憧月記

そのへんにいるありさん

憧れの月

 博学才穎はくがくさいえい容姿端麗ようしたんれい前途有望ぜんとゆうぼう

 信じられないかもしれないが、これらすべてが一人の男を指して言われたものである。

 李徴りちょうは人の先を行く男。一歩と言わず、二歩も三歩も前を平気な顔で歩くのを私は知っている。この男は私よりもいくらか若い。だのに、私よりも遥かに知識を蓄えていて頭の回転などは他の追随ついづいを許さぬほどに速かった。察するに、天は二物を与えずというのは間違いであろう。

 それでいて、李徴りちょうの欠点といったらまた酷かった。自信家で自分本位な言動に、中途半端な向上心。周りの者は常々、李徴りちょうに振り回されるばかりであったと記憶している。

 けれど私は、そんな李徴りちょうの友になりたいと思った。その鬼才に憧れ、それでも完璧とは程遠い李徴りちょうに親しみを覚えた。

 古人の教えに、えにしとは気ままなもので水のように瞬く間に流れていってしまうものだとある。私はそれが許せなくて、思い立つと直ぐに李徴りちょうの元へ向かった。

隴西ろうせい李徴りちょうよ、私は袁傪えんさんである。どうか、私と昼食を共にしてくれないだろうか」

 急なことであったからか、李徴りちょうの顔は普段のすましたものになりきれずに、非常に間抜けなものとなっていた。私はそこに李徴りちょうの本質を垣間見たように思う。李徴りちょうの横柄な態度はきっと、見せたくない自分を隠すための外套がいとうであり、心を守るための盾であるのだ。不幸にも、それが相手を傷つける剣にもなってしまっているのだが。そういう訳で、仕事はできる李徴りちょうだが、人付き合いにおいてはたいへん不器用なのであった。

 一時、李徴りちょうは官を退いたことがあった。「詩家としての名を死後百年に残したい」と語っていたのをとうとう実行に移したのだ。別れの悲しみを呑んで送り出したが、帰ってきた李徴りちょうは目も当てられない様子であった。詩業が軌道に乗らず自信を失っていたし、昔の地位を捨てたばかりにずいぶんと低い給料で働かされ、それが李徴りちょうの自尊心をおおいに傷つけていたのだ。李徴りちょうのような才能もなくただ実直に働いていただけの私はそれなりの身分を手に入れているというのに。人に見下ろされることを嫌う李徴りちょうに私は声をかけることができなかった。友と呼び合うには、私たちは同じ目線でいなければならなかったのに。それでも、またいつかはと思っていた。時が二人の関係を修復してくれると信じて疑わなかった。

 李徴りちょうが失踪した。その知らせを聞いた時、私はまさかと思った。あの責任感の強い男が、仕事を投げ出すような真似をするだろうか?いや、するはずがない。李徴りちょうには妻子がいたが、そこに連絡を寄越すこともしなかったという。

 李徴りちょうを失ってから、私はまたもや昇進した。李徴りちょうの受け持っていた業務を私が継いで、成功させたからだ。私にも自らの仕事があったが、李徴りちょうの分を他の誰かに任せては李徴りちょうが戻った時に軋轢あつれきが生む。そう考えて、死にものぐるいで働いた。それに、私が李徴りちょうのためにできることはこれくらいしかないのだから。そういうわけで、李徴りちょうの分まで重用された私は見る間もなく出世した。

 身分が上がると、どこか一カ所に留まるということは難しくなる。そして、その日も私は遠方の視察のために部下を率いていた。

 山林の草木をかき分け、黙々と進む。視界は足元をぼんやりと照らす月の光だけで、少々物足りなく感じた。

 夜空を仰いだところだった。暗闇から一匹の猛虎もうこが躍り出た。黒と黄の縞模様が鮮やかで、薄暗い中でもくっきりとまぶたの裏に焼き付いた。

 ──私は、虎が鋭い爪を振り上げるのを見た。

 それが私に触れるかどうかというところで、部下の一人が叫んだ。

「ひ、人喰い虎だ!!」

 すると、虎はたちまち身をひるがえして、辺りのくさむらに隠れた。遅れて、私はどっと冷や汗をかいた。なんだったんだ、今のは。

 そういえば、数刻前、宿屋の女将に言われたのだったか。「ここらの道は人喰い虎が出るから明るくなるまで出立を待つのがよいですよ」と。本当に出くわすとは思わなかった。多人数でまとまっていれば、いくら虎でも近づいてこないと思ったのだが。無理を言って出てきたのが不味かったか。部下が叫ばなければ、私は今頃息をしていなかった。ここから無事帰ったら昇進させてやろうと心に決めた。

