第1話 白織優との出会い(3)

 白織についてもう一つだけ話させてほしい。それは彼が何のために周りに反発し、体に鞭を打っていたか、ということだ。

 白織は絵が好きだった。他の何よりも好きだった。起きている間の大半、必ず何かを、例えば風景やら花瓶やら、向かいにいるおじいちゃんやらを熱心にデッサンしていた。その時だけ彼は、普段のふざけている少年ではなく、真剣にキャンバスに向き合う一人の創作家だった。

 因みに僕は彼の絵を見せてもらったけど、なんだか写実的ではなく実際とは異なる色使いがされ、不自然に各所が飛び出していた。僕には良くわからないが、彼曰くいろいろなメタファーを含んでいるらしい。芸術作品を見る目が僕にはなかったけど、彼は大人に自分の絵を見せようとはしなかった。

 でも僕にだけ、彼は自分の夢を語ってくれた。それはいつの日か画家になることだ。今までほとんど誰にも知られず苦しんできた少年が、いずれ世界中に知れ渡る画家になる。今は病院から動けないし、どうすれば画家になれるのかも分からない。でも病気が完治した暁には、東京に行って有名な先生に弟子入りする。勿論親には今まで散々お金を使わせてしまったから、今度は自分がアルバイトをしながら苦学をするつもりらしい。

「叶うのか? そんな夢? 」

 僕は思わず聞いてしまった。

「無理だとあきらめていれば、できないよ」

「有名な先生って、そんなつてはあるのか? 」

「ないよ。でも、熱意を持って頼み込めば、きっと答えてくれる人が見つかるさ」

 なんたって、と言って、彼は何度もこういった。

「人を動かすのは情熱なんだ。条件とかお金なんて関係ないよ」

 かっこいいこと言うよな。僕は思った。僕ならこんな言葉、恥ずかしくてなかなか言えない。そう甘くないのが現実なんだぜ。

「無理と思ってるきみには一生無理さ。自分の枠の中で一生いきるんだ。でも僕はそうじゃない。今まで僕は必死に生きてきた。だから病気が治っても必死に生きていくよ。今度はやられてばかりの人生じゃない。自分から積極的に生きるんだ」

 彼は病院という檻の中で生きてきたからかもしれない。僕に言わせれば少々誇大妄想してる節がある。

でも僕はそんな彼が好きだった。

もちろん性的にじゃないよ。人間的に、だ。

表面では人を小ばかにするけれど、時折見せる姿はとても純粋で、胸を張って語れる夢があった。自分はどうなのだろう? なんとなく親に従って大学に入った記憶がある。少なくとも、彼みたいに夢を持ってはいなかった。なんで入院したかは分からないけれど、もしここに入っていなくても将来への夢も希望も無い、生きる意義なんて考えない大学生活を送っていた気がする。

僕はこの十八年間の人生で大抵のことは経験してきた。楽しいことも、うれしいことも、悲しいことも、少しではあるが甘酸っぱいことも、そして辛かったり悲しかったりすることも。夢を持つことはホントに大切だ。それを持ってる人間の人生の質はとても高いだろう。でもあらゆることを経験し、人生の中の刺激をほとんど受容して、それでも未来へのベクトルの決まらなかった僕には、大学四年間で新たなベクトルを見つけることは至極困難に思えた。大学への合格が決まってから知ったけど、就職活動は大学三年目の秋から始まる。つまりそれまでにベクトルが決まらなければ嫌がおうにも次のステージに進まなくてはならない。それは見方によっては良いことなんだろうけど、ある種の諦めを感じずにはいられなかった。

……僕だけだろうか? 少年時代の夢をいつまでも追い続けることを美しいと思ってしまうのは。妥協を許さず挑戦することが、本当に大切だと思うのは。でも頭と体は必ずしも連動しない。自分は今まで通りに流されて生きることになるんだと、うすうす思っていた。

「なんだよ、そんな深刻な顔をして」

 くすっと白織が笑った。僕が自分のことを考えていた時だった。後から振り返れば分かる。僕は彼が羨ましかった。夢中になれることを持っている彼が、羨ましかった。

「いや、すごいなー白織は、って思ってさ。なんか、考えてることが僕なんかと違うよ」

 それに十代後半なのにまだ夢を持ててさ。そういうと彼は答えず、視線を遠くに見える都市に向けるのだった。

そこに彼の、夢があるのだろう。

 そんな頃、白織葉菜と僕はほとんど面識が無かった。

彼女は白織の姉で頭が良く、地元の国立大学に現役合格を果たしたらしい。白織からの情報はそれくらいで、僕が彼女と親しくなるのはもっと後の話だ。たまに白織にとても良く似た(髪型も彼女はショートヘアで、後姿などほとんど白織の女装したそれだった)人が白織のお見舞いに来ているのを見かけるくらいだった。

