第2話 酒宴の花(2)

その時、近くの病室からすすり泣く声が聞こえた。

「ん? 」

 いつもの僕なら対応なんてしない。他人という境界線を守って、通り過ぎる。しかしその時は行き場をなくして困っていたからだろう。近くの病室にゆっくりと足を踏み込んだ。 

部屋はカーテンが閉まっていたが一人専用の部屋で、声はカーテンの奥から聞こえた。声からして女性だった。

「あのー……」

 カーテンを開いてどう会話をつなげよう? きっと相手は不審がるに決まってる。しかしこれは相手を救うべくするものだ、と自分に言い聞かせた。ここは強引に押し入るのも妙案。

「すみません、開いてもいいですか?」

 声を掛けたが返事がない。気づいてないらしい。

「あのー、すみません」

 やはり返事は無い。

仕方ないので、僕は少しカーテンを開けて中を覗き込んでみることにした。後で考えれば女性のプライベート空間に入るのにあまりに軽率、かつ短慮だった。

しかしそれを思い知ったのは開いた後だったからもう遅い。

 カーテンの中からは花の上品な匂いがした。少し開いたカーテンの裾から、はだけたパジャマを着た、半分下着姿の女性が見えた。髪は明るい茶髪でウェーブがかかっている。体つきは出るところ出て締まるところは締まっている。まつ毛は長く、瞳はぱっちりとして大きいが、瞼は涙にぬれていた。僕は思わずそれに見とれてしまった。その妖艶な姿に。

ああ、本とかでは見てたけど、本当にこんな色っぽい人が実在するのか。美女と接する機会の無かった僕の人生の中ではすでにそれは空想上の生き物に位置づけられていた。

 彼女は何か手に持つ写真を眺めていた。しかしすぐにカーテンの外からの不審者の目に気づいた。

「……」

 僕は彼女と目が合い、硬直した。一瞬の心のほてりはすぐに冷たい恐怖に変わった。彼女は「きゃっ!」と叫んで布団を体に被せた。僕はあわててカーテンから体を離し、情けなくあたふたする。――逃げるか? 謝罪するか? 幸いこの部屋は一人部屋だ。全力で逃げれば間に合うかもしれない。顔を見せたわけではないから、まだ身元もバレてないはずだ。しかし逃げてもしバレたら大変なことになる。そんな悪意が内心で葛藤したのはほんの二、三秒だった。しかし彼女は僕より一枚も二枚もう上手だった。すぐに僕の手をカーテンの向こうから引っ張って、僕を中に引き込んだ。

 思わず僕は目を閉じた。途端に柔らかくて暖かい感覚がした。この感覚を僕はどこかで知っている。ベットに引き込まれてから、直に通路から看護師が中に入ってきた。

「瑠璃川さん、どうかされました?」

 それに瑠璃川と呼ばれた女性は答えた。

「いえ、ちょっと窓から蜂が入ってきたんで。 もう大丈夫です。出て行きましたから」

 そう答えると看護師は言った。

「ならよかった……。気をつけてくださいね。最近患者さんの中に不審行為をする人がいるらしいので」

 そう言って出て行った。

「……あのー」

 少しして僕は口を開いた。すると瑠璃川とよばれていた女性が答えた。

「良かったわね、危ないところを」

 そして続けた。

「不審者さん」

「ち、違います! 」

 そう言ったけどどう反論したものか。すると彼女はどうでもよさそうに言った。

「それはそうと、早く上をどいてくれないかしら?」

 よく見れば僕は彼女の半裸に乗りかかっている状態だった。僕は「すみませんっ!」と言って慌てて飛び退いた。女性の半裸を見た上に、肌に触れてしまった。女性にこんなに接近した経験なんて、母親以来だ。そうすると彼女は隠して服を着ながら再び話題を戻した。

「あら、覗きじゃないの? なら私に何か御用かしら」

 ここは嘘を言っても仕方がない。僕は正直に理由を話した。

「僕はこの病院で人助けをしてるんです。誰かの力になりたい。でも誰を助けたらいいのか分からなかったところ、誰かのすすり泣く声が聞こえてきたんです。だから何か助けになりたくて呼んでみたけど返事がないから、ちょっと中をうかがったんです」

