第316話 青天の霹靂が、鳴り響いた。
「取り敢えずお疲れさん。お前の働きで、カラマンリス侯爵の動く方向が決まったな」
黒いビールが入ったグラスを持ち上げたアレクが、私のグラスにガチンと乾杯してくる。
私はテーブルに両手を置いて、アレクが乾杯した私の小麦色のビールのグラスを見つめた。
「……私の働きってーか、ディミトリのだよ。顧客リストを持って来たのはディミトリだし。私は大暴れしただけ。捕まったし……」
確かに、『ラエルティオス伯爵の牙城を崩す為の、違う切り口の何かが欲しい』とは言ったけれど、それが人身売買の顧客リストだって思いつけなかった。
思いつき、それを盗み出す為に動いたのはディミトリだ。
彼がいなかったら、こんなに上手く事が運ばず、選べる方法もあまりなくなり、動きにくくなってた筈だもん。
ミハエル卿の事だってそう。
結果オーライだったけど……危うく、調整失敗するところだった。
自分の出来る事の少なさ、思いつける範囲の狭さを、そしてやり方の下手さを、改めて実感して落ち込む。
もっと器用に生きたいなぁ……
ミハエル卿に叩きつけた正論。あれは私にも当て嵌まる。相手の態度に過剰反応してしまう。悪い癖だ。もう少し、もう少し丸い性格になりたいなぁ。ドーンと構えて『ほほほほ、何を言ってるのやらこの小僧どもは』ぐらいになりたい。……なれんのかなぁ。なるには、どうしたらいいんだろ……はぁ。
「お前はある意味、それでいいんだよ。カラマンリス領と侯爵家の、何から何までをお前が背負う必要はないんだから。お前はキッカケを作っただけ。それを成功させるために努力すんのは、当事者全員でだろう」
「そう、かも、しれないけれど……」
確かにさ、そうなんだけど。
自分一人で出来る事なんてたかが知れているんだから、方向だけ決めて、あとはマンパワーでなんとかするってのも、分かるんだけど……
あー。分身したい。分身してアレコレ色んな事やりたい。出来るようになりたい。
なんで身体って一つしかないんだろうね。なんでなんだろうなぁー、ホント。
「取り敢えずこれで一段落だ」
ゴトリ、という音を立てて、アレクがテーブルに飲み終わったグラスを置く。手を軽く振ってマスターに、同じ物を追加注文していた。
私も目の前のグラスを一気に煽った。
はぁ。
一息ついて、私もビールのお替りを注文する。
ビールが来るまでの間、私とアレクの間に、不思議な沈黙が降り立った。
「そういえば」
アレクが、空気を変えるかのように声をあげる。
「お前、愛されてるのはカラマンリス邸に居る人間たちだけにじゃないぞ」
そう小さくニヤリと笑うアレク。
「今回、お前のミッションに俺も参加したのは、お前からの依頼があったからだけじゃないんだ」
え? そうなの?
「実は、ベッサリオン伯爵夫妻から直々に、俺へと手紙を送ってきた。セレーネを守ってくれ、って」
えええええ!? ベッサリオン伯爵夫妻って、つまり、お父様とお母様!? そ、そうだったん!?
「知らなかった!」
私が驚き顔を上げると、アレクはニッコリと笑っていた。
「そりゃあの人達だぞ? お前にそんな事知られたくないに決まってんだろ」
そう言われて、ふと脳裏に母の厳しい顔が思い浮かぶ。あ、そうだね。そりゃそうか。あの人が、そんなダイレクトに優しい言葉を、かけるワケ、ないか。
「それで一応、この間事件が片付いた後に電報で無事に事が終わった事を伝えた。
これで俺もお役御免ってワケだ」
ぐぅっと伸びをして、椅子の背もたれに背中を預けるアレク。
「ありがとう。今回の事が上手くいったのは、アレクの力添えもあったからだよ。助かった」
そう私がお礼を言うと、アレクは小さく笑った。
その時新しいビールが届き、お礼を言ってポケットから出したお金をウェイターに渡したアレクは、そのままもう一度ポケットへと手を突っ込む。
「で、だ。お役御免になった筈だったんだが……実はそれでは終わらなかったんだよな」
終わらなかった? 何が?
「少し前、追加の手紙が届いた。ベッサリオン伯爵夫妻から」
そう言いながら、アレクがポケットから手を引き抜く。そしてテーブルの上に、一枚の封筒を置いた。封の所には、しっかりとベッサリオンの印が押されている。
……もしかして、私に?
