第2話 酒宴の花(4)
葉菜は少し僕と雑談して帰って行った。一人残された僕は、そのまま別の休憩室に行って思案に暮れていた。
いつものように、お気に入りの缶コーヒーを買って、熱い液体を口に含んだ瞬間、思考は一気に瑠璃川のことにシフトした。これは僕のおまじないだ。ちなみに缶コーヒーのブランドは「リーダー」。これがやっぱり一番うまい。
葉菜の話では瑠璃川の寿命はもって二、三週間。それで彼女の命は終わる。そのことについて僕は特に感想は無かった。今まで何人も死んでいく人を見てきた。この病院なら寿命が一か月程度でも不思議ではない。
しかし僕は彼女が死ぬまでに、彼女に喜んでほしかった。現実を、もっとすばらしいものだと思ってほしい。だって彼女は泣いていたのだ。人間が涙を流すのはうれしい時、悲しい時、玉ねぎを切った時だけだ。ならあんな病室にいる彼女はきっと悲しんでいるよりほかないだろう。こんなこと言うのは縁起ではないけれど、彼女には終末の美を飾ってもらう。形じゃなく、心で。僕は彼女に借りがある。覗きを許してもらったばかりか、窮地を救ってもらった。これが多分、白織が言っていたことだろう。「現実に絶望した人を助けること」。
僕はもう一度コーヒーを啜って、必要な事項を絞る。まず彼女に正確な生存期間を聞き出した方が良い。でも人間の体に絶対はない。だから期間よりだいぶ先に計画を終える必要がある。さらに、喜ばすこと。これが一番難題だった。どうやって彼女の望みを聞き出そう? たった一、二週間でコミュニケーション能力の低い僕がどこまで彼女と距離を縮められるか。こればかりはやってみないと分からない。それにもし望みがなかったらその時は新しい方法を考えなくてはいけなかった。
「……はあ」
久しぶりについたため息は、なんだか疲れたため息とは違っていた。これからやることが満載だな、そんな感じだ。思えばこんなに人を喜ばそうと思ったのは久しぶりだと思う。前に人を喜ばそうとしたのはいつだろう? ダメだ、思い出せなかった。
ふと横を向くと、成人向け漫画を熱心に読む少女がいつのまにか座っていた。
今まで全く気付かなかった。この前もここであった例の子だ。歳不相応に大人びた雑誌を読んでいるが、そういうものは体にも心にも良くないだろう。視線に気づいた彼女はこちらを振り返る。ここは年上らしく注意しなくてはいけないだろう。
僕は咳払いを一つして言った。
「君……そういう本はもう少し大きくなってから読んだ方がいいと思うけど? 」
まあ僕は君と同年代のころはもっとレベルの高いものを所持していたけどね! なんて心でつぶやいてみた。まさか口が滑っても言えない。するとみるみるその子の目はうるみ始めてしまった。メンタル脆すぎだろう。これじゃあ体以前に心の状態が心配だ。
どうにか慰めようとした僕ではあったが、前回からの教訓で彼女にとって僕は悪玉菌でしかないと悟っていた。つまり何を言っても無駄なのだ。あたふたしているうちに彼女はもう少しで泣く所だった。その時、僕の口が反射的に動いていた。机に置いておいた箱を指さして言った。
「あの……このケーキ、食べる?」
一瞬沈黙した後、彼女は大声で泣き出してしまった。僕は自分が罪人のような気分になりながら、その場を立ち去った。
あくる日、僕は瑠璃川のところへ出かけた。一週間近く行かなかったから彼女は喜んで出迎えてくれた。
「また来てくれたのね! とっても嬉しいわ」
そういって本当にうれしそうに笑った。僕もいろいろ心の中では構えていたけれど、ここに来て完全にそれは緩んだ。やっぱり彼女は話しやすい、いい人に違いなかった。
「もちろんですよ。また……僕も瑠璃川さんと話したくなりました」
「何それ、照れちゃうじゃん! 」
瑠璃川は言った。