「そう。でも女性の部屋に入るのには軽率すぎよね。それに、通りすがりの人に助けを求めるほど、人は人を信用しちゃいないわよ」

 そう諭された。

「まあ、確かに。何も今じゃなくてもいい。そのうち困った時でもいいんだ。人助けができればいいんだから」

 そう言うと彼女は言った。

「この病院でボランティアかー。なかなか難しいことするわね。ここにいる人は気難しいわよ? 」

「承知の上です」

 そう答えると彼女は少し考えた。そして、言った。

「……まあ、そういうことなら助けてもらおうかしら」

 そう言って財布を取り出した。

「あたしを売店へ連れてって」

 この病院の売店は地下にある。

 近くにコンビニが無いせいでここの設備は結構充実していた。僕もたまにここで本を買ったりする。

「いやー、ずっとお酒ダメだったのよねー」

 瑠璃川はそう言ってビールをポンポンカゴに入れていった。

 後で分かったことだが、彼女は足が動かない。それは先天的ではなく、病気で後天的になったらしい。今は車いすで移動するが、一人で売店まで来るにはかなりの労力がいるとのことだ。

彼女の頼みは、医師に禁酒されているが、生来酒好きで酒を手に入れる手伝いをしてほしい、というものだ。

売店に行くと彼女は上機嫌だった。久しぶりに酒が飲めることがかなりうれしいらしい。

「久しぶりに飲むぞー! ほら、せっかくだから荒巻くんも飲みなよ! おごるからさ! 」

「はあ……」

 僕は仕方ないので酒の代わりにコーラの五百ミリリットルペットボトルを買った。瑠璃川はおつまみにめざしとチーズも購入した。因みに彼女の車いすを引くのは僕。カゴを持つのも僕だ。病院生活で肉体はかなりやせ細っていて、缶が十本近く入ったカゴはかなり重かった。

 売店を出てエレベーターに乗った。途中、ふと僕は瑠璃川さんの体を見た。生来色っぽい体をしているが、よく見れば彼女も病院生活のおかげで腕は痩せて骨ばっていた。顔も化粧せずとも異様に白く、痩せて目は少し落ち窪んでいる。皮肉にもそれが彼女の大きな瞳を余計に強調していた。

「なに、荒巻くん? また欲情してるの?」

 彼女がからかって言ってきた。

「そ、そんなんじゃないですよ」

 そういうと彼女は「ふふふっ」と笑った。

「まあいいわ。おばさんは歳も君と十以上違うし、妊娠も経験したからね。君くらいの若いことは違うわよ」

「お子さんがいるんですか?」

 僕が聞くと彼女は首を振った。

「流産したわ」

「……すみません」

 まずいことを言ってしまったが、彼女は「気にしないで」と言って、それ以上何も言わなかった。

 僕たちは看護師に見つからないように部屋に戻、りカーテンを閉めて乾杯をした。彼女のカーテンの中には赤いカーネーションが活けてあって、いい香りがした。

 僕は大学入学前で、飲み会に行ったことが無い。だからアルコールとの付き合い方も分からない。彼女はそんな僕に、飲み会の作法やらお酒との付き合い方やらいろいろ教えてくれた。僕はそれをコーラを飲んで、めざしをかじりながら聞いていた。

「荒巻くん十八歳だよね。いいなー! 人生のスタートラインだね! 」

 ビール缶を一本飲み干したころ彼女が言った。

「まあ先のことなんて全然分からないですけどね」

「これから楽しいこといっぱいあるよ。大学は自由だし、そのうち素敵な彼女もできるしね」

「彼女ですか……。僕、今まで彼女いたことありません」

「関係ないわ。君、素直で優しいから。きっと理解者が現れるわ」

「そうですかね……。僕、今まで素直に生きてきて、むしろ損ばかりしてきたんですけど」

「急がば回れよ。何事も目先の利益ばかり求めてちゃいけないわ。私のお父さんが言ってたわ。一日幸せでいたいなら服を買え、一週間幸せでいたいなら車を買え、一か月幸せでいたいなら結婚しろ、一年幸せでいたいなら家を買え、一生幸せでいたいなら……素直でいることだってね」

「そうですかね? 」

「そうよ。そのうち分かるわ。大人は腹黒い人の方が多いわ。でも人が集まるのは、結局裏表の無い人なのよ」

 「私もよく騙されたなー」といいながら彼女は二本目の缶ビールを開けた。まだ冷蔵庫には五本もビールがある。・・・この人、今日全部飲むつもりだろうか?