「あぶないところだった」

 聞き覚えのある声がした!驚懼きょうくのうちにも、私は叫んだ。

「その声は、我が友、李徴りちょう子ではないか!?」

 疑問符は飾りに等しかった。ずっと探していたのだ。私が李徴りちょうの声を聞き間違えるはずがなかった。

 叢の中からは、暫く返事が無かった。けれども、静まり返った夜だからこそ、くさむらの気配も息をするばかりの微かな音も拾うことができた。ややあって、低い声が答えた。「如何いかにも自分は隴西《ろうせい》の李徴りちょうである」と。

 私はその言葉に安堵した。声の主が李徴りちょうでなかったら、失望に眠れぬ夜を過ごすところであった。そして、熱い血潮が身体中を駆け巡るのが分かった。


……やはり、生きていた!!


 李徴りちょうが姿を消して、誰もが言った。「やつは死んだのだ。だからここへ戻らないのだ」と。信じたくはなかったが、時折、その通りかもしれないと思うことがあった。それでも私が李徴りちょうを探し続けていたのは、ひょっとしたらここで李徴りちょうと再会するためだったのではないか。そうだ、そうに違いない。

 私は虎にあわや喰われそうになったことなどはどうでも良くなって、馬から降りて声の聞こえるくさむらに近づいた。

「一体どこへ行っていたんだ。探したぞ、李徴りちょう……」

 懐かしさが込み上げてきて、これが部下の前でなければ涙が出そうだった。

「何故、そこから出てこないのだ?」

 顔を見て無事を確認したかった。

 李徴りちょうの声が応えて言う。

「自分は今や異類の身となっている。どうして、おめおめと友の前にあさましい姿をさらせようか」と。

 そうか、李徴りちょうはつい今しがたの虎であったのだ。

 くさむらの声は言う。自分が姿を現せば、私が畏怖嫌厭いふけんえんの情を起こしてしまう、と。

 そうだろうか?それが李徴りちょうだというのなら、どのような恐ろしい見目であろうと構わない。私が李徴りちょうを嫌うことはないと断言できる。……だが、私にその姿を見られたくないというのなら、無理に見ることはしたくなかった。

「しかし、今、図らずも友に会うことができて、恥じ入る気持ちを忘れるほどに懐かしい。どうか、ほんの暫くでいいから、我が醜悪な今の外形を厭わず、かつて君の友であったこの自分と話をしてはくれないだろうか」

 友人にかける言葉にしては、やけに堅苦しいじゃあないか。私は、李徴りちょうの申し出を二つ返事で引き受けた。後で考えれば不思議だったが、その時、私はこの超自然の怪異を実に素直に受け入れて少しも疑うことをしなかった。

 部下に命じて行列の進行を停め、くさむらの傍に立って見えざる声と対談した。

「君がいなくなってから、皆はとても心配していたんだぞ」

 正直なところ、これは嘘である。私と李徴りちょうの妻子を除けば、そんなものはいなかった。私は李徴りちょうを尊敬しているが、優れた容姿への嫉妬や才能への羨望が偏見となって人の心に潜み、李徴りちょうをよく思わない者ばかりがあの事件を言いはやした。

「そうか」

 李徴りちょうの声はその嘘を置き去りにした。

 流行りの芸者やらなんやらと都の話をして、私が現在の地位に登りつめるまでの苦労譚を語り、それに対する李徴りちょうの祝辞。青年時代に親しかった者同士だからこその、あの隔てのない語調で言葉を交わした。李徴りちょうは聞き役に徹していたようだった。いや、私が必死に話しすぎたのかもしれない。空白の時間をなんとか埋めてしまいたいと言うように。私は、李徴りちょうがどうして今の身となるに至ったかを訊ねた。それからは、ただ叢中そうちゅうの声に耳を傾けた。

