第21話

 朝起きると、ラブラインがいた。

 俺は大股開きで寝ていたのだが、その股の間に挟まるように、ちょこんと正座している。


 目が合うなり彼女の表情は強ばり、ギクシャクと深々と頭を下げていた。


「お……おはようございます、旦那様」


 いつもと様子がおかしいことに、俺はすぐに気付く。


「いつもは4人で起こしに来るのに、今日はラブひとりなんだな」


「は、はい! 本日は『おためし婚』のなかでも疑似新婚生活を営む日となっております。

 ですので、わたくしとふたりっきりで過ごしていただきます」


 小学生が学芸会の台本を読み上げているみたいな口調のラブライン。

 もしかして、緊張してるのか?


 ふと視線を移すと、部屋の玄関が扉がほんの少しだけ開いていて、外からナニーナが覗き込んでいるのが見えた。

 我が子の晴れ舞台を見守る親のように、ハラハラした表情で握り拳を固めている。


 うーん、今日は1日なかなか大変なことになりそうだ、と予感していると、さっそく大変なことがあった。


「旦那様、それではお顔のほうを洗わせていただきますね」


 ラブラインはそう言うと、水の入った手桶を持って立ち上がった。


 彼女はどんなに近い距離の移動でも膝立ちで歩くようなマネはせず、きちんと立ち上がる。

 きっとそういう風に躾けられているのだろう。


 それはいいとして、ほんの数歩の歩くだけなのに、彼女はすってんと転んでしまい、


 ……ばっしゃーん!


 桶の水を思いっきり自分にぶちまけていた。


「あううっ……す、すみません、旦那様……」


 尻もちをついたラブラインはすっかり濡れ鼠。


 外にいるナニーナは今にも助けに入ってきそうなほどにうろたえていたが、考えるような素振りをしたあと、「名案が思いついた」みたいに胸の前でポンと手を合わせる。

 そして俺に向かって、「がおー」と狼のようなポーズを取った。


 もしかして……「そのまま押し倒せ」と言っているのか!?

 俺は思わず声に出していた。


「するか! そんなこと!」


「えっ?」


「あ、いや、なんでもない。それよりも大丈夫か?」


 俺はそばにあったタオルでラブラインを拭いてやった。


「ううっ、すみません、旦那様……」


 ラブラインは普段から「守ってあげたい」感じの女の子なのに、濡れるとより一層儚さが引き立つ。

 水を張ったように潤んだ瞳と、肌に張り付いた髪、垂れ落ちる雫までもが愛おしく感じた。


 それから俺たちは、いっしょに服を着替えた。

 といっても俺は背を向けて、ラブラインのほうを見ないようにして。


 俺が玄関側を向いて着替えていたのだが、外にいるナニーナがしつこかった。

 とうとう『うしろ、うしろーっ!』とカンペまで出して俺を煽動しようとする。


 こんな事故のドサクサにまぎれて着替えを覗くなんて最低な男のすることだと俺は思っているので、振り返ることはしなかった。

 誘惑と戦っていると、ふと俺の背中に柔らかいものが当たる。


 そして、今にも消え入りそうな声がした。


「本当に申し訳ありませんでした、旦那様……。

 今日は初めての新婚生活だというのに、旦那様のお世話をさせていただくどころか、朝からご迷惑ばかりおかけして……。

 お願いです、旦那様……。どうか、わたくしのことを、お嫌いにならないでください……。

 これから一生懸命、旦那様にお尽しさせていただきますから、どうか、どうか……!」


 俺は振り返ると、ラブラインを抱きしめた。

 上を着替えている最中だったので、上半身裸だったけど、そんなことはおかまいなしに。


 そして、まだしっとりしているラブラインの髪を撫でてやる。


「誰だって最初は失敗するもんだ。それに俺は失敗なんかで嫌いになったりするもんか。

 だって俺だってしょっちゅう失敗してるんだからな」


「えっ? 旦那様も、失敗なさることがあるのですか?

 わたくしにとっては、なにもかもが完璧に見えるのですが……?」


 顔をあげたラブラインは、心底信じられないような表情をしていた。

 俺は苦笑する。


「それはたまたまだよ。この前なんて、コーヒーに入れる砂糖と塩を間違ったくらいだ」


「あっ、それでこの前、事務所でコーヒーを飲まれていたときに、複雑な表情をなさっていたのですね!」


「見てたのか。塩コーヒーを我慢して飲んでたからな」


「どうして我慢なさっていたのですか? わたくしにおっしゃってくだされば、お作りさせていただいたのに……」


「お前に、いいとこを見せたかったからさ。砂糖と塩を間違うなんて、カッコ悪いだろ? だから……」


 するとラブラインはクスッと笑った。


「そんな、旦那様がカッコ悪くなんてありません。むしろ、かわいいって思っちゃいます」


「それと同じだよ」


「えっ」


「好きな人なら、失敗も笑って許せる……。そういうもん、だろ?」


「だ……旦那様っ……!」


 ひしっ、と抱きついてくるラブライン。

 俺の胸板に頬を埋め、愛おしそうに頬ずりしている。


 ふと、いつもと違う香りが立ち上ってきているのに気付く。

 ラブラインはいつも花のようないい匂いががするのだが、それにほのかに、艶めかしい肌の香りが混ざっていた。


 よくよく見ていると、ラブラインは全裸だった。


「お前、着替え終えてなかったのかよ!?」


 すると自分でも忘れていたのか、ラブラインの顔がボンッ! と発火したみたいに赤くなる。


「キャッ!? わたくしったら、なんというはしたない姿で……!?

 お、お願いでございます、み、見ないでくださいませ、旦那様!

 ああっ、で、でも旦那様でしたら……!

 でもでも、まだ心の準備ができておりませんっ……! あああっ、どうしましょう!?」


 俺から離れたら見えてしまうと、ぎゅーっと身体を密着させてくるラブライン。

 その無限の柔らかさが俺をさらに混乱させる。


 玄関の外では、ナニーナがガッツポーズをしていた。

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