第2話 酒宴の花(1)

 映し出されたレントゲン写真には僕自身の脳が映し出されていた。僕の担当医の藪川は僕がどんな状況に置かれ記憶喪失になったのか、ボールペンを使いながら説明した。 

「えーっと、君の脳の記憶を司る海馬という部分が外側からの強い衝撃によってね……」僕はそれを熱心に聞いて大体は理解した。

 僕に記憶が抜けてしまっているのは外側か強い衝撃が加わったことによる。しかし頭部に全く外傷がないため、藪川は「本当に何か、魔法でもかけられたのかもしれないね」などと冗談めかして笑った。

 それにしても初老といえる外見なのに患者に診断結果を伝える時冗談をいうなんてずいぶん変わったじいさんだな、などと僕は思った。僕は診察はもっと重苦しいイメージしかなくって、最初に藪川医師と出会ったときは随分驚いた。それにしても健康健康と雑誌でも巷でもうるさいけれど、僕は人がそんなに健康に気を使う理由がやっとわかった気がする。

やはり自分の体の調子はとても気になるのだ。体のどこかが痛い時は何か体に障ることが体内で起きている気がするし、頭が痛いときは記憶喪失を意識せずにはいられない。人類の歴史を振り返れば、自分の体に気を使うことも無く戦いに明け暮れた時間の方が長いわけだから、随分僕は悠長なことを考えてるなと思う。

そんなことを考えながら僕は診察室を出て休憩所に向かった。病院の中は十分に温かかったけれど、僕は少し迷ってから缶コーヒーのホットを買った。そのまま備え付けのベンチに腰掛け、コーヒーを啜った。久しぶりに飲むコーヒーは湯気とともに口に入り、喉を通り僕の臓器を満たしていく。その芳醇な香りに僕は「うまいな」とつぶやいた。

 やはり部屋で悶々と考えていても答えはでないようだ。白織と別れてはや三か月がたった。ここ最近冷え込み始め、十月半ばの病院周辺の山はススキと紅葉した木々でいっぱいだった。あれから三か月、白織の遺志を受け継ごうとしてどうすれば病院が変わるのか考えてはいるけれど、具体的に何をやればいいのか案は皆無だった。よく考えればおかしなものだ。白織が言っていたこと(現代の人々はみな自分の殻に籠っているだとか、もっと真心で接するべきだとか)は考え方の問題なのだ。考え方の問題に正面から挑むほど厄介なことはないんじゃないだろうか。しかも僕には同志はいない。たった二人の間で結ばれた約束なのだ。

「どうしたもんかな……」

 そう言って腕をベンチの上で伸ばすと、急に横から声が飛んできた。

「ひっ。え?え?」

 見ればそこには一人の少女かいた。パジャマを着て肌は白くて華奢な骨格をしている。おそらくこの病院の患者だろう。僕が気づかず腕を伸ばしたから腕が当たってしまったんだ。あわてて弁解しようとするが、彼女はかなりおろおろしている。

「ごめん、悪気はなかったんだけど」

 そう言って自然に伸びた手に彼女は怯えて距離を取ろうとした。

「こっ……、来ないでください!」

「いや、そんなに怖がらなくてもいいから」

「こっ……来ないで!知らない男の人とは話しちゃいけないってお父さんが……」

「いや、だからだからさ――」

 見ればわかるだろ、君と同じ病人だって。そう言おうとしたけど彼女は本気で僕を怖がっている様子だ。その時急に横から声が飛んできた。

「何やってるの!て、……荒巻君?」

「へ?」

 この時僕は思わず情けない声を上げてしまった。それだけ不意打ちだったからだ。振り返れば白織葉菜がいた。彼女は大学帰りらしく、秋らしい服を着て手には紙袋を下げていた。

「は……葉菜さん?どうしてここに?」

「それより今、そこの女の子に言いがかりをつけて絡んでたでしょ?」

 葉菜の目はいぶかしそうだ。どうやら僕は軽犯罪者と間違われている。

失礼な!僕はそういうことに興味がないわけではないけれど、こんな幼女に興味はない。誤解もいいところだ。

「葉菜さん誤解だよ!普段の僕の行動を見ていれば分かるだろ?」

「普段の行いが悪いからよ。これ」

 そういって彼女はベット下に置いてあったものを取り出した。男の本能を刺激する情報誌だった。

「よく堂々とこんなものベットの上に置けるわね。」

「こ、これは……! 」

 おかしい。僕は少しは体裁を気にする。持っていることは純然たる事実だが何も自分のベットに無造作に置いておいたりなんかしない。思い当たる人物が一人だけいる。同室の山村老人だ。彼は老いて体を病魔にさらされなお盛んな、超人だ。よく看護師にセクハラをして注意を受けている。彼は僕と密約を交わしており、僕は彼にその類の本をちょくちょく貸していた。どうやら山村老人は僕のベットに無造作に借りた本を返したらしい。あのエロジジイめ。おかげで僕は葉菜さんにとんだ負い目を掛けられてしまった!なんだる悲劇だろう。

