十九章【死神の蝶】

 昼食も食べ終ったのち、バスに乗って帰ろうとしていた僕の後ろから声がかけられる。


「ねぇ、彼岸くん。朝比奈さん見なかった?」


 振り返ると焦った様子の夏目がいた。


「いや、見なかったけどどうかしたのか?」


「もう時間なのに、どこを探してもいないの」


 嫌な予感がした。 


 朝比奈に蝶が付き始めた時間まではわからないが、朝比奈の周りに蝶を見かけるようになってからそれなりに時間が経っている。


 朝比奈が蝶の影響を深刻に受けてしまっていた場合、自らその命を絶ってしまいかねない。


 変な汗が背中を流れていく。


「まだ、そこまで遠くへは行ってないはずだから探してくるよ。夏目は明乃さんに連絡してくれ」


「わかったわ」


 僕はそれだけ言うととにかく駆け出した。


 朝比奈がどこにいるか分からないが、とにかく探さなければ大変なことになる気がした。


 民宿の周りや朝比奈の部屋と探してみたが朝比奈の姿はどこにも見当たらない。


 他に朝比奈が行きそうな場所はどこかないだろうか。


「ん、唯人? こんなとこでどうした?」


 フロントで考え込んでいると不思議そうな顔をした汐山がちょうど外から帰ってきたところだった。


「お前こそどうしたんだよ。もうすぐ時間だぞ」


 汐山はいっそ諦めたようなため息を吐く。


「姉貴からお土産の買い出しを頼まれたんだよ。動くのがだるいから私の分も買ってこいってな」


 そこで汐山は思い出したように気楽な声を上げる。


「そういえば、さっき朝比奈さんを見かけたぞ? 朝比奈さんも何か土産の買いに来てたのかもな」


「おい! 朝比奈はどこに向かっていった!?」


 僕は汐山に飛びついて肩をガクガクと揺さぶる。


「お、おい! 落ち着けって!!」


「す、すまん……」


 汐山の肩から手を離す。


「何でそんなに必死なのかしらねぇけどよ。朝比奈さんなら昨日行った鷲嶺の方に歩いて行ったぞ」


「わかった。ありがとう」


 僕はそれだけ言い残すと鷲嶺の方へ急いだ。


 途中でスマホのメッセージアプリを起動させて夏目にメッセージを送信する。


『今から鷲嶺に向かうから。明乃さんと合流次第一緒に来てほしい』


 すぐに既読が付く。


『分かったわ。でも、くれぐれも1人で無茶だけはしないように』


 返事を確認するとスマホをポケットにしまい僕は鷲嶺までの道のりを急いだ。




 鷲嶺の洞窟まで続く坂道を僕は自分の足に鞭打ってなんとか登り終えた。


「朝比奈……」


 名前を口にしながらその人物を探そうとして、しかしすぐにその人物は見つかった。


 なぜなら、その空間だけがあまりにも異質すぎたから。


 鍾乳洞の前にある売店が並ぶ広場の中央で朝比奈の周りを囲むように蝶が飛び交っていたから。それも1匹や2匹ではない。無数の蝶が朝比奈の周りを飛んでいた。


 周りには無数の蝶の感情を一気に浴びてしまったのか、ここで商売をしている人たちが意識を失ったように倒れている。


 その中心に佇んでいる朝比奈の目は虚で焦点があっておらず、まるで抜け殻のようだった。


「朝比奈!」


「…………」


 呼びかけてみるが反応がない。


 完全にこちらの声が届いていない。


 近づこうとするが蝶が多すぎてうまく近づくことができない。


 どうしたらいい……。


 それにここまで急激に蝶が集まっているなんて、朝比奈が悩んでいた小説のことについての不安は解決したはずなのに……。

 

 『もしかしたら、根本的な原因は他のところにあるかもしれない』


 夏目の言葉が脳裏をよぎる。根本的な原因はそこじゃないのか?


 もし急激に小説に対する不安が募って蝶を集めたのではなく、僕と会うもっと前から少しずつ別の不安が蓄積していたのだとしたら?


