モノクロデイズ

@tomoyasu1994

第1話 白織優との出会い

少し冷たい風が病室の窓から吹き込んでいた。僕は風に随分体を冷やされてから目を覚ました。

頭が重い。寝すぎた昼寝の直後みたいだった。体も痛くはなかったが、なんだか重い。

たぶん何日も寝たきりだったんだろう。白い病室の部屋を見渡した。

白塗りの縦横二〇メートルくらいの広い病室だった。部屋には僕のを含めて六つの簡素なベッドが備え付けられている。僕はその一番窓際の、入口から最も遠いば場所だった。

なんの変哲もないただの病室だ。窓からは、遠くにビルの立つ都市が見えた。この建物の手前は、木の生い茂った山だった。この病院は山の斜面に建てられているらしい。生い茂った樹木の一部は、これから来る秋に合わせて黄色に模様替えしている最中だった。

ここはどこだろうか? 自分は誰なのか?

名前は分かる。荒巻大輔。十八歳。でも、なぜここにいるのか分からない。病気だろうか? 事故にでもあったのか? もしそうだとしたらなんでこんな山奥の病院に行くことになったんだろう? 自分が以前に何を考えどう行動したのか、そしてどうして病室にいるのか。理由が知りたかった。

過去の記憶の一部はある。小学校の頃、夏休みに宿題をサボっていたことも、中学生の時クラスの女の子に初めて片思いしたことも、高校生活では勉強に苦戦したことも、覚えている。しかし周りにいた友達を思い出そうとすると、彼らの顔にぼんやり靄がかかったみたいな状態になる。友達の名前も誰ひとり分からなかった。

そして、学校生活は記憶にあるのに、家のこと、家族のことがまったく思い出せない。まるで僕には家が無かったかのようだ。懸命に思い出そうとする記憶の端々では、学校の帰宅時に友人と手を振ったり、一人で校門を潜り抜けたりするところで記憶が無くなっている。

本当の白紙だった。自分がどこで過ごし、どんな人たちと関わってきたのかが、僕には全く分からなかった。

重たい頭で、懸命に思考して一〇分くらい過ぎたころだろう。看護師の女性が、金属製のカートにいろいろな器具を満載してやってきた。二〇代後半から三〇代前半くらいの色白の女性で、長い前髪を額で二つに分けて左右に流していた。後ろ髪もゴムで縛り付けてある。結構美人な人だった。

「あら、荒巻さん、お気づきになったのね。よかったわ。」

「ここは、どこですか? 」

「ここは南里病院よ。あなたはここで三日も昏睡してたのよ」

 そうか、三日もか。そりゃ体も重いわけだ。

「なんで僕はここにきたんでしょう? すみません、理由が思い出せなくて」

「えー、ちょっと待ってね」

 そう言って看護師は病室を出ていった。しばらくして戻ると手に僕のカルテらしいものがある。

「精神障害……それも自傷的なものらしいわ」

「自傷的って……」

「まあ、自分で自分を傷付けてしまうことね」

 そう言って看護師はカルテをポンと閉じた。これ以上のことを話すつもりはない、という意思表示だろう。

「荒巻さん、お腹減ってない? 担当医の先生からは目覚め次第食事をして構わないとのことよ」

 そうか。ふむ……。確かにお腹が減っている。我慢できないほどではないけれど、胃が空っぽな感覚がする。

「食べたいです」

「そう。なら食堂まで車椅子で行きましょう。これに乗ってちょうだい」

 そう言って車椅子をベットの脇から取り出して座れるように展開した。僕は三日ぶりに動かす重い体を、ゆっくりと起き上がらせた。布団に隠れていた僕の腕や病院着が露わになる。なんだか深い眠りから覚めて、久しぶりに見た自分の腕は、細くて白くてすごく弱弱しい。病院着から覗くくるぶしも白く骨ばっていて、なんだか自分でぞっとしてしまった。たぶん長い間、食事を充分にとってなかったせいだろう。

……本当に眠っていたのは三日程度だろうか?

 重い体を起こして看護師が持つ車いすに座った。その時も尻の辺りの骨が妙にシートに当たっ、て少しだけ不快だった。

 看護師の押す車イスが病室を出た。時刻は午後二時。昼過ぎの病院はとてものどかな空気が流れていた。秋のやわらかになった日差しが、閑散としてたまに医療室から道具をいじったりする音しか聞こえない通路に、さんさんと降り注いでいた。

廊下を通る途中、ドアの開けっ放しにされた病室から患者の様子がちらほら見えた。

何を考えているのか分からない、ボーっとしている中年男性。十字架を握りひたすら何かを祈っている女性。ベットに寝かされたままゲームをしている少女。病室から飛び出した幼い少年と少女が、追いかけっこをしながら僕の横を駆け抜けていった。