人間の交わりは不思議なものだ。一年共に過ごしても分かり合えない人もいれば、たった一日で旧知の仲のごとく親しくなる人たちもいる。彼女にとっての僕はどうだか分からないが、少なくとも僕は彼女にかなり親しみを覚えていた。そう、この感覚を僕はどこかで味わったことがある――。

「ってか、荒巻くんコーラしか飲んでないじゃない。ビール飲みなよ! 」

「え?いいですよ。僕未成年ですし」

「お酒は誰しもが通る道よ。遅いも早いもないわ」

「訳わかんないです」

「とにかく飲めってことよ! 」

そう言って無理やり注いだコップを持たされた。顔を見て分かる。彼女はビールの感想を聞きたがっていた。僕は仕方なく、コップに泡立つビールを少し口に含んだ。人生で今まで数度しか味わったことはのない味。冷たくて苦い液体が喉の奥に流れ込んだ。

「……まずい」

「そうかしら?」

「……こんな飲み物のどこがおいしいんですか?」

それは僕の本音だった。なんで大人はこんなものを喜んで煽るのだろう。僕にはジュースのほうがよっぽどうまい。

 しかし僕の質問の答えは、とてもシンプルに返ってきた。

「んー、あたしも良くわかんない」

「分かんないって、お酒好きなんですよね? 」

「そう。でも酒のうまさなんて分かんない。でも無性に飲みたくなるのよね」

 そう言って彼女は、今思い立って言い足した。

「まあ、こういうことかな。お酒がおいしく飲めるようになったら大人になった証拠なのかもね」

「お酒飲めない大人だっていっぱいいますよ」

「こういうのはね、アバウトなもんなの。そんなこと考えだしたらきりないわ。大体そうだ、ってこと」

 瑠璃川はそう言った。僕は手に持つビールのコップを見た。

この液体を好きになれれば大人になれる。どういう意味なのか。嫌なことをお酒で忘れるようになって一人前。つまり大人は大変だと言いたいのではないだろうか。彼女の言葉に隠れた意図は分からないけれど、僕はわざわざそんなこと問うつもりは無かった。僕は多分……大人になりたくないから。将来のことなんて、何も分からないから。

「大人って……楽しいですか?」

 僕はふと聞いてみた。

「大人は楽しいわよ」

 瑠璃川は即答した。

「僕、よく分からないんです。大人になれば辛いことも増えるだろうし、人も信じれなくなる気がして。責任も増えるだろうし、あんまりいい話を聞かないもんで」

 僕はかなり深刻に聞いた。その顔があまりに真剣に見えたようだ。瑠璃川は酔いもあってか、からから笑った。

「大丈夫、大丈夫!なんも心配する必要ないわ。だってみんなちゃんと大人になれてるんだもん。君もなれないわけないじゃない」

「理屈の通った答えじゃないですね」

「なってるわ。あきらめなさい。それに……」

 そう言って彼女はこんなことを話してくれた。

「過去も未来も一つの道なのよ。その上に今があるの。だったら君は道のはるか向こうの山の天気なんて気にするの? それよか、今歩いてる足元を見なさい」

 そしてこう言った。

「これから目の前にはいくらでも分かれ道があるわ。その中にはきっと君が気に入る道もあると思うけど? 」

 それからの顛末だけど、どうやら僕は相当酒に弱いことが判明した。コップ一杯のビールで顔が真っ赤になり、瑠璃川さんのベットで熟睡してしまっていた。起きてみればもう深夜で、僕はかなりの長時間寝ていたようだ。寝すぎたせいか酔ったせいか、頭がジンジンと痛んだ。

カーテンの外に出ると、深夜だというのに瑠璃川さんは暗い外を眺めていた。暗い外では冬の萎びた森とその向こうの都会の明かりが見えた。瑠璃川さんはこっちに気づいて声を掛けた。

「目が覚めたのね」

「ええ。あの……ベット占領しちゃってすみません」

 そう言って頭を下げた。

「いいって、気にしないで。それよか、また遊びに来てよ」

 そう言って彼女は微笑んだ。

「また一緒に飲もう? 」

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