僕は前日、こっそり彼女のことを看護師から聞いていた。看護師が教えてくれた情報は二つ。彼女の本名が瑠璃川天海(るりかわあまね)であること、彼女の年齢が三十一歳であることだ。それ以外は個人情報だからと、病名すら教えてもらえなかった。
「この病院だけじゃないだろうけど、病院てホントに退屈な場所よねー」
「普段暇な時って何してるんですか? 」
「何も。ボーっとしてるか、本読んでるか、映画見てるか。それくらいよ」
「会社勤めされてたんですよね? 休日とかは何かしてたんじゃないですか? 」
「んー、あの当時はね。足も動いたし、そりゃいろいろ外出してたわ」
なつかしいねー、なんて言いながらも彼女はまるで思い出したくないようだった。
「その……なんで足が動かなくなったんですか」
僕は勇気をもって切り出した。
彼女を苦しめる病の正体の話。もしかしたら彼女の気に障るかもしれない。しかしそれを知らなければおそらく前には進めない。それを聞くと彼女は不審な目をこちらに向けた。しばらく黙っていたが、意を決したように言った。
「あたしはね、OLしてた頃に脳卒中で倒れたの。それから下半身の機能は使えないの」
「脳卒中ですか」
「そう。でもそれだけじゃないわ。あたしは他の人よりはるかに免疫力がないの」
「免疫がない? 生まれつき体が弱かったとかですか? 」
「ううん、違う。わたしはね、後天的免疫障害……つまり、エイズの患者なの」
「……エイズ」
「うん、そう」
「その……原因は何ですか? 」
自分でもずけずけ聞いていると思った。でも彼女には教えてほしい、その気持ちがあった。
「大学時代の恋人が感染者だったの。その人とは社会人になった後でも付き合いがあったから一時期は結婚も考えた。けどね、入った会社も違うし遠距離だったから最後は彼に好きな人ができて、あたしたちの関係はあっけなく終わったわ。そりゃー辛かったけど、どうしようもなかった。……その後ね、妊娠が分かったのは。でも彼に捨てられた絶望感でひどく落ち込んでいたし、昔両親は事故で死んでたから、身寄りも無くて女手一つでやっていく自信も無かった。結局、おろしたわ」
「……その元彼氏には言わなかったんですか」
「言ったわ。でもあたしは、お金をもらってもパートナ―なしでやっていく自信が無かった。……つまり、彼は私とよりを戻そうとはしなかったってことね。それからしばらくは普通に過ごしていたんだけど、ある日会社で急にめまいがして倒れたの。それで知ったわ。あたしがエイズにかかっていたこと。……初めて知ったわよ、自分の人生が実は限りあるものだって」
「そう……ですか……」
僕には瑠璃川にかけるべき言葉が思いつかなかった。だからまた黙り込んだ。これが僕の悲しいところだ。コミュニケーション能力が低いゆえに、何を言っていいか分からないと、黙りこくってしまう。何か気の利いたことを言って今のムードを晴らせたらどんなにいいか。
「君はあたしがエイズ患者と知って軽蔑する?」
瑠璃川は尋ねた。
「まさか! 僕にとって瑠璃川さんは瑠璃川さんです。何があっても、見下したりしませんよ」
「そう、よかった」
「すいません、なんかずけずけ聞いちゃって」
「いいよ。いつか君には知ってほしかった。あたしはもっと生きていた証をこの世界に残したい。あたしの一生はもうすぐ終わるけど、あたしという存在の痕跡はこの世界に残したい。それが身寄りのいない、家庭すら持てなかった女の願うことよ」
「そんな悲しいこと……」
そう言いながら僕は白織が死に際に言っていたことを思い出す。あいつも言っていた。自分が生きていた証を残したいと。それは満足な人生を送れなかった人間が願うことなのかもしれない。
「っていうか、なんでこんな暗い話になってるの! あー、やだやだ! 不幸のエネルギーが溜まっちゃうよ」
