十二章【汐山の姉】
翌日、僕は朝早くから大学を訪れていた。
「おっ、こっちこっち」
大学前の坂を登った先にある広場で汐山がこちらに手を振っている。
「時間通りみたいだな」
汐山は安心したようにほっと息を吐く。
「来てくれて助かったよ。危うく姉貴にどやされるところだった」
「教員に呼ばれたんだから無視するわけにもいかないだろ」
汐山は困ったように眉根をよせる。
「悪いな、急に呼び出しちまって。内容については姉貴からはなんも聞かされてないんだ……。本当に仕事以外はガサツなんだよな……」
またぞろため息を吐いた。
「それにしても今日は用事があったんだろ?」
「夕方からだし別に気にしてもらわなくていいよ」
それに、数少ない友達の汐山が別の奴らとつるんだりしてしまったりしたら、ひとりで大学生活を送ることになってしまいかねない。大学でぼっちなんてのはできるだけ避けたい。
汐山はスマホに視線を落として時間を確認する。
「そろそろ時間だし行くか」
そして汐山と一緒に文芸学科がある22号館へ入って行こうと、振り返った刹那ーー
視界の先を青白い蝶が通り過ぎる。
それも1匹ではない。2匹だ。
昨日、明乃さんから聞かされたが。ほんとうに現世に蝶が多くなってきているのだろう。
僕が大学生になるまでは見つけようと思っても見つけることが出来なかったのに。
蝶が飛んで行った先を視線で追いかけるとーー朝比奈の姿が目に入った。
「おいっ……」
声をかけようとしたが、何か考え事でもしていたのか朝比奈は俯いたままこちらに気付くことなくそのまま歩いて行ってしまう。
「どうしたんだよ? そんなとこに立ち止まってなんかあるのか」
隣にいる汐山が不思議そうに首をかしげる。
蝶は汐山には見えていないのか……。
「いや、なんでもない」
僕は首をふって22号館へ歩き始める。
朝比奈のことは少し気になったが考えすぎかもしれない。
とりあえず、蝶のことは明乃さんに伝えておこう。
文芸学科が収まっている22号館は全面コンクリート造りの6階建てで下の3階までを主に陶芸学科が使用しており、4階から文芸学科が使用している。珍しく他の学科と共同で使用されている建物だ。
僕はその6階に訪れていた。
汐山の姉がいるという研究室内の様子を外から覗こうとしたのだが扉付近に遮光カーテンが引かれているせいか中を確認できない。
扉の前で数回ノックをすると、
「入っていいよぉ」
中から気の抜けた声が聞こえてきた。
「失礼します」
扉を開け中へ入る。
ところで、汐山はというと教員の研究室が設けられている6階へと続く階段をのぼっていたところで、「俺、そういえば今日体調が悪いんだった」と言い残してさっさと逃げやがった。
どんだけ姉に苦手意識を抱いてるんだよ。
そんなことを思いながら中へ入ると部屋の中はほんのりとコーヒーの香りで満たされていた。
周りを確認するがドリップが置かれてはいるが別に今、コーヒーを飲んでいるわけでもなさそうだが。
物珍しそうに見回していると、奥の方でソファに座りながらパソコンの画面を睨んでいる小柄な女性が目に入った。
僕に気付くとパソコンから顔を上げ、ゆるふわなウェーブがかかった髪を耳にかきあげる。
それにしても僕の身の回りには年齢不詳の女性が多い気がする。
「突然呼び出してすまないね。あらためまして。私は
先生はあらためて自己紹介をする。
「まあ、気軽に呼んでくれて構わないよ」
「いいんですか?」
学生と教師という関係上、すこしは敬いというのを持たないといけないと思ったのだが。
「弟の友達に敬われるなんて変な気持ちがするからね。それに敬われるなら弟から敬われたいしね」
そう言って苦笑される。
「じゃあ、千景で」
「あ? おいクソガキ、名前の後ろに『さん』をつけろ」
「う、うっす……」
めっちゃくちゃ睨まれた。
先生は怪訝そうに辺りをきょろきょろ見回すと、