カフェテいリアと呼ばれる食堂は、広いホールに円形テーブルがいくつも並べられていた。

白塗りの清潔感のある壁で囲まれ、壁際に並べられた大きな窓からは黄色がかかった野山の木々がうっそうと見えて、遠くまでは見通せなかった。

午後二時を過ぎたせいだろう。この空間には二、三人の患者が席に座っているだけだった。配膳をするカウンターの中からは、食器洗浄機の音がゴーッとせわしなく響いている。

患者はいくら飲食をしてもここは無料らしい。一日中寝たきりの患者も少なくないのだから、飲食を無料にしても病院側には損失はないのだろう。

 円卓テーブルの一つに車イスを付けてもらい、その後は自分で注文をしにカウンターへ行った。一、二の三で腰を上げ、少しふらついてから歩き出した。

病院の食堂は何種類かのメニューが張り出されているのみだった。配膳のおばさんにかつ丼と味噌汁、サラダとみかんデザートを注文した。

おばさんは、冷蔵庫に行って、昼に残った料理を出して来て、レンジのところへ持っていく。

起きて時間が経つと、何も食べなかった分胃が空腹でひりひりした。手際よく温められたかつ丼と味噌汁がすぐに出され、僕は食事一式をプレートに乗せテーブルに戻った。カフェテリアのかつは、口に入れると衣がボロッと崩れ、肉の繊維が多くて噛み切りにくかった。

しかし三日間飲食をしていないんだから、僕は夢中でかきこんだ。途中でむせ、思わず咳き込んだ。

「……ごほ、ごほ」

「はい、水」

 横から水が差しだされた。

「ありがとう」

 もちろん喉もカラカラで、かき込んだところでそんなにうまくのどを通るわけなかった。一気に水を煽った僕の横にいたのは看護師ではなく、肌の白い、髪が肩まである女の子だった。看護師は僕が食事を注文しているうちに行ってしまっていた。

彼女はいつの間にか僕の円卓机の横に彼女の車いすを付けていた。彼女は全体的に生気のない顔をしていて、その中でやけに瞳だけが大きく、はめ込んだ水晶の球みたいに輝いている。彼女は、僕を覗きこんでいる。ほとんど肌の色と違わない薄いピンクの唇が、わずかに吊り上っている。微笑ってやつか。

「アンタは誰だよ? 」

「君のベットの隣の患者だよ」

 そうだったのか。ふむ、ずっと寝ていたからいまいち分からない。でも相手がいっているのだから間違いないのだろう。

「それは知らなかったよ。よろしく、荒巻大輔だ」

「白織優(しらおりゆう)だよ」

 そういって僕らは握手した。そっと取った彼女の手は骨ばっていて少しごつごつとしていた。

「あれ……白織さんってやけに腕がなんか……こう、力強いよね」

「そりゃそうさ。僕、男だし」

 そうなのか。僕ははっきりとは言わなかったが、かなり意外だった。そうか男か。わずかでも病院内恋愛なんてことが頭をかすめた自分に、みじめさを感じた。

「それにしても華奢だよな。あんまりご飯食べなてないだろ? 」

「うん、まあね。僕、幼稚園の時からここにいるんだよ」

「えっ……」

 あまりにも重たいセリフだったから、どんなふうに返したらいいのかさっぱりわからなかった。僕は少なくとも高校卒業後にここへ来たんだし、まだ一週間も経ってない。彼とはここで過ごしてきた期間が違いすぎる。

そりゃ大変ですね、じゃ安っぽい。辛くなかった? ……辛いに決まっているだろう。

僕は目の前の彼みたいに長期で入院したことは無いから、彼の気持ちが理解できなかった。これからは同じ病院仲間だな……はたして自分はそうなるのだろうか? よく分からない。なにせ、肝心の起き上がるまでの記憶がごそっと抜けている。自分はこれからどうなるんだろう?

 うまく言えずに悩んでいたら、白織から声をかけてきた。

「いいよ。そんな深刻な顔しなくても」

「うん……ごめん」

 気を遣わせてしまった。たぶん相手も僕の気持ちを察しているんだろう。それは多分今までにも同じように、相手が黙ることがあったからだ。

「でもうれしいな、荒巻くんが来てくれて。この病院、同世代の子がいなくて退屈してたんだ」

「そうなのか。こんな大きな病院ならいそうだけどな」

「うん、まあ四か月前までいたんだけどさ」

 そう言って懐かしむように視線を落とした。横の長い髪が垂れ下がって横顔を隠すその姿は、女性らしかった。

「病気が良くなって行っちゃったよ」

「そりゃ残念だったな」

「うん、まあいいよ。君が来てくれたんだしさ」

 そう言って、白織はからっと笑顔を作った。

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