 あの日、誰かが李徴りちょうを呼んだのだという。旅に出て宿に泊まった夜、李徴りちょうを呼ぶ声で目覚めたそうな。姿が見えないので外へ出て声の主を探すけれど、その声は遠ざかるばかり。そこでやめておけばいいものを、理由も分からずに声を追って、無我夢中で走ったとのこと。「山林にまで入り込み、いつしか左右の手で地を掴んで走っていた」と李徴りちょうは言った。

「はじめは自分も信じなかった。だが、明るくなってから自分の姿を水に映してみると、そこには虎がいた」

 李徴りちょうの語り口調は自然そのものであり、冗談かと疑う気にはなれない。そんなばかな。

「自分だって、これは夢に違いないと考えた。夢の中で、これは夢だぞと知っているような夢を、自分はそれまでに見たことがあったから」

 その声は、私にと言うより、自分に言い聞かせているようだった。

「どうしても夢でないと悟らねばならなかった時、自分は茫然ぼうぜんとした。そうしておそれた。全く、どんな事でも起こりうるのだと思って、深くおそれた」

 李徴りちょうにとっては現実でも、今この時が夢であれば。李徴りちょうが突然消えたのも、虎の姿で私の前に現れたのも、全部夢であるならば。

 そんなことを考えてみるものの、奇しくも私は知っていた。この悪夢は決して覚めないのだと。

「しかし、何故こんな事になったのだろう。分からぬ。全く何事も我々には分からぬ。理由も分からずに押しつけられたものを大人しく受け取って、理由も分からずに生きて行くのが、我々生きもののさだめだ」

 李徴りちょうの遭遇したそれはあまりにも酷だった。誰にも話せず孤独でいた李徴りちょうの心を思うと、私は胸が苦しかった。

「自分は直ぐに死のうと考えた」と李徴りちょうは話した。

「しかし、その時、眼の前を一匹の兎が駆け過ぎるのを見た途端に、自分の中の人間はたちまち姿を消した。再び自分の中の人間が目を覚ました時、自分の口は兎の血に塗れ、あたりには兎の毛が散らばっていた。これが虎としての最初の経験であった。それ以来今までにどんな所行をし続けて来たか、それは到底語るに忍びない」

 人としての食事は命を奪うということを見えにくくしている。猟師でも屠殺士とさつしでもない李徴りちょうの心には大きな傷となっただろうことは想像に難くない。また、私は李徴りちょうの言うところの所行を正しく理解した。李徴りちょうは今や『人喰い虎』と呼ばれている。そういうことなのだ。

「ただ、一日の中に必ず数時間は、人間の心が還って来る。そういう時には、かつての日と同じく、人語も操れれば、複雑な思考にも堪えうるし、経書の章句をそらんずることもできる。その人間の心で、虎としての己の残虐な行いのあとを見、己の運命を振り返る時が、最も情なく、恐ろしく、いきどおろしい」

 人と虎は相容れぬもの。人が虎になるのに、どれだけのものを犠牲にしなければならないのか。

「しかし、その、人間にかえる数時間も、日を経るにしたがって次第に短くなっていく」

 なんということだ。李徴りちょうは、少しずつ少しずつと、心を虎に喰われているのだ。それならば、いつ虎がその身を喰い破り出てきてもおかしくないではないか。

「今までは、どうして虎などになったかと怪しんでいたのに、この間ひょいと気がついてみたら、俺はどうして以前、人間だったのかと考えていた」

 私はその発言に衝撃を受けた。もう半分以上、李徴りちょうは虎なのだ!人間と虎とで境界線を引いたとしたら、李徴りちょうは虎なのだ!


 俺の中の人間の心は、獣としての習慣の中にすっかり埋もれて消えてしまうだろう。ちょうど、古い宮殿の礎が次第に土砂に埋没するように──。


 しまいには、李徴りちょうは私を裂き喰らう未来までを告げた。私を脅して遠ざけるつもりだろうが、そうはいかない。なんと言おうと、李徴りちょうは私の友である。……でも、もしかしたら今も辛いのかもしれない。虎の李徴りちょうにとって、私はくだんの兎と同じく餌に過ぎない。おそらく、李徴りちょうはその強靭きょうじんな精神力でもって、鋭い爪や牙を抑え込んでいるのだ。私はふと、不謹慎にも嬉しいと思った。李徴りちょうが私の知る李徴りちょうであるうちに再会できたことを、李徴りちょうが私をいまだに友と呼んでくれることを。