 そんな彼女と僕が親しくなるきっかけは、僕が入院してもう三か月も経った、夏の暑い日だった。

白織の容体が急変した。朝起きると僕の隣にいって、もう起きて絵を描いている白織がいなかった。日常を揺るがす出来事は、ある朝突然起きる。少なくとも僕の場合はそうだった。

 僕はただならぬ雰囲気を察知して、ベットから起き出して外に出た。廊下には急患を迎えるような独特な緊迫感が漂っていた。それはまるで臭気のように僕の胃をひりひりさせた。

 集中治療室のランプが灯っていた。嫌な予感がする。最高に不快な気持ちだった。

朝の病院は無人で、看護師すらいなかった。僕がそこに着いてすぐに、細やかなおめかしをした、いかにも大学生という風貌の女性が走ってきた。彼女は汗で化粧が流れ、不安で顔は歪んでいた。間違いない、白織の姉だった。

「あの……、どうも」

 僕が言うと、

「……ああ、こんにちは」

 と彼女は返した。それで会話は終わった。

 それから僕は集中治療室の前で二時間も待ちぼうけを食わされた。白織の姉も、時間が経つごとに落ち着いてきて、アイフォンを片手にしきりに画面にタッチしていた。そしてかなり時間が経った頃――。

 集中治療室のランプが消え、ゆっくりと白織を乗せたベットが引かれてきた。

僕は周りの医師たちの顔からすべてを悟った。白織は体中に点滴の管を通され、目を半開きにしながら、泣いていた。

それを見た途端、僕はハンマーで横顔を殴られたような気分になった。僕はやりきれない気持ちになって、ベットにすがり付いた。嫌だった。白織がいなくなるのが。いや、それもあるというのが正しい。

僕は現実的で常識的な人間だ。普段から客観的であろうとしている。それが大人になるということだと思うからだ。でも本当は大人になんてなりたくなかった。いつまでも夢を見ていたかった。もう夢の見方さえ忘れていたのに。だから白織は、僕にとって希望の松明だった。いかに困難が前にあろうと、現実を見せられようと、いつまでも夢を堂々と語れる人間。どこまでも自分の情熱に純粋で、正直な奴。

コイツといればいつか自分にも何か目標が見つかると、漠然と考えていた。それだけ僕は彼に依存していた。僕は彼に与えられてきた。でも、コイツがいなくなれば僕はどうなるのだろう? また現実の厳しさに打ちのめされて、流されて生きることになりはしないか? 

物は考えようだけど、僕はそれをとても恐ろしく思った。なんで白織が死ななくてはいけないのだろう? 他にも人間はごまんといる。でも白織のように志高く生きる人間はごく少数だ。ならなんでそんな人間を、神様は殺すんだろうか? 生きる意味さえ分からない人間の方がずっと多いのに。

 僕がうなだれて黙っていると、白織の方から声を掛けてきた。その声は急な危篤でさえ、底から力が溢れてくるようだった。

「荒巻……僕はもうそろそろダメみたいだよ」

「……そんなこと言うなんて白織らしくないよ」

僕は言った。

「でも分かるんだ。もう僕、首から下が動かないんだ」

「そんな……」

 僕はその時、今までのたった三か月の短い白織との時間を思い出した。

たった三か月でも、僕は彼から今までの人生でも特に大切なものを与えられたと思う。それは、ここにはちょっと書ききれないものだ。

「ねえ、荒巻」

「なに? 」

「最後に僕と約束してほしいんだ」

 約束とはなんだろうか? 僕にはとんと予測がつかなかった。

「君がこの病院にいる間だけでいい。僕はここにいてずっと窮屈だったんだ。ここの患者はみな現実的すぎる。

何て言うか、疲れてるんだ。だから僕は早く退院して外の世界に飛び出したかったんだ。でも、本当は違ってた。周りの話を聞いてて分かったよ。本当は外の世界も同じだったんだ。みんな、前に出ることに億劫で、いつも自分と他人との距離を測りながら生きていた」

「みんな、そうだよ」

 僕は当然だと言った。

「でもそれは本当にそのままで良いのかな? 僕はこの病院のベットの上で、寝ながら絵を描きながら、ずっと考えていた。実はみんな少年のままでいたいんじゃないかな? いつまでも夢を持って、生きることをものともせずにいたい……」

「そりゃな……。でも、大きくなるといろんなもんが見えてくるもんだろ? しがらみは多くなるし、第一目指すものが見えない人も多いよ」

 そう、僕みたいに。僕は言いながら心の中でつぶやいた。大人になると色々なことが見えてくるんだろう。華々しく活躍するテレビのスターがいつの間にかテレビから姿を消していること、笑顔を振りまく人々が本当は裏ではとても苦労していること。それは紛れもなく現実の厳しさじゃないんだろうか。子供から大人になるにつれて、現実が見えてくること自体に、良いも悪いもないんじゃないかな。