瑠璃川は手で何かを振り払うように言った。
「そうですよね、やめましょう。瑠璃川さん、今日は一緒に散歩でもしませんか?」
「お、荒巻くんの提案かー。まさか素敵なデートコースでも発見したの? 」
「ええ、まあ。いつか彼女を連れて一緒に行きたいですね」
そう言うと瑠璃川は「はははー」と笑った。
「じゃあ、おばさんが予行練習の練習台にさせていたたぎますか。まさか病院に入って男の子とデートできるなんて思わなかった。こりゃ人生最後のビッグイベントだわ」
そんな冗談を言う瑠璃川をかついで車いすに移した。その活気と裏腹に彼女は予想よりずっと軽い。女性らしい体型で見た感じは分からないが、きっと肉の付いていない部分はとても細いんだろう。僕は彼女を乗せ、部屋を出た。そして緊急治療室の前をあえて通り、看護師のいる受付の近くを通った。――そう、見せつけるために。
しばらく歩いて僕が案内する場所に着いた。ここは僕が必死に調査した結果、病院内で一番街の景色がよく見える場所だ。きっと夜景ならかなりきれいだろう。ここは病院側の配慮で通路に小スペースが設けられていた。窓際には花瓶があり、白い花が植えてある。
「確かに、この病院でできた彼女なら喜んでくれるかも」
「この病院だけですか? 」
「よそで出来た彼女なら、ちょっと厳しいかもね」
そう言って瑠璃川は笑っていた。悪くない反応だった。僕は車いすに座る彼女にコーヒーは好きか尋ねた。確認をしてから近くの売店で缶コーヒーを二つ購入して彼女に一つを手渡した。
「へー、荒巻くん『リーダー』を買ってくるところがおつね! 」
なんて言って彼女は温かい缶コーヒーを開けた。
「僕昔から好きで、中学くらいから毎日飲んでたんで」
「なるほど、君の身長の低さにも納得がいくわ」
「……まあよく聞く話ですよね」
コーヒーに含まれるカフェインは有害物質だ。発育途中の子供が多量に摂取すると発達障害に陥ることがある。ちなみに僕の身長は一六三センチ。中学で止まっていた。一方で、コーヒーはストレスの軽減や長寿に役立つなんて学説もあるが。真偽は明らかでない。
少しコーヒーを啜ったあと、彼女は何かに気づいて一人で車いすを漕いでいった。そして窓辺にあった花を一つ千切ってこちらに持ってきた。
「君にこれをあげよう」
「……なんですか、この花?」
「ヒアシンスっていう花。君にぴったりだと思って」
「この花の花言葉はね、い『目立たない愛らしさ』。どうかしら?」
「うーん……褒められているような、そうでないような。でも愛らしさっていうくらいなんだから褒められてると思おうかな」
「そう! 褒めてるのよ。君はなんだか……とても自然体で気取ったところがないわね。派手に目立つこともないけど、その分こっちもほのぼのしちゃうわ。こうして身に病を宿してるとよく分かるんだけど、人間は自然体でありのままに生きることが一番美しいのよ。下手に気取ったり、何かを演じることをすれば必ず悪いことが身に起こる。
そう、これみたいに」
そう言って瑠璃川は自分の頭をこんこん指でつついた。
「やりましたね、齢三十年で早くも人間の人生を悟ったじゃないですか」
僕は冗談めかして言った。
「ほんとね、全く今から仏門を叩きたいくらいよ。それがダメなら経典でも残そうかしら? 」
「なら僕が教徒の第一号になりますよ」
「そりゃ頼もしいわーってなんの話なんだ! 」
瑠璃川は死期の近い人間とは思えないくらい元気だった。僕はときどき疑ってしまう。彼女が死ぬはずなんてない。体は確かに弱ってても、彼女自身はこんなに活き活きしてる。
僕は彼女と喋りながら、今夜果たすべきことを頭の隅に浮かべていた。
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