「いったい、獣でも人間でも、もとは何か他のものだったんだろう。初めはそれを覚えているが、次第に忘れてしまい、初めから今の形のものだったと思い込んでいるのではないか? いや、そんなことはどうでもいい。俺の中の人間の心がすっかり消えてしまえば、恐らく、その方が、俺はしあわせになれるだろう」

 しあわせと言うそれは本当の幸せではない。そう口を開こうとして、私はやめた。李徴りちょうは誰よりも聡明であるから、分かっているはずなのだ。私の心はすぐにでもあの叢に飛び込んで、李徴りちょうを抱きしめてやりたかった。「最期のときまで一緒にいるよ」と言ってやりたかった。

 ところが、次の李徴りちょうの言葉に縫い付けられ、私はその場に留まった。

「だのに、俺の中の人間は、そのことを、このうえなく恐ろしく感じているのだ。ああ、全く、どんなに、恐ろしく、哀しく、切なく思っているだろう!俺が人間だった記憶のなくなることを。この気持ちは誰にも分からない。誰にも分からない。俺と同じ身の上になった者でなければ」

 身が凍る思いだった。今、李徴りちょうは確かに私を拒絶したのだ。自分の苦しみがそう簡単に分かってたまるかと、同情するなと牽制されたようでもあった。

「ところで、そうだ。俺がすっかり人間でなくなってしまう前に、一つ頼んでおきたいことがある」

 声は続けて言う。私にできることならば拒むことは万に一つもない。

「他でもない。自分は元来詩人として名を成すつもりでいた。しかも、ごういまだ成らざるに、この運命に立ち至った。かつて作るところの詩数百篇、もとより、まだ世に行われておらぬ。遺稿の所在ももはや分からなくなっていよう。ところで、その中、今もなお記誦きしょうせるものが数十ある。これを我がために伝録して戴きたいのだ」


 李徴りちょう。詩人として名を残すことをできずに終わってしまう男。せめて自分が生きた足跡をどこかに刻みたいのだと、そうでなければ死んでも死にきれないと彼は話した。

 私は部下に命じ、筆を執って叢中そうちゅうの声にしたがって書きとらせた。李徴りちょうの声は叢の中から朗々と響いた。

 長短およそ三十篇、格調高雅かくちょうこうが意趣卓逸いしゅたくいつ。一読して作者の才の非凡を思わせるものばかりである。これだけのものが作れるのなら、既に詩家として名を連ねていると言われても信じられるのだが。しかし、私は感嘆しながらも漠然と次のように感じていた。第一流の作品となるのには、何処か(非常に微妙な点において)欠けるところがあるのではないかと。

 李徴りちょうに足りないものは何か。それは……。

 旧詩を吐き終わった李徴りちょうの声は、突然調子を変え、自らをあざけるか如くに言った。

「恥ずかしいことだが、今でも、こんなあさましい身と成り果てた今でも、俺は、俺の詩集が長安風流人士の机の上に置かれている様を、夢に見ることがあるのだ。岩窟がんくつの中に横たわって見る夢にだよ。わらってくれ。詩人になりそこなって虎になった哀れな男を」

 私は昔の青年 李徴りちょうの自嘲癖を思い出しながら、哀しく聞いていた。この男は自分の言葉で自分を傷付けることにすっかり慣れてしまっているのだった。

「そうだ。お笑い草ついでに、今の思いを即席の詩に述べてみようか。この虎の中に、まだ、かつての李徴りちょうが生きている印に」

 私はまた、部下に命じてこれを書きとらせた。これが、人間李徴りちょうの最期の詩になるかもしれなかった。


 偶因狂疾成殊類 災患相仍不可逃

 今日爪牙誰敢敵 当時声跡共相高

 我為異物蓬茅下 君已乗軺気勢豪

 此夕渓山対明月 不成長嘯但成暭


 李徴りちょうの心の内を語るのには短い詩であったけれど、私は確かにその魂の叫びを聞いた。


 ふとしたことから転がり込んだ運命が、自らの姿かたちを変えてしまった。不幸が重なっているのか逃げることもできない。この爪と牙を恐れるあまりに、誰も自分と向かい合うことをしない。昔は君と肩を並べていたのに、今日ではすっかり変わってしまった。人目を避け草木の影に身を隠していると、とても立派になった君が現れた。月に見下ろされ、この悲しみを言葉にすることもできず、ただ吼えるばかりである。


