第2話 酒宴の花(3)
僕は重い頭で自室に戻った。周りの患者を起こさないようこっそりベットに戻り、布団を被った。
そう言えば瑠璃川は自分自身について僕にまだ何も話してくれていない。なんでここにいるのか。どういう場所に生まれ、どんな仕事をしていて、どんな経緯でここへきたのか。――まあ今日あったばかりだし当然か。それにしても話しやすかった。この感覚を僕はよく知っている。でも思い出せない。そんな思案をしているうちに僕は眠りに落ちてっいった。
春の暖かい日、僕は小さな団地の庭で必死に小さな腕にシャベルを握って地面を掘り起こしていた。
この当時の僕は今みたいな情けない体たらくとは違い、明確な目標を持てていたと思う。
目的は単純明快、母が帰ってきたときに驚かすこと。だからそのために必死で山を作った。まだ山以外のものを砂で作る思考も技術も僕には無かった。だから作るものは山、驚かせる対象は母親、と決まっていた。
母を驚かせ、喜んで欲しかった。自分はこんなに大きな山を作れたことを。
優しい音楽がどこからか流れてきた。鼻から吸い込む空気は土の匂いだった。そう、僕にとって親は大きくて揺るぎないものだった。どうして僕はこうも疑いなく信じれたのだろう。家族なんて、こんなもろくてはかないものを。
ゆっくり目を覚ました時、僕は病院のベットにいることを思い出すのに数秒かかった。気づかぬうちに水滴が顔を濡らしていた。理由は分からないけど、少し安心した。そうして、また一人ぼっちの世界に戻ってきた。
それからの数日は、人生の浪費とも言える無為で退屈な時間だった。世間一般では僕みたいな年齢層を「青春」なんて呼んでもてはやす傾向がある。もしそうなら僕が過ごした数日は僕の人生の中で無かったことにしなくてはいけない。そもそもこの病院はちょっと静かかつ退屈すぎだ。しかも患者は徐々にそれに慣れ、まったく違和感を感じなくなっている。まるで尋問部屋に入れられた犯罪者が徐々に気力を失い、最期には隠していたことをさらりと吐いてしまうように。瑠璃川とは特に会う理由もないので、会うことはなかった。
そんな退屈な日々を打ち破ってくれたのは願ってもない相手だった。白織葉菜が僕のお見舞いにとケーキを作って訪ねてきたのだ。
本音を言えば、彼女は我が強くて、決して付き合いやすい人種ではない。それでも僕のお見舞いに来てくれる人は葉菜だけだったから、彼女の心遣いには十分感謝していた。人間としては好きだが、話していて心地いい相手ではない、それが僕の葉菜に対する印象だ。因みに葉菜は僕より二歳年上だから、呼ぶときはさん付けだった。
「よ!荒巻くん。これ差し入れのケーキ。悪くならないうちに食べて」
大きなホールのケーキだった。
「でかいな……」
「砂糖をうんと使ったから、かなり日持ちするわ」
「この病院週一で血糖値測定あるから、ひっかかりますよ」
「大丈夫よ、分けて食べてれば。それに若いから大抵のことはお医者さんも大目に見てくれるわ」
なんじゃそりゃ! 僕は思った。おそらく僕のために焼いたんじゃなくて、単にお菓子作りがしたかっただけじゃないのか?
「荒巻くんちょっとやせ過ぎよ。もっと食べて筋肉つけなきゃ」
「うん……まあもともとこんなにがりだったわけじゃないよ。病院生活のおかげでこんなにやつれちゃったのかな? 」
動かないと食欲も湧かないしな。でも反対に体調はすこぶる良好だった。聞くところによると現代人は食べ過ぎらしい。もともと人類は飢餓を生き抜いてきたのだから、一日三食お腹いっぱい食べる必要は無いらしい。ならば小食である僕が体調がいいのも体の摂理からすれば当然だ。
「で、それからあの女の子と進展はあった?」
葉菜は言った。あの女の子とは、休憩所であった子だろう。葉菜の顔を見て分かる、僕をからかっている。
「あるわけないでしょ」
僕は答えた。
「そう。さすがにロリ特集ばかり集めている幼女趣味の君にも、実際の女の子を手に掛ける勇気はないのね」
「なんかむかつく言い方だな」
「分かってる」
葉菜は言った。……うぜー。僕はどちらかというと気が弱いほうであって、クラスの女子なんかにからかわれた経験もある。それと比べても彼女は口が悪い。僕をナメすぎだ。僕にも怖い一面があることをそのうち教えなければいけない。そういえば、前来た時のエロ本はどうしたんだろう?
