憧月記
そのへんにいるありさん
憧れの月
信じられないかもしれないが、これらすべてが一人の男を指して言われたものである。
それでいて、
けれど私は、そんな
古人の教えに、
「
急なことであったからか、
一時、
身分が上がると、どこか一カ所に留まるということは難しくなる。そして、その日も私は遠方の視察のために部下を率いていた。
山林の草木をかき分け、黙々と進む。視界は足元をぼんやりと照らす月の光だけで、少々物足りなく感じた。
夜空を仰いだところだった。暗闇から一匹の
──私は、虎が鋭い爪を振り上げるのを見た。
それが私に触れるかどうかというところで、部下の一人が叫んだ。
「ひ、人喰い虎だ!!」
すると、虎はたちまち身を
そういえば、数刻前、宿屋の女将に言われたのだったか。「ここらの道は人喰い虎が出るから明るくなるまで出立を待つのがよいですよ」と。本当に出くわすとは思わなかった。多人数でまとまっていれば、いくら虎でも近づいてこないと思ったのだが。無理を言って出てきたのが不味かったか。部下が叫ばなければ、私は今頃息をしていなかった。ここから無事帰ったら昇進させてやろうと心に決めた。
「あぶないところだった」
聞き覚えのある声がした!
「その声は、我が友、
疑問符は飾りに等しかった。ずっと探していたのだ。私が
叢の中からは、暫く返事が無かった。けれども、静まり返った夜だからこそ、
私はその言葉に安堵した。声の主が
……やはり、生きていた!!
私は虎にあわや喰われそうになったことなどはどうでも良くなって、馬から降りて声の聞こえる
「一体どこへ行っていたんだ。探したぞ、
懐かしさが込み上げてきて、これが部下の前でなければ涙が出そうだった。
「何故、そこから出てこないのだ?」
顔を見て無事を確認したかった。
「自分は今や異類の身となっている。どうして、おめおめと友の前にあさましい姿をさらせようか」と。
そうか、
そうだろうか?それが
「しかし、今、図らずも友に会うことができて、恥じ入る気持ちを忘れるほどに懐かしい。どうか、ほんの暫くでいいから、我が醜悪な今の外形を厭わず、かつて君の友であったこの自分と話をしてはくれないだろうか」
友人にかける言葉にしては、やけに堅苦しいじゃあないか。私は、
部下に命じて行列の進行を停め、
「君がいなくなってから、皆はとても心配していたんだぞ」
正直なところ、これは嘘である。私と
「そうか」
流行りの芸者やらなんやらと都の話をして、私が現在の地位に登りつめるまでの苦労譚を語り、それに対する
あの日、誰かが
「はじめは自分も信じなかった。だが、明るくなってから自分の姿を水に映してみると、そこには虎がいた」
「自分だって、これは夢に違いないと考えた。夢の中で、これは夢だぞと知っているような夢を、自分はそれまでに見たことがあったから」
その声は、私にと言うより、自分に言い聞かせているようだった。
「どうしても夢でないと悟らねばならなかった時、自分は
そんなことを考えてみるものの、奇しくも私は知っていた。この悪夢は決して覚めないのだと。
「しかし、何故こんな事になったのだろう。分からぬ。全く何事も我々には分からぬ。理由も分からずに押しつけられたものを大人しく受け取って、理由も分からずに生きて行くのが、我々生きもののさだめだ」
「自分は直ぐに死のうと考えた」と
「しかし、その時、眼の前を一匹の兎が駆け過ぎるのを見た途端に、自分の中の人間はたちまち姿を消した。再び自分の中の人間が目を覚ました時、自分の口は兎の血に塗れ、あたりには兎の毛が散らばっていた。これが虎としての最初の経験であった。それ以来今までにどんな所行をし続けて来たか、それは到底語るに忍びない」
人としての食事は命を奪うということを見えにくくしている。猟師でも
「ただ、一日の中に必ず数時間は、人間の心が還って来る。そういう時には、かつての日と同じく、人語も操れれば、複雑な思考にも堪えうるし、経書の章句をそらんずることもできる。その人間の心で、虎としての己の残虐な行いのあとを見、己の運命を振り返る時が、最も情なく、恐ろしく、
人と虎は相容れぬもの。人が虎になるのに、どれだけのものを犠牲にしなければならないのか。
「しかし、その、人間にかえる数時間も、日を経るにしたがって次第に短くなっていく」
なんということだ。
「今までは、どうして虎などになったかと怪しんでいたのに、この間ひょいと気がついてみたら、俺はどうして以前、人間だったのかと考えていた」
私はその発言に衝撃を受けた。もう半分以上、
俺の中の人間の心は、獣としての習慣の中にすっかり埋もれて消えてしまうだろう。ちょうど、古い宮殿の礎が次第に土砂に埋没するように──。
しまいには、
「いったい、獣でも人間でも、もとは何か他のものだったんだろう。初めはそれを覚えているが、次第に忘れてしまい、初めから今の形のものだったと思い込んでいるのではないか? いや、そんなことはどうでもいい。俺の中の人間の心がすっかり消えてしまえば、恐らく、その方が、俺はしあわせになれるだろう」
しあわせと言うそれは本当の幸せではない。そう口を開こうとして、私はやめた。
ところが、次の