 ちなみにこの二か月でわずかばかり僕は白織葉菜と仲良くなっていた。彼女は弟がそうであったように、頭がいいというか、鋭い眼力を持っていた。それで相手を巧みに見抜くから、この件は遅かればれたかもしれない。しかし僕に言わせれば鋭い眼力など戦国時代なら良しとしてこの安穏とした時代にはかえって疎まれると思う。しかし彼女はその反面直情的で、むきになることもある女性だった。対人能力はというと、弟よりは下で僕とはいい勝負、決して高くはない。人を見る目は鋭いのに自分は扱いきれてない、灯台もと暗しって感じだろう。

 とりあえず考えていることが態度に出やすくて、それがまさに今だった。僕は必死にジェスチャーも交えて必死に訴えた。

「俺の友達がお見舞いに昨日来てさ、可哀想だからって冗談めかして買ってきたんだ。それで僕もほんとは読みたくなかったけど仕方なく受け取って、今日捨てに行こうと置いてたんだ」

 もちろんウソだ。ホントは地下の売店で買った。

「随分素敵な友達ね。一度に七冊も買ってきてくれるなんて」

 葉菜はそう言って僕のコレクショクをさらに六点袋から出した。

「え?」

「積まれてたわよ」

 おかしい。山村老人に貸したのは一冊だけだ。まさかあの老人、知らない間に僕のベットの下を覗いていたな!

「一冊千円近くするのにかなり大金をはたいてエロ本を買うのね」

 葉菜が言った。

「いやーそいつ金持ちでさ!ベンツとか乗ってんだぜ」

 だんだん自分でも話が分からなくなってきた。

「ウソでしょ? 荒巻くん」

「どうして? 」

 おかしい。彼女はまるで確信でもあるかのような目をしている。どこから来る自信なのだろうか。

「今まで何度も来たけどあなたの友達を見かけたことなんてないわ。つまり」

 葉菜は僕をまっすぐ指さした。

「あなたは友達がいない」

「はっきり言うなよ!」

 当たってるけど! まだ誰もお見舞いなんて来ちゃいないけど!

「なんで友達の話からそこまでの結論にいくんだよ」

 僕は食い下がった。

「それはそうと、認めた方がいいんじゃない?」

 そう彼女は言った。

 眼力があり直情的。なんとなく分かるかもしれないが、彼女はプライドが高い。純然たるサディスト(言い過ぎ)だ。まあ女王様キャラなんだ。きっと小さいときから頭が良く、大学入学までエリートコースを突っ走ってきたんだろう。僕はと言えば、なんとか大学入試という死線を潜り抜けてきたが、とてもそんなエリートとは程遠い。彼女は今回の件について勝者敗者を決めたいのだ。

「はいはい、認めるよ。それは僕の本だ」

 こういう人種は少なくない。僕はこんな時どうやって折り合いをつけるか十八年間の人生でとっくに学習済みだった。

「そう。やっぱりあなたの本だったのね」

 彼女は少し得意げだった。そして別の話題を切り出した。こういうタイプに限って、一時の感情は激しくても後に尾を引くことは無い。決して付き合いにくいことは無いのだ。

「しばらく来なかったけど元気にしてた? これ作ってきた煮物だからよかったら食べてね」

 彼女はそう言って紙包みを僕に渡した。

「ありがとう。いつも楽しみなんだよなあ、これ」

 常日頃の病院食は味が薄くて淡泊で、つい最近まで成長期だった僕にはどうも味気ないものだった。だから彼女の差し入れは素直にありがたい。

 彼女は白織の荷物運びが済んだ後もちょくちょく僕の見舞いに、白織の母親と交代で来てくれる。それは親すら見舞いに来ない僕の大きな励ましになっていた。

 ふと傍らを振り返るとさっきいた少女はもう居なかった。僕たちが口論しているうちに逃げたらしい。混乱に乗じて逃走する。まるで捕らわれたスパイのような手際の良さ。もしくは僕が単に夢中になっていたからかもしれない。

「……」

 それにしてもあそこまで人間に対して過敏症だとは。僕は少し彼女のことが気に掛かっていた。

 葉菜さんと別れた僕は、そのまま自分の病室に向かった。時計は午後八時を回っている。その後寝る準備をして、ちょっと考えてテレビのある休憩所に向かった。思えば寝たくなったら寝て、食べたかったら食べる、病院とは実に動物らしくいられる場所だ。悪いことではないけれど、生産的でないことは確かだ。でも仮に休学中の大学に僕が通ったとして、生産的に動けたとは思わない。いつも受け身で生きてきた人間だ。それしか知らないから、これからもそれを続けるかもしれない。

 さっきとは別の休憩室では七、八人の映画好きが九時からの洋画を見ていた。今日はどうやら医者の話らしい。集団に混じってぼんやり僕が見ていると、次第に引き込まれていった。

医者は名誉ある仕事で患者より権威ある存在と考える医者も多い。しかしその医者はあくまで患者の立場に立ち、ともに悩み成長していくというもの。なかなか面白いヒューマンドラマだった。