「そういえば葉菜さん、前来た時に見つけたエロ本どうしたの? 」
すると彼女はどうでもよさそうに答えた。
「ああ、あれね。焼却処分したわ」
「なにー!」
あれを捨てただと。この人は正気だろうか。あれはやっと法の規制から解放された高校卒業の日から今日にいたるまで、「心に響いた一冊」として密かにコレクションしてきた品だ。人生長しといえど出会いはたった一度きり。そのタイミングを逃してはもう二度と出会えない。その出会いを彼女は捨ててしまったという。
「悪魔だ! この人悪魔だ! ちくしょう、餓鬼畜生の類だったとはな……!」
「はあ、何言ってるの? あんなもの見つけたら普通の女の子なら捨てるわ。というより、敬遠してあなたのお見舞いなんて来なくなると思うけど? 」
葉菜はあきれたように言った。
「それってなんだかすごく自分を持ち上げている気がするんだけど」
女の子ってとこ、強調してないですか?
「いいじゃない、感謝しなさい」
「露骨だ! 」
それにしても葉菜さんはどうして未だに僕のお見舞いに来てくれるんだろう? 彼女にとって僕は弟の友達でしかないはずだ。付き合い程度なら何度か面会に来てくれることは分かるけれど、白織が死んでもう二か月経つ。
それなのに彼女は週に一回、少なくとも二週間に一回は来てくれる。あえて追究はしなかったが、かなり僕の心の支えになっていたことは事実だ。この病院の無気力な気にあてられて僕が元気を失くしてしまわないのも、彼女のおかげと言っていい。
そういえば幼女といえば、僕はその子が緊急治療室に運ばれていくのを見ていた。そしてそのついでで、妖艶な大人の女性に出会ったのだ。
「葉菜さん、そういえばその女の子、この前緊急治療室に運ばれていくところに出会ったんだ」
「あら? 重病患者だったのかしら。随分幼かったのにね」
「うん。それでさ、その時近くの病室ですすり泣く声が聞こえて覗いてみたら、大人の女の人がいたんだ」
そこで僕は気づかなかったことを思い出した。気づかなかったというより、考えもしなかった。あの時瑠璃川さんはどうして泣いていたんだろう?
「へえ、また一人君の女友達が増えたわけ? 」
「茶化さず聞いてよ。それでさ、いろいろ話すうちに仲良くなったんだ。それで一緒にお酒を飲んだ」
まあ最近あった出来事といえばこれくらいかな、と僕は最後に茶化してみた。瑠璃川のことは誰かに聞いてもらいたい。そんな風に思っていたからだ。しかし彼女からは予期せぬ声が帰ってきた。
「待って。その病室ってどこ? 」
「ん?だから……」
僕はありのままを言った。そこはこの階より上の緊急治療室近くだ。
「……」
葉菜は黙りこくってしまった。そして返事が返ってこない。しかし意を決したように彼女は口を開いた。
「今から言うことはその……荒巻くんのもしかしたら気に障ってしまうことかもしれない。だから言わない方がいいかもしれない」
僕はぽかんとしてしまった。いつも冗談めかしていろいろ言ってくる彼女が僕のことを慮っている。
「それは重要なことなんですか? 」
「まあ重要といえば重要ね。でもそうとも言い切れない。別に無理に言う必要はないわ」
「言うも言わないも、僕はちゃんと事実を知りたい人間です。言ってください」
「……そう。はっきり言うわ。この病院のシステム上、いつ患者が症状を訴えてもいいように急を要すると思われる患者ほど治療室に近く配置されてる。つまり治療室に近い患者ほど症状が重い。ことに君がさっき言った病室は緊急治療室の最寄よ。そんな患者、この病院では大体症状に予測がつく。……つまり、彼女はせいぜいあと二、三週間の寿命の重病患者よ」
僕は彼女がいたあの病室を思い出す。彼女が他の患者と違い個室だったこと、叫び声一つですぐに看護師が駆けつけてきたこと。僕の前にまた厳しい現実が立ちはだかった、そんなことを思った。
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