第1話 白織優との出会い(2)

それから毎日一緒にいることもあって、僕と白織が仲良くなるのにそんなに時間はかからなかった。

晴れの日は彼に病院や近くの森を案内してもらった。雨の日は大抵トランプだった。二人ではゲームは盛り上がらないので、彼が子供たちを呼んできた。

毎日一緒にいて気づいたこと、それは彼がものすごくわがままだ、ということだった。

 トランプでは平気でいかさまをした。それに負けた時の罰ゲームは相手が子供だろうと容赦なく押し付ける。全員にジュースをおごらされて泣き出す子もいた。世話役の看護師にも、病室の入口でこけさせたり注射針を隠して慌てさせたりした。

ある日、僕は明け方に隣のベットがごそごそ動く物音を聞いた。次の日、余分な睡眠を充分満喫してから目覚めると、病室がやけに騒がしい。なんだろう? そう思っているとどうやらその騒ぎの火種は隣のベット、白織のところかららしかった。

出入りする看護師をつかまえて聞いてみると、どうやら白織が行方不明らしい。その時僕は明け方のことが気になってはいたけど、口には出さなかった。その日の夕方に白織は発見されたのだが、なんでも十キロ以上離れた山中で発見されたらしいのだ。発見された時白織は意識不明の重体で、緊急搬送された後二時間近く治療室のランプが灯っていた。

なんでも白織は無断で明け方病室を抜け出したらしくて、そのまま都市に近いところへ徒歩で歩いていったという。ところが朝の妙な冷気と普段の運動不足のせいで意識が朦朧とし、誤って土手を五メートルも転倒した。そこで本人は意識がなくなったわけだけれど、医者は「またか」と、きつく白織に注意していた。しかし白織はそれを全く聞こうとせず、終始面倒くさそうにぶっきらぼうに返事をしていた。

 それから間もなく、また白織はいたずらを仕掛けた。

今度はターゲットを看護師に絞ったらしい。ある日、僕は午睡から目を覚ました。時計は午後四時をさしている。(ここで言っておきたいのは、僕は決してぐーたら寝てばかりいる人間じゃないということだ。そもそもここはあまりに静かで退屈だから、他にやることがないのだ。)その時、近くの検査室から悲鳴が起こった。僕は何事かと起き上がって覗きに行けば、白織が医療器具を清潔にする消毒液の中に増えるワカメを投入したようだ。ワカメが増殖して消毒液の水槽から溢れていた。ちゃんと白織は痕跡を残してしまうらしくて、また医者に散々説教をされていた。

なんだか、コイツは刺激がないこの病院に大変不満があるようだ。かく言う僕も白織にからかわれた被害者の一人だった。

ある日、夜中にトイレを済まして帰ってくると、隣のベットの白織は起き上がって何か本を熱心に読んでいる。 

「ん? 白織起きてたのか」

 そう言うと白織はうろたえるように「ああ……」とだけ返した。

「なんだよ、こんな時間に。見られちゃ困る本でも読んでるみたいじゃないか」

僕はからかうように言った。

「や、やめろよ。見るなよ。さっさと寝ろよ」

「そんなさびしいこと言うなよー」

そういうそう思って僕は近づいて、白織が回避するより早くその本を覗きこんだ。案の定というかなんというか、そこには生々しい表紙と、互いの体の愛し方の指南書を示唆するタイトルがついていた。ははー、なんだかんだコイツもやっぱり男なのか。そりゃ仕方ないよな。こんな病院じゃ同年代の女子もいない。そんな監獄でコイツは人生のほとんどを浪費してきたんだ。

 白織は顔を赤らめながら本を布団の中に押しやった。

「み、見たな……」

「まあそうだけど。なんか分かるよ、お前の気持ち。大変だったよなーこんな場所じゃ同年代の女子もいないし……」

「女子? なんのこと? 」

 ぽかんとする白織。いやいや、しらばっくれるなよ。そう僕が言うと、白織はおずおず布団から本を取り出した。

そして僕は唖然とする。

その本は男と女について書かれた本じゃなかった。男同士で愛を語らんとする者たちへの指南書だったのだ。

「……ごめん」

 完全に白織のプライベートを侵してしまった。そんなつもりは無かったのに。一人の若い男同士の、くだらない戯れのつもりだったのに。

謝る僕に白織は「嫌だよ」と小さく答えた。相当恥ずかしかったらしい。顔をうつぶせて表情を隠している。

「ホント、悪かった」

「嫌だ」

「反省してます」

「もう遅いよ。いくら友達でも、邪魔しちゃいけない領域があるはずだろ? 」

「……友達だろ? 」

「もう僕らもお終いだね」

「そ、そんな……」

「荒巻」

「なに? 」

「本当に許して欲しいの? 」

「そりゃ、うん……」

 この病院で唯一の友達だし。正直、白織と喧嘩してしまえば僕には話し相手がいなくなる。それに僕は耐えられる自信がなかった。

「なら、約束しない? もう互いのプライベートには友達として首を突っ込まないって? 」

「ああ、約束するよ」

「信頼できないね」

「お前が言いだしたんだろ! 」

 白織は僕に向かって「誓ってよ」といった。しかし僕が「誓う」と言っても一向に納得しない。

「ならどうすりゃいいんだよ? 」

「僕と契るんだ」

「契る?それってどういう……」

 そう答える間もなく、白織は勢いよく僕の上にまたがった。骨と皮しか腕にないのに跳びかかられた衝撃で、僕は押し倒された。

彼の痩せて浮き出た眼球が、廊下からの光を受けて不気味に光った。契るってまさかそういう……!

