに僕が彼女の寿命を知っていることは伏せてある。それはとてもじゃないけど言えない。
彼女はしばらく考えて、僕に結論を言った。
「そうね、助けてくれるんなら毎日荒巻くんに会いに来てほしい。それであたしが死ぬ瞬間にそばにいて欲しい。以上! 」
「そばにいて欲しいって……」
あまりに平凡で、むしろ僕が困ってしまうようなことだった。もっと有終の美を飾るような、そんな望みを僕は臨んだのに。
「瑠璃川さん。ほかに、もっとないの? こう……なんか心が湧き立つようなさ。すごくうれしくなることが」
「あたしは重病患者よ? 喜んだ勢いで昇天しちゃったらどうするの? それにね、死にかけていくほど普通が恋しくなるのよ。やっぱり普通が一番だってね」
「そういうもんですか」
「そういうものよ。それに、身寄りも恋人もいない身だから、せめて君がそばにいてくれたら、それはあたしには願ってもない幸せなの」
たしかにそうかもしれない。病院に入る患者は大抵初めて思い知る。健康であったことがどれだけ素晴らしいものだったのか。五体が健康に動き、血が正常に流れ、内臓が活き活き働いている。それは当たり前でいて、本当に幸せなことに違いない。ここの患者から、もう何回も僕はそのことを聞かされていた。
でもなんだか納得がいかなかった。彼女が自分に納得しているならなんで初めて出会った時彼女は泣いていたのか。死期を知らされたから? 未練があるから? 彼女は確か手に写真を持っていた。それが彼女の望みに繋がっているかもしれない。
迷っている猶予はないだろう。僕は意を決して立ち上がった。
「それなら瑠璃川さん、僕と一緒にまた飲みませんか? 」
彼女はおそらく酒に強い。一方僕はビール一杯で寝込んだ男だ。しかしチャンスは彼女と飲んだ時しか、もうないだろう。彼女を潰れさせ、その隙に写真を確認する、もしくは彼女をそそのかして本音を語ってもらおう。死に際に酒を大量に飲ませてしまって申し訳ないとは思った。
望みが本当に無いならそれでよし。素直に受け入れる。でももし彼女に望みがあったなら、僕は彼女の願いをかなえるために奔走しよう。それが白織の遺志だから。……いや、違う。僕は本当に彼女に幸せになってほしかった。
「いいわね、いつにする? 」
「思い立ったが吉日です。今夜飲みましょう! 」
そんなこんなで僕は夕方になるまでに自室に一回戻り、財布を取り出した。そして先に酔い覚ましになる錠剤を密かに売店でいくつか購入し、病院着のポケットにそれをひそめておいた。時間は六時から。それは十時に看護師が点呼にやってくるから、それまでにやっておきたいもろもろをすべて片付けてしまうためだった。空き缶を片付け、備え付けの冷蔵庫からお酒をすべて抜く。そして瑠璃川をベットに寝かす。
……まあ、考え過ぎな気もするけれど、念には念をだ。もし瑠璃川の願いを聞き出したところで、多分二日酔いに悩まされるだろう。でもそれは仕方ない。我慢しよう。気力で耐えよう。僕には健康な体がある。満足に動く手足がある。不安材料は重病患者に大量にアルコールを飲ませること、もし途中で看護師が来てしまったらどうしようか、ということ。僕の立てた計画は強引にして粗相なのかもしれない。でも僕にはそれ以外にできることは無かった。
それに、僕は納得できない。彼女みたいな魅力的な人が、親と幼く死に別れ、恋人に捨てられ、宿った子をおろした残酷な現実が。そんな現実があっていいわけがない。彼女には何の咎もないじゃないか?