 図書館で初めて会った時の朝比奈が言っていたことを思い出す。

 

 『わたし、こういう性格だから高校生の時に虐められてたんです』


 本当はまだあの時のことを引きずっていて、僕との関係が不安になっていたのだとしたら……。

 

 ここまで蝶を引き寄せたのも肯ける。


 だが、どうする?


 夏目が案内してくれているが到着がいつになるか分からない明乃さんを待っている時間も惜しい。


 かと言って、僕に何かできるわけでもーー


 そこまで考えて時間を巻き戻す前の駅前でのことが頭をよぎる。


 あの時と同じように僕の魂に朝比奈についている蝶を吸収することができないだろうか。

 

 明乃さんは蝶を吸収して僕の肥大化した魂が強い思いによってこの世界を上書きしたと言っていた。


 それに、蝶は強い感情に引きつけられる性質がある。


 なら、この状況をどうにかしたいと願うことによって蝶を僕の魂に取り込むことができないだろうか。


 少しでも吸収できればこの状況を少しでも改善できるかもしれない。少なくとも明乃さんが到着するまでの時間稼ぎぐらいにはなるはずだ。


 そう思って一歩踏み出した瞬間ーー


 じくり。と、胸が痛みだす。蝶と遭遇した時の心臓が高鳴るような感じではない。嵐の警鐘を鳴らすように鼓動が速くなっていく。

 


 思わず胸を押さえるが、痛みはさらに激しさを増していき僕は地面に倒れ込む。


 それでも地面を這いながらも僕は前に進む。


『暴力でもって問題を解決しようという荒々しい神様もいます。そんな神が彼岸さんの存在を力ずくで消しにかかる可能性もないわけではありません』


 刹那ーー頭に2日前、喫茶店で説明された明乃さんの言葉が甦ってきたが、僕はそれを振り払うように首をふる。


 そうして、あと少しのところで手が届きそうな距離まで来た時。


 今までの比にならない痛みが僕を襲う。


「ぐうっ!?」


 心臓をそのまま鷲掴みにされているような感覚。


 今すぐに心臓が止まりそうなそう思うほどの痛み。


 その痛みに伸ばしかけていた手も弱々しく地面に落ちていく。


 あぁ……あと、もうすこしなのに……。


 それなのに、目の前の女の子さえも助けることが許されないのか僕は……。


 それでも、もう一度手を伸ばそうとして。


 その瞬間ーー目の前の蝶が雲間から光が差し込んだかのように青白い光だけを残して霧散していく。


「まったく、彼岸さんはあれだけ忠告してあげたのに。何無茶なことをやっているんですかね」


 僕の上から呆れたような声が聞こえてきた。その声は全てを見透かされていそうで、でもどこか子供っぽい口調で。「しょうがないですね」と死神の女の子は笑みを浮かべる。


 なんとか間に合ってくれたらしい。どうやら、僕の無防な策も無駄ではなかったようだ。


「大丈夫ですか? 立てますか」


 僕は明乃さんに引っ張り起こされる。


 起き上がると僕は辺りを見回す。


「朝比奈は!?」


「自分の心配よりまずは女の子の心配をしますか……。大丈夫です安心してください気を失ってるだけですから」


 苦笑しながら指さされた方を見ると夏目が朝比奈を看病しているところだった。周りの人もどうやら気を失っているだけらしい。


「大丈夫。もうしばらくすると目を覚ますと思う」


「そうか。なら、よかった」


 思わず安堵のため息が溢れる。


 夏目の冷ややかな視線が僕を刺す。


「まったく、ほんとうに無茶するわね」


 その隣で明乃さんが苦笑を漏らす。


「ほんとうですよ。一番危なかったのは彼岸さんなんですから」


 たしかに。あの時は本当に死ぬかと思った。


「まあ、でも。蝶の回収もできましたし。終わりよければ全て良し、ですかね」


「そういえば、蝶の回収ができたってことは蝶を引き寄せていた朝比奈の不安が解消されたってことか?」


 明乃さんはちらと、朝比奈を見やると。


「そうですね。あとは彼岸さんが朝比奈さんに想いを伝えれば解決ですね」


 そう言うと明乃さんはくるりと踵を返す。


「それでは回収も済ませたことですし帰りましょうか」

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