 ああ、もうすぐ夜が明ける──。


 かろうじてまだそこに留まっている月が、私たち一行を照らす。覚えず、私は涙を流していた。こぼれ落ちた雫が一筋、地面に染み込んで消えていくのをそのままに、くさむらをぼんやりと眺めた。冷たい風が背筋を撫でて、私はおのずと別れが近いのだと悟った。

 李徴りちょうの声は再び続ける。

「何故こんな運命になったか分からぬと、先刻は言ったが、しかし、考えようによれば、思い当たることが全然ないでもない」

 なんだって?理由もわからず押し付けられたとの言葉は嘘だったのか。

「我が臆病な自尊心と、尊大な羞恥心とのせいである」

 李徴りちょうは言った。

 自分には人にはない才能があるはずだと思いながらも、それをむやみに信じることが出来ない臆病さ。それを飼いふとらせるあまり、尊大な振る舞いの内に必死で隠していた羞恥心を、眠っていた虎を、目覚めさせてしまったのだと。

「これが俺を損ない、妻子を苦しめ、友人を傷つけ、果ては、俺の外形をかくの如く、内心にふさわしいものに変えてしまったのだ。今思えば、全く、俺は、俺の持っていた僅かばかりの才能を空費してしまった訳だ」

 天から授けられた才を使わずにいたからだろうと李徴りちょうは言う。そんな理不尽があるものか!何故、李徴りちょうがこんな目に合わなければならなかったのか。李徴りちょうはそれだけのことをしたというのか。話を聞いても私にはまるで分からなかった。

 李徴りちょうはそれから、「人生は何事をもなさぬには余りに長いが、何事かをなすには余りに短い」などと言った。当時の李徴りちょうの口癖だったが、今の李徴りちょうはこの言葉を、失敗を恐れるあまりに挑むことをしなかった自分を心底憎んでいるようであった。

「たとえ、今、俺が頭の中で、どんな優れた詩を作ったにしたところで、どういう手段で発表できよう。まして、俺の頭は日毎ひごとに虎に近づいていく」

 李徴りちょうという才能が失われることを、私は惜しく思った。

 ──どうすればいいのだ。俺の空費された過去は?

 切なげな声が草木を震わせる。

「俺は堪まらなくなる。そういう時、俺は、向うの山の頂のいわおに上り、空谷くうこくに向かって吼える。この胸をく悲しみを誰かに訴えたいのだ」

 李徴りちょうは人間でいることを諦めるようなことを言いながら、心底人間でいたいと願っている。この人間李徴りちょうが本当に消えてしまうのだろうか?

「天に躍り地に伏して嘆いても、誰一人俺の気持ちを分かってくれる者はない」

 私が黙っているせいもあるが、李徴りちょうは独り言のように話している。李徴りちょうは一人ではなく、私が目の前にいると言うのに。そんなことを考えて、次の瞬間、私は自らの罪を知った。

「ちょうど、人間だった頃、俺の傷つきやすい内心を誰も理解してくれなかったように」

 私の全身を雷が貫いた。否、そう錯覚した。

 私は、李徴りちょうを理解しているつもりだった。私は李徴りちょうの友だから。李徴りちょうのことならば、誰よりも知っているはずだ。それなのに、どうして。……知っていた。それだけだったんだ。寄り添うことを、肩を貸すことをしなかったから。

「俺の毛皮のぬれたのは、夜露のためばかりではない」

 李徴りちょうの強さが見せかけであることも分かっていたのに。それなのに私は……。


 ようやくあたりの暗さが薄らいできた。木の間を伝って、どこからか、暁角ぎょうかくが哀しげに響き始めた。

「もはや、別れを告げねばならぬ。酔わねばならぬ時が、(虎に還らねばならぬ時が)近づいたから」

 李徴りちょうはきっぱりと言った。私は引き止めるすべを持たなかった。

「だが、別れの前にもう一つ頼みがある。それは我が妻子のことだ。彼等はいまだ虢略かくりゃくにいる。もとより、俺の運命については知る筈がない。君が南から帰ったら、俺は既に死んだと彼等に告げて貰えないだろうか。決して今日のことだけは明かさないでほしい。厚かましいお願いだが、彼等の孤弱こじゃくを憐れんで、今後とも道どうと飢凍きとうすることのないように計らって戴けるならば、自分にとって、恩倖おんぎょう、これに過ぎたるはない」