だから僕はやる。荒巻大輔は瑠璃川天海を喜ばせる。こんな世界でも生きてて良かったと思ってほしい。
時間を見計らって僕は彼女の病室を訪ねた。彼女はいつものごとく僕に優しい笑みをしてくれた。今日は夕飯は病院食ではなく売店で買うと看護師には断ったという。僕は瑠璃川を車いすに乗せ、それを押しながらエレベーターで地下まで行き、夕飯とお酒とおつまみを買った。途中、あまりに僕が勢いよくお酒をカゴに入れるのを見て瑠璃川は、「ちょっと入れ過ぎじゃない? 」と言ったが、今日は自分の限界を知りたいというと、なぜか納得してくれた。まあ大体限界なら知っていた。僕の限界はせいぜいビールコップ二杯といったところだろう。しかし今日はもっと飲まねばならない。
買ったお酒はとても重くて、僕は瑠璃川の車いすも押さなくてはいけなかったので、肉体的にとても辛かった。
病室に戻ったときには息も絶え絶えだった。「大丈夫?」という彼女の言葉に僕は大丈夫です、といって一緒に乾杯をした。
僕は智略家であるから、彼女のコップが空けばすかさずお酒を注いだ。まあ未成年の方にはそれ以降はあまり語れない。お酒なんてまだ知らなくてもいいし、僕から言えばとても喜んで飲むような代物ではないからだ。しかし僕はお酒を巧みに使い、見事に彼女を眠らせることができたことはここに保障しておこう。計画は成功したのだ……と、言いたいところだけれど、はっきり言って成功とも失敗ともいえない状況になった。
予想外のことが起きたのだ。
それは宴もたけなわになったころである。彼女はふと元彼氏のことを引き合いに出してきた。
「……でね、その男なんだけどぉ、すごーくいい男だったのよぉー」
「自分を振った男を褒めるんですか」
確か僕はその時ジュースをこっそり飲みながらも、すでにビールをコップ一杯飲み干したところだった。瑠璃川に関しては僕の比ではないくらいにお酒を飲んでいた。彼女も相当な酔い方をしていたけれど、僕も意識が朦朧として意識を保つのに精いっぱいだった。だからこの会話は果たしてどこまで正確なのか僕自身自信がない。
話の主旨はこんな感じだったはずだ。
「そう! あいつはあたしを振りやがった。でもあたしはあいつが未だに好き。好きすき!
どうしようもなく、好きという気持ちは止められないわ。ほら、ゲーテだかアリストテレスだか知らないけどぉ言ってたじゃない? 『恋愛は人生最大のイベントだ』って。あたしもさー、エイズ移されて子供までおろしたのになんだろうね、この気持ち……。
荒巻くん、あたしの人生最大の後悔を聞いてくれる?」
「なんですか? 」
「あたしが人生で一番後悔してることはね、子供を産まなかったこと。あいつの血とあたしの血を引く子供をおろしてしまったこと。もしあの子を産んでればってー何回も後悔したわ。そもそもあたしの名前の瑠璃って色はマリンブルーって色。下の名前も海がある。これは昔お母さんが言ってたことなの。女の至上の幸せは結婚することなのよ。結婚して、子供を産んで家庭を持つこと。つまり母親になることだ。『海』はすべての生き物が生まれた場所、だからそんな海を女の子の私になぞらえて付けたんだって」
そして彼女は続けた。
「素敵な話ですね。……ひっく……」
確か僕は酔って、大して話を理解できなかった。
「……知ってる? 太古、原初の海のイオン成分は羊水や血清の成分にとても近いの。それは生命を生み出した海が『母親』だった証拠。地球上でオスは子供を産むことはできないけれど、生き物の中にはメスだけで子を宿し、産んで育てる生き物だっている。『母親』はいつだってたくましい生き物なの。もしあたしにそんな強さがあったら……。もし男がいなくたって子を育てる強さがあったら……。もしかしたらあたしはもっと強く生きられたのかもしれない。辛い闘病生活にも負けないで、子供のために未だに延命措置のための薬を飲み続けたかもしれない」
そう言って彼女は嗚咽を漏らして泣き出した。
「薬の投与をやめたんですか?」
「……うん。お医者さんにはこの癌はもうほとんど治る見込みがないって言われた。だから残りの時間の使い方も、どのくらいの時間生きるかもある程度なら自分で決められるって。あたしは、端から抗がん剤投与もほとんどしないで、最短コースを選んだわ」
「……」
「おかげで容姿はほとんどやつれてないし、苦しみだって薬の副作用なんてないもの、少ないものよ。親戚筋は遠い人しかいないし、友達も今は出世しだして忙しいころ。それに比べたら随分あたしはのんびり過ごせたわー。