「みんな自分と他人の利益の境界を作りながら、領土みたいにして自分の殻に籠りながら一生を過ごしていく。でも僕は、本当はそれは幸せなことじゃないと思うよ。本当は人は殻を破るべきなんだ。つまらないしがらみも利益も捨てて、真心で人と接するべきなんだと思うんだ」

「そんなこと、できるのかよ」

「君が、それをやるんだ」

 白織が動かないと言った手をグイと動かして僕の腕をつかんだ。その力は意志の力か、危篤の人間のものじゃなかった。

「お願いだ荒巻……。この疲れた病院を、諦めきってしまった患者たちを変えてくれ。こんな残酷な世界に僕は生を受け、生きたなんて思いたくない。もっと楽しくていいはずだろ? 夢があっていいはずだろ? お願いだ、僕が生きたこの病院を、この世界を変えてくれ。

僕が生まれたことを……後悔しないようにしてくれ」

 彼の吐息は荒く、彼の言葉には今の状況に対する怒りすら感じ取れた。

「……」

 言葉が出なかった。白織も随分苦しんでいたんだ。生きていくということに、現実というものに。ずっとベットの上で考えていたんだ。本当に自分はこの世界に生まれてきてよかったのかと。誰よりも愉快そうに生きていて、ホントは――誰よりも現実的だったんだ。

 僕は彼の要望の具体的な解決法を知っていたわけじゃなかったけれど、なぜか「うん」と答えてしまった。

また一つ厄介ごとが増えたな。普段の僕の思考回路ならそう考えただろう。けれどなぜか彼の言葉だけは看過できなくて(僕もうすうす彼の言うことに共感できたからかもしれない)、受け止めずにはいられなかった。

確かに彼の言う通りだ。現実は、だるい。それは街に出れば一目瞭然だろう。朝出勤に行くサラリーマンを取り上げてみよう。体は前に屈んで、地面を見ながらとぼとぼと歩いていく。会社の人間関係、仕事の責任、部下の世話。一方では家庭があり、妻や子供たちを養っていかなくてはならない。両肩に責任を背負わされ、毎日取引先相手に頭を下げている。

街を歩く大学生もそうだ。彼らの大半は社会人にはなりたくない、と言う。右も左も分からないまま会社に入れられ、毎日目の前のことに精一杯の日常が続く。そんな中でフッと、学生時代に立ち返るようなつもりで深酒をしてしまえば、酔った勢いで喧嘩やら暴行事件やらに発展する。そんな社会人の新人に、一体誰がなりたいなんて思うんだろう? 少なくとも僕はそれになりたいだなんて、考えることはできない。だから普通には生きたくないと思う。

 白織の葬式は親族と病院関係者がほとんどという、しめやかな葬式だった。

僕ももちろん参列したが、不思議と悲しいという感情は湧いてこなかった。むしろ僕には、白織から与えられた課題とどう向き合っていこうか、ということで頭が一杯だった。

 葬儀の帰り、僕は誰に見送られることもなく入口を出た。空はどんよりと曇っていて、夏の余韻が残る湿気を帯びた空気に、肌が触れた。その時、後ろから駆け寄ってくる人がいた。

「ねぇ君、荒巻くんだっけ?」

 振り返ってみれば白織の姉、白織葉菜だった。白織と同じで鼻筋が通っていて、目が大きい。ただ姉は健康らしく、目は痩せて窪んではいなかった。白織もそうだけど、彼らの家系は美形だな、そう思った。顔のつくりは、優と瓜二つだった。

「そうです。白織とは短い間でしたけど、仲良くさせてもらいました」

「こちらこそありがとう。本当はね、アイツ自分の余命がどれくらいか一年前から知らされてたの。でもアイツ、予定の六か月の倍も生きられたわ。ホント、君のおかげだと思ってるのよ」

「僕が? なんでですか? 」

「君は気が付かなかったとは思うけど、アイツよく見舞いに行くと荒巻君のこと話してたもん。最近面白いやつが入ってきたってね。最近はちょっと……元気はなかったけど、君のことを話す時はすごく生き生きしてたわ」

 そうなんだ、知らなかった。でも白織がそんなに僕を慕ってくれていたなんて素直にうれしかった。

「本当はお礼に行きたかったんだけど、アイツが自分が生きているうちはやめてくれってね」

 「そうなんですか。素直にうれしいです」

 白織葉菜の言うことには、彼女は白織が病院で使っていた生活用品を片付けるために、今後も病院に出入りするらしい。お礼はその時改めて、と彼女は言って去って行った。

 僕は一人、葬儀会場の駐車場を歩きながら考える。僕が彼から与えられた課題。病院を変えるということ。さあこれから僕はどうこの課題を解決していこう?

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