彼の肩までの長髪が垂れ下がった。ああ、男女が横に重なるとこんな風に見えるんだ、と僕はぼんやり感じていた。白織の痩身から発せられる力は意外に強い。これだけの力があるから今までの逃亡やらいたずらが手早くこなせていたわけか。

「君には友達としてじゃなく、もっと深い部分で僕を知ってほしいんだ。そうすれば僕の不安も無くなる」

「それって、ちょっ……! 」

 しばらく運動を放棄していた僕の手足は、白織ほどじゃないけど骨ばっていて、筋肉量は完全に負けていた。手足が動かせなかった。

「君に僕の辛さが分かるかい……? 同年代の子たちの遊びなんて知らない。たまに行った学校だって、中途半端に出欠席を繰り返してたら、できる友達もできないさ。そんな退屈と膨大な時間がひたすら横たわる牢獄に、僕はずっと閉じ込められてきた。一人で何年も何年も……」

「……」

 なんて返せばいいか分からない。

曲りなりにも普通に生きて普通に学校に通い、華はなくとも友情なんてものも一応経験している僕が、彼に掛けられる言葉なんて無かった。だって僕は、彼の気持ちだって分かってやれないんだから。

「気を紛らわすためと思ってくれていい。見下してくれてもいい。でも僕は残したいんだ。これだけ苦しんだ、これだけ我慢した、でも報われなかった白織優という人間が、確かに存在した形跡を、誰かのどこかに残したい……」

 彼の吐息が顔にかかる。

比較するための前例を生憎僕は体験していないから分からないけれど、多分健康な人間より遥かに弱弱しくてか細い呼吸なんだろう。それは彼の体が苦しみながら、それでも必死に動いてきたことを示している。

でも僕は、そんな彼をなんだか美しいと思った。

彼は生きる苦しみをちゃんと背負い込んでいる。生きることを放棄していない。自分はどうなんだろう? ふとそんなことを思った。彼の瞳は奥が濁っていて、でも何かが向こうにありそうで、覗いてみたくなる。その奥に裸の白織の気持ちが見えそうで……。

「ぷっ……! 」

 白織の口元が緩んだ。それはみるみる広がって、白織は急に笑い転げた。

「ははははは!ははは……はぁ……はぁ……」

彼はその勢いで僕のベットから転げ落ちて、情けなく「ぐうっ」とうめき声をあげた。でもまたそれは笑い声に変わり、白織は同室の者が起きないように笑いをこらえるのに必死だった。

僕は呆気にとられて何事かと茫然とした。でもそれが、彼のさっきまでの行為が僕へのウソだと悟り、恥ずかしいを通り越して抜け殻状態になった。もう僕には弁明の余地も、責める気力も残っていなかった。彼の演技は本当に迫真としていて、僕はそれに完全に乗せられてしまった。普段ならこんなことはしないし、僕はホモでも……ないはずだ。

「ごめんごめん、ちょっとからかっただけだよ」

「ちょっとって……」

 ずいぶんと演技に磨きがかかってたよなぁ! 相当練習したんじゃないか?

「荒巻、君は本当に純粋だね」

「そりゃ……知らないよ! 」

 僕は口で感情を表現することがあまり得意じゃない。十八歳にもなって純粋とはあまり聞こえは良くなかったけど、うまく言い返せなかった。

「僕は君が好きだよ」

 白織が言った。

「えっ? それって性的に、ってことか?」

「んなわけないだろ。友達としてさ」

 どうやらあの本から白織は嘘をついていたようだ。

 その言葉に僕があまりいい反応をしなかったからだろう。白織は言った。

「人間さ、純粋な方がいいと思わない? 」

「そうか? なんかカッコ悪いよな、純粋って。性格に奥行きがないっていうか、子供っぽくて」

「そんなこと無いさ。君は余裕そうな人間と必死に生きてる人間どっちに好感を持つ? 」

「余裕のある方かな」

「でも応援するならどっちだい? 」

「それも余裕のある方だね」

 そう答えると、白織は自分の言いたいことが言えないようで決まり悪そうな顔をした。

「僕が言いたいことはさ、人はね、頑張っている人の応援をしたくなる。たとえ不器用でも不似合でも、必死に頑張ってる人を周りの人は応援したくなる。その時まさに必要なのが、紛れもなく純粋さなのさ」

「まあ、分からなくはないよな。僕だって受験中は結構苦しかったけど、周りの人は親切にしてくれた……ような気がするし」

「だろ? だから、人を引き付けるには外の物事をそのまま受け入れる度量、つまり純粋であることが大切なんだね」

「白織って、そういう哲学が好きなタイプなんだな……」

 実は、僕も結構好きだった。そういう話のCDももってるし。

「だから、さっきの荒巻の反応はなかなか可愛かったよ」

 笑顔で言いやがった。こいつは悪魔だ。かわいいなんて、女子に言われても反応にこまる。男子に言われたら気色悪い以外にない。でも白織は見た目はどっちかというと女子に近くって、それが僕を複雑な気持ちにさせた。

「あんまりうれしくねえや」

「そうなのかい? 褒めたつもりだったんだけどなあ」

 とにかく、その日僕は白織に一本取られたわけだった。

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