でも、子供を産むべきだった。自分の病に気づくのが遅すぎた。せっかく両親があたしにくれた大切な使命なのに、あたしはそれすら全うできなかった。あたしがもし世を去るならそれは病気のせいじゃない、あたしを殺すのは自分の心の弱さ。母親として生まれ来る子供を迎えてあげなかった、そのつけが回ってくるのよ。そんな暗い後悔と未練を誰にも言えないままあたしは死ぬところだった。……そう、君が来るまでね。君はまるで……」
丁度いいところだったので非常に申し訳ないが、僕はここら辺で胃で吸収したアルコール成分が全身を駆け巡って意識が無くなった。それまでお酒を注意して飲んでいたのに、ここに来て話に夢中でビールを無意識に口に運んでいたからだ。やはり、僕は自分の限界は超えられなかった。しかし九時半ごろに目覚めると瑠璃川も見事に爆睡していた。片手には日本酒の瓶がある。僕が彼女を潰したのではなく、彼女が勝手にその後潰れてしまったのだ。
お酒で頭はガンガンするし、若干吐き気を催して最悪な気分だった。
瑠璃川に布団をかけ、空き缶を整理して、最後に彼女に心で謝りながら、写真を探した。その写真は引出しにあって、すぐ見つかった。健康的な笑顔をした痩身の男性。言わずと察しがつく。彼女の元彼氏だ。それと同時に大量の手紙。ほとんどが一人の男性宛てだった。すべてこの病院から送られている。僕は改めて彼女がいかにその男性に執着しているかを悟った。僕はそれを確認し、こっそり彼女の部屋を出た。残りの時間、僕は何をすればいいのか分かったのだ。
瑠璃川の宣告された危篤の日まであと二日の朝、午前十時。僕は一人電車に揺られていた。手には一枚のメモ用紙を握っていた。
昨日彼女が送った手紙の行先、そこへ僕は向かっていた。病院から朝一番の八時発のバスで町まで行き、そこから電車に乗った。外の町は冬の寒空でどんより曇っている。今にも雪が降り出しそうだった。久しぶりの町の景色。通勤時間のため電車は人でごったがえしている。なんだろう、久しぶりの町なのに、ちっともうれしくもない。
近くにいたサラリーマンはとても会社に行くのが嫌なようで、猫背で下を向きながら何回もため息を漏らしていた。目の前の座席の若い女性は、若いはずなのに濃いルージュの口紅をたっぷり唇に塗りたくり、不自然なほどファンデーションで白くなった顔を手鏡で覗きこんでいる。胸のコートからは、流行りのマスコットキャラクターとプリクラがじゃらじゃらついたケータイが覗いている。近くの高校生のカップルは盛んに互いの体を寄せ合ってなにか小言で喋っていた。瑠璃川も昔はこんな電車に乗って会社に勤めていたのだろうか? なんて思ってしまう。
僕は多分町が好きではない。むしろ病院の方が今は心地いいくらいだった。今の社会には決定的に何かが欠如しているような気がする。それをうまく表現できるほど頭のいい僕ではないから、言葉では言い表せない。
白織の言葉がふと頭をよぎった。――みんな自分の殻に籠っている。
自分の利益を考え、自分がどう見られているかをいつも気にしながら、他人との距離を測って生きていくこと。それが今の社会の人間関係だ。でも僕はそれをちっとも良いこととは思えない。自分の利益を追求することが本当に自分の幸せか? 自分と他人の勝ち負けを気にすることどにんな意味があるのか? お金が欲しいとみんな言うけれど、お金を稼いでモノを買うことが、自分の人生の最終目標なのだろうか? 彼氏彼女がいれば本当に幸せなのだろうか?
この町にも、どこの町にも蔓延するそんな物欲的なムードが僕は理解できないし、理解したくもなかった。むしろ、白織がいて瑠璃川もいる分、退屈ではあっても僕は南里病院が好きだった。好きな人がいて、その人たちといつも会える。ここ何年か科学技術は大いに発展したのに、そんな人を見つけられないために心に溝を作っている人がごまんといる。人間社会は発展したけれど、人間個人はむしろ退化したのではないだろうか?
でも、僕にとって大事な人が死んでいく。白織はもうこの世にいない。そして瑠璃川までもがこの世を去ろうとしている。もう僕には何ともできない事実。
だからこそ僕は今彼女の元彼氏を探しているんだろう。本当なら、本心を言ってしまえば興味も無い出来事。むしろ彼女の過去を詮索する罪悪感は付きまとうし、知りたくもない事実にも目を向けなくてはいけないかもしれない。僕は瑠璃川にはいつも優しく出迎えてくれるお姉さんでいて欲しい。僕にはその事実だけで十分だし、それ以上の関係を望む必要も無い。
だけど彼女を喜ばすことを考えたらそうは言っていられない。彼女が心の曇りをすっきり晴らしてくれたならそれだけが僕の最終目標だ。
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