「ところで、
「ここに来る前に体調が悪いって帰りましたけど」
「ほーう、姉からの呼び出しを断るとはいい度胸してるじゃない。帰ったらアイツに姉の呼び出しを断るとどうなるかわからせてやらないと」
どうやら汐山は家庭内ヒエラルキーにおいて姉には敵わないらしい。ここまで送ってもらった汐山に心の中で手を合わせておく。
それはそうと、
「汐山から聞いたんですが、なぜ僕に会いたがってたんですか?」
大学というのは高校とは違い担任なんてのは存在しない。授業は基本学生の選択によるので誰が自分の授業を取るかはわからないし、それに偏って学生数が多い授業もあるので覚えるだけで一苦労なのだ。
だから基本、教師は生徒の名前を覚えたりせず授業の初めに生徒と教師で自己紹介をしたりする。
「ああ、そういうこと」
先生は納得したようにうなずくと。
「君に、これを渡さないといけなかったから」
机の上に積み重なったプリントの山から1つの束をこちらに渡してくる。
そこには大学生らしき男女のキャラクターが仲良く話しているイラストが描かれている。
「なんです? これ」
「明日のフレッシュマンキャンプの資料。君たちの班だけ取りに来ないんだから、わざわざ宏人に連絡させたの」
「それなら汐山に取りに来させればよかったんじゃ」
「君とゆっくり話をしてみたかったし、一応ね」
そしてゆっくりとソファから立ち上がる。
「君はコーヒーか紅茶どっちがいい?」
「じゃあ紅茶で」
注文を聞いて、先生は不思議そうに僕の顔を眺める。
「宏人からコーヒー飲めるって聞いてたんだけど、コーヒーじゃなくてよかったの?」
「まあ、今日は紅茶が飲みたい気分なんです」
うっ……。昨日のことが頭を過ぎる。当分はコーヒーを飲める気がしない。
先生はドリップが置いてある入口近くのテーブルまで歩いていくと「あ、そうそう」となにかを思い出したようにこちらに振り返る。
「君にはフレッシュマンキャンプで学生から出された課題の評価を私としてもらおうと思ってるから」
「なんでまた突然に」
事前にフレッシュマンキャンプの経験を通して形式自由の作品を書いてもらうということはガイダンスの時に説明があった。
「君が作品を書いたら、他の人と明らかに優劣がついちゃうしでしょ? それに一番よかった人にはちょっとした賞品も用意されてるからね」
「賞品ですか……」
「まあ図書カードとかここの学食の無料券とかあるし、出来レースになっちゃうとみんなのやる気が上がらないでしょ」
言いながら、注いでくれた紅茶と自分用のコーヒーを持ってくる。
「はい」
「ありがとうございます」
紅茶を飲んで一息ついていると、意地悪そうな笑みを向けてくる。
「それに、君も作品なんて書いてる余裕はないんじゃない? 締め切りも近いだろうし」
「そういうことならありがたいですけど、そんなこと勝手に決めていいんですか」
「担当する班の子なら講師が勝手に決めていいんだよ。ここの大学はそこんとこゆるいから講師に一任されてんの」
「ん、てことは……」
僕の反応を見て先生はニュッと稲荷の狐みたいに口元を歪ませると、
「君たちの班は私の担当ということ」
誇らしげに腕組みをしながら、ない胸をそらす。
「まあ、私も知ってる顔が多い方が気楽だしねー。にしても、四条夏目と朝比奈宇井か……」
フレッシュマンキャンプのそれぞれの班が書かれた資料に視線を落として難しそうな顔をして呟く。
「その2人がどうかしたんですか?」
「いや……濃いメンツになったなと思ってね。これをまとめるのはいささか大変そうだ」
少しばかり苦笑すると、「もう退出してくれてもいいよ」とひらひらと手を振られ退室を促される。
僕は急いで紅茶を飲み干すと、
「失礼します」
そう言って部屋をあとにした。
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