 言い終わって、叢中そうちゅうから慟哭どうこくの声が聞こえた。

 私は「もちろんだ」と答えた。

 李徴りちょうの声はしかしたちまちまた、先刻の自嘲的な調子に戻って、言った。

「本当は、まず、この事の方を先にお願いすべきだったのだ、俺が人間だったなら。飢え凍えようとする妻子のことよりも、俺の乏しい詩業の方を気にかけているような男だから、こんな獣に身を堕とすのだ」

 それは私にも言えることだと思った。李徴りちょうを友と呼びながら他を優先したあまりに、私はここで李徴りちょうを失うのだ。

嶺南れいなんからの帰途きとには決してこの道を通らないでほしい」

 その時には自分が酔っていて友を認めずに襲いかかるかもしれないのだと言う。

 このとき、私は仕事中であったことを思い出した。部下を放ったままで、私は何をしているのだろう。

「今別れてから、前方百歩の所にある、あの丘に上ったら、此方こちらを振りかえって見てもらいたい。自分は今の姿をもう一度お目に掛けよう。勇に誇ろうとしてではない。我が醜悪な姿を示して、もって、再びここを過ぎて自分に会おうとの気持ちを君に起こさせないためである」

 李徴りちょうの声は冷静だったが、私には分かる。心の内を隠しているのだ。私はくさむらに向かって、懇ろに別れの言葉を述べ、馬に上った。くさむらの中からは、また、堪え得ざるが如き悲泣ひきゅうの声がもれた。私も幾度かくさむらを振りかえりながら、涙の中に出発した。

 私たちは丘の上で、言われた通りに振りかえって、先程の林間の草地を眺めた。たちまち、一匹の虎が草の茂みから道の上に躍り出た。虎はやはり美しかった。既に白く光を失った月を仰いで、二声三声咆哮したかと思うと、また、元の叢に躍り入って、再びその姿を見なかった。

 これで最後だなんて信じたくはなかった。だから、もう一度、李徴りちょうを探すことにした。もちろん仕事を終えて、李徴りちょうとの約束を守ったうえで。帰路にはあの道を通らなかった。李徴りちょうの妻子に悲しい知らせを届け、李徴りちょうの代わりに私が家を守ることを申し出た。そんな後でも、食われる覚悟でもって李徴りちょうを探すのだから私は不誠実な人間だ。

 私はあの日と同じ宿に泊まると、夜には戻るつもりだが、事情があり戻れなくなるかもしれないことを伝えた。「もし十日経っても私が戻らなければ部屋を引き払うように」と女将に頼んだ。全財産をそこに置いて、何かあれば李徴りちょうの妻子に渡るようにした。私には妻子がおらず、使い道のない貯金は貯まるばかりであったので、かなりの額があった。そうして、一人だけで虎の行方を探した。部下に協力を頼むことも考えたが、箝口令かんこうれいを敷くだけにした。もちろん李徴りちょうは簡単には見つからない。明かりと保存食を手に毎日どこかへ出かける私に女将は首を傾げていた。私が無事に帰ってくるものだから人喰い虎の心配はされなくなった。その虎に会いたいのだとは口が裂けても言えない。七日目に、ある岩窟がんくつを見つけた。血の匂いが充満し、足元はじっとりと湿っていた。月の光すらもささない暗い場所だった。手持ちの明かりで照らすと、でこぼこの壁に爪で引っ掻くような文字と言えるものがあった。そこには、あの几帳面な男とは思えない書き殴ったような字で「俺の友は君だけだった」と。


 栄えた都のある風流人が、一通の手紙に目を通していた。優雅な茶の時間にはひどく不釣り合いな不機嫌な顔。

「詩人となれなかった友人の、最後の作品?」

(独り立ちすると出ていって、もうずっと連絡をよこさなかったくせに……)

 返事には、おまえがどういう意図で送り付けたのかは知らないが……と紙にインクと皮肉を滲ませた後で、力強く。


 ──虎は死して皮を残し、人は死して名を残す。

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