「だのに、俺の中の人間は、そのことを、このうえなく恐ろしく感じているのだ。ああ、全く、どんなに、恐ろしく、哀しく、切なく思っているだろう!俺が人間だった記憶のなくなることを。この気持ちは誰にも分からない。誰にも分からない。俺と同じ身の上になった者でなければ」
身が凍る思いだった。今、
「ところで、そうだ。俺がすっかり人間でなくなってしまう前に、一つ頼んでおきたいことがある」
声は続けて言う。私にできることならば拒むことは万に一つもない。
「他でもない。自分は元来詩人として名を成すつもりでいた。しかも、
私は部下に命じ、筆を執って
長短およそ三十篇、
旧詩を吐き終わった
「恥ずかしいことだが、今でも、こんなあさましい身と成り果てた今でも、俺は、俺の詩集が長安風流人士の机の上に置かれている様を、夢に見ることがあるのだ。
私は昔の青年
「そうだ。お笑い草ついでに、今の思いを即席の詩に述べてみようか。この虎の中に、まだ、かつての
私はまた、部下に命じてこれを書きとらせた。これが、人間
偶因狂疾成殊類 災患相仍不可逃
今日爪牙誰敢敵 当時声跡共相高
我為異物蓬茅下 君已乗軺気勢豪
此夕渓山対明月 不成長嘯但成暭
ふとしたことから転がり込んだ運命が、自らの姿かたちを変えてしまった。不幸が重なっているのか逃げることもできない。この爪と牙を恐れるあまりに、誰も自分と向かい合うことをしない。昔は君と肩を並べていたのに、今日ではすっかり変わってしまった。人目を避け草木の影に身を隠していると、とても立派になった君が現れた。月に見下ろされ、この悲しみを言葉にすることもできず、ただ吼えるばかりである。
ああ、もうすぐ夜が明ける──。
かろうじてまだそこに留まっている月が、私たち一行を照らす。覚えず、私は涙を流していた。こぼれ落ちた雫が一筋、地面に染み込んで消えていくのをそのままに、
「何故こんな運命になったか分からぬと、先刻は言ったが、しかし、考えようによれば、思い当たることが全然ないでもない」
なんだって?理由もわからず押し付けられたとの言葉は嘘だったのか。
「我が臆病な自尊心と、尊大な羞恥心とのせいである」
自分には人にはない才能があるはずだと思いながらも、それをむやみに信じることが出来ない臆病さ。それを飼いふとらせるあまり、尊大な振る舞いの内に必死で隠していた羞恥心を、眠っていた虎を、目覚めさせてしまったのだと。
「これが俺を損ない、妻子を苦しめ、友人を傷つけ、果ては、俺の外形をかくの如く、内心にふさわしいものに変えてしまったのだ。今思えば、全く、俺は、俺の持っていた僅かばかりの才能を空費してしまった訳だ」
天から授けられた才を使わずにいたからだろうと
「たとえ、今、俺が頭の中で、どんな優れた詩を作ったにしたところで、どういう手段で発表できよう。まして、俺の頭は
──どうすればいいのだ。俺の空費された過去は?
切なげな声が草木を震わせる。
「俺は堪まらなくなる。そういう時、俺は、向うの山の頂の
「天に躍り地に伏して嘆いても、誰一人俺の気持ちを分かってくれる者はない」
私が黙っているせいもあるが、
「ちょうど、人間だった頃、俺の傷つきやすい内心を誰も理解してくれなかったように」
私の全身を雷が貫いた。否、そう錯覚した。
私は、
「俺の毛皮のぬれたのは、夜露のためばかりではない」
ようやくあたりの暗さが薄らいできた。木の間を伝って、どこからか、
「もはや、別れを告げねばならぬ。酔わねばならぬ時が、(虎に還らねばならぬ時が)近づいたから」
「だが、別れの前にもう一つ頼みがある。それは我が妻子のことだ。彼等はいまだ
言い終わって、
私は「もちろんだ」と答えた。
「本当は、まず、この事の方を先にお願いすべきだったのだ、俺が人間だったなら。飢え凍えようとする妻子のことよりも、俺の乏しい詩業の方を気にかけているような男だから、こんな獣に身を堕とすのだ」
それは私にも言えることだと思った。
「
その時には自分が酔っていて友を認めずに襲いかかるかもしれないのだと言う。
このとき、私は仕事中であったことを思い出した。部下を放ったままで、私は何をしているのだろう。
「今別れてから、前方百歩の所にある、あの丘に上ったら、
私たちは丘の上で、言われた通りに振りかえって、先程の林間の草地を眺めた。たちまち、一匹の虎が草の茂みから道の上に躍り出た。虎はやはり美しかった。既に白く光を失った月を仰いで、二声三声咆哮したかと思うと、また、元の叢に躍り入って、再びその姿を見なかった。
これで最後だなんて信じたくはなかった。だから、もう一度、
私はあの日と同じ宿に泊まると、夜には戻るつもりだが、事情があり戻れなくなるかもしれないことを伝えた。「もし十日経っても私が戻らなければ部屋を引き払うように」と女将に頼んだ。全財産をそこに置いて、何かあれば
栄えた都のある風流人が、一通の手紙に目を通していた。優雅な茶の時間にはひどく不釣り合いな不機嫌な顔。
「詩人となれなかった友人の、最後の作品?」
(独り立ちすると出ていって、もうずっと連絡をよこさなかったくせに……)
返事には、おまえがどういう意図で送り付けたのかは知らないが……と紙にインクと皮肉を滲ませた後で、力強く。
──虎は死して皮を残し、人は死して名を残す。
憧月記 そのへんにいるありさん @SonohenniArisan
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