ぼんやり見ていて僕は急に閃いて思わず「あっ」と声を上げそうになった。そしてすぐさま自室に戻り、手帳にアイデアを記した。これが果たして上手くいくのか分からなかったけれど、試してみる価値はあるとそう思えた。 

若いころの苦労は買ってでもしろ、だ。僕はあえて苦労しにいくような人間ではないけど、やる価値はあると思う。そのためには多少の恥も仕方あるまい。やっと白織に応える方法が一つだけ思い浮かんだのだ。

 次の日から僕の挑戦はたった一人で、誰にも知られることなく始まった。

計画はとてもシンプルなもの。「患者がしてほしいこと見抜き自分がしてやる」のだ。そうすればここにまとわりつく疲れた空気も和らぐはずだ。ただほとんどの人間とコネクションの無い僕に自分の望みを打ち明けてくれる人間はいない。まずは良好な関係を作ったうえで行動しなくてはならない。自分のコミュニケーション能力の低さが恨まれるが、そこは仕方ない。

 手始めに、自分と接点のある山村老人に試みることにした。

 カーテン越しに呼び掛ける。

「山村さん、ちょっといいかな? 」

「なんじゃ? 」

 少し迷惑そうな声が返ってきたが、この老人相手なら多少の粗相も妙策なり。カーテンを開けるとエロ本を熟読する山村がいた。ひょろっとした体で頭は坊主、そのくせ白いひげがふっさり口を覆っている。

「あっ……それ僕のやつだ」

「固いこと言うな新入り。冥土のみやげじゃ」

 この老人の口癖だった。看護師にセクハラ行為に及ぶ時もこのフレーズを言う。すると相手は多少の憐憫の情に駆られて彼の罪を見過ごしてしまう。する相手を選ぶのもこの老人の悪知恵だ。因みにもう半年近く入院しているのに僕はずっと新入り呼ばわりされている。

「山村さん、何か望みはない? できればあなたの力になりたいんだ」

「急になんじゃ? 」

 急に山村は落ち窪んだ眼から強い眼力を発した。この老人は人を全く信じてないようだ。

「昨日映画を見てさ、僕もなにか人の役に立つことをしたいと思ったんだ」

「……」

 しばらく山村は僕をじろじろ見たあと、「他を当たれい」と僕を追い返してしまった。なんでかと問い詰めてみると、「手は足りとる」と返ってきた。つまり望みなしか。

「なら仕方ないや。そういえば僕の本――」

 そう言いかけた瞬間、山村老人は、「おお、そうじゃった」と思い立った。そして、

「このエロ本くれ」と言ってきた。

それに僕はあっさり答える。

「だめに決まってるだろ。僕の大事なコレクションなんだから」

 ここで厳しい現実問題にぶち当たってしまった。誰に的を絞って親しくなればいいのかとんと検討がつかなくなってしまった。この病院の通路は人通りが少ない。だから親しくなること自体、稀なのだ。

 少し歩いたところで向こう側からあわただしく緊急治療室へ向う医師たちと患者に出会った。患者はベットで酸素マスクを付けられ、体に何本も管を通していた。よく見れば昨日出会った少女だった。すれ違いざまに出会った彼女は、目を閉じ苦しそうに悶えていた。彼らは僕の横を通り過ぎ、角を曲がって見えなくなった。

「……」

 何も彼女だけじゃない。

白織だってあんな風に運ばれるのを何度も見た。後で分かったことだけどここはホスピスに近い場所。ここの患者はもうほとんど完治の見込みがない。そうでなければ、都会へのアクセスがもっと良いはずだ。

 患者は、みんなもう自分の人生を諦めたような顔をしている。好きなものを取り上げられ、家族とも暮らせない。

 その苦しみを僕は知らない。家族の顔がなぜか思い出せないし、会いたいとも思わない。それに藪川は「安静にしとれば一年以内に退院できるよ」と言っていた。

 でも自分の現実を諦めている人はなにもこの病院だけにいるわけじゃない。年齢を重ね、経験を積めば、誰にだって分かる。

 この世界は思った以上に抱えるものが多くて、子供の頃のように夢ばかりは見ていられない。だからせめて普通に生きたいと願う。普通の仕事に就き、普通に休日をもらう。普通の収入を得て、普通に家族を持ち、普通の一軒家に住み普通に生きてゆく。

 しかし普通は意外と難しい。

 普通を願い普通に生きられない人はごまんといる。だからみんなその「普通」を獲得するために一生懸命なのだ。波乱万丈な偉人の人生より、無難な庶民生活の方がずっと好まれる。だって偉業を成すことは自己犠牲に等しいからだ。

 普通に生きることは悪い見方をすれば、白織の言う「殻に籠った」生き方だろう。

 でも僕は一概に白織に賛同できない。

 だって僕自身も……普通の人生を歩みたいと思うからだ。たった一人の力なんて、この社会では小さなものだ。自己犠牲なら偉大なリーダーの資質を持った人間にやってほしい。

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