「これは俺宛てだったが……内容は、お前にも関わる事だ」
私が封筒に手を伸ばそうとすると、サッと引っ込めるアレク。じゃあなんで出したんや。
でも。
なんだろう? 私にも関わる事って。
……母からのお叱りじゃないだろうな……アレクから改めて、釘を刺しておけって、言われたとか……
何かを言おうとしたアレクだったが、横を人が通ったので一度口を閉じる。
テーブルの上に置かれたビールグラスを一度煽り、裾で口をグイッと拭った。
一度目を伏せてから、真っすぐな視線──
何かの予感を感じ、ドクリと心臓が脈動した。
「お前は、伯爵の地位を、継承する気はあるか?」
アレクの口から洩れた言葉の意味が、最初は脳味噌に届かなかった。
意味が通じなかったというか、音としてしか認識できなかった。
改めて言葉を脳内で反芻し、やっと意味が分かる。
伯爵の地位を、私が、継承する?
何を言ってんの? アレク。
「お前の両親から『意志を確認してくれ』と言われた。本当であれば会って直接話がしたかったらしいが、お前、今の所あっちに戻る気、ないだろう?
だから俺から確認してくれと言われた」
そう淡々と告げるアレク。その目は真剣で、嘘を言っているようには見えなかった。
が。
「継承……する気は、あっても……無理じゃん……」
だって、女性では爵位を継げないよ。この国の法律で決まってるじゃん。
いくらベッサリオンだって、その決定を勝手に変える事なんて出来ない。
「勿論、それは分かってる。だから、夫妻が男と養子縁組してお前はソイツと結婚し、国の法律的にはソイツが伯爵の爵位を
が、ベッサリオンとしては実質の伯爵権限をお前に継承するんだと。
国の形式上はお前の夫が伯爵だが、実質はお前が伯爵になるんだよ」
アレクのそんな言葉に、私の頭は真っ白になる。
考えた事もなかった。
いや、考えないようにしていた。
だって無理だから。
絶対に叶えられない事だったから、最初から諦めて、そうなったらいいな、とか、そうだったらこうしたのに、とかいう事を、全部頭から排除してた。
叶わない希望は持ちたくない。
元気で生きて欲しいと願ってた兄は、死んだから。
「でも……そんな事……許されるの……?」
喉が締まって上手く声が出ない。やっと出た声は
「まずはやってみてかららしい。実際にお前が伯爵を継承する前提で他の領地に劣らぬ
ヤレヤレと肩をすくませるアレク。確かに、確かにあの母なら、それぐらい力技でゴリ押しそう。
しかも。
祖父がやっと引退し、自由に動けるようになったから。
考えた事もなかった。
私が、伯爵として領地を治める……
あ、でも。
「誰が養子に入るの? アレクの所……弟一人しかいないし、彼は子爵を継ぐ事が決まってて、オフェリアと結婚したのもその下準備じゃん……」
オフェリア、とは、私のすぐ下の妹だ。もう子供もいる。
ベッサリオン領には他にも子爵家・男爵家はあるけれど、一番近しいアレクの家を差し置いて、他から養子を迎えるのは考えにくい。
──まさか。
「俺だ。
俺が伯爵家に養子に入るとともに、お前と結婚する。子爵家からは廃嫡されているが、まぁそれで血統が変わるわけじゃないしな。必要なら廃嫡も撤回させるとよ」
アレクから放たれた言葉に、頭から電撃を食らったかのような衝撃を感じた。
アレクと、結婚?
私が?
そして、伯爵を継承する?
私が?
あ、でも……
「アレクは……アレクはそれでもいいの? だって、貴族社会嫌がってたじゃん。嫌だったから、廃嫡してもらってまで、ベッサリオンを出たんじゃん……」
アレクが兵役についたのだってそう。出来るだけ子爵の地位から遠ざかりたかったからだし。だから私は彼にそれを勧めたんだし。
それにアレクは──
それを言うと、アレクはハァー、とワザとらしいため息を盛大に吐き出す。
「構わないからこうして話してるんだろうが。嫌だったらお前に話す前に断りの連絡入れてるわ」
え、あ、そ、そうなの……?
「いや、最初は勘弁してくれって思ったよ。やっと逃げられたのに、また戻らなきゃいけないとかって。
でも考えた。
俺の嫌いな貴族社会を、お前となら、壊せるかもしれないって。
それに──」
そ、それに?
「──お前となら、俺が諦めてた、家族を、作れるかもしれないから、な」
え。
え。
え。
それって、もしかして……?
「セレーネ。お前は俺と結婚して、ベッサリオン伯爵家を継ぐ意思は、あるか?」
アレクが、真っ直ぐに私を見てる。
いつものヘラヘラとした態度じゃなく、真剣に。
彼の、真っ赤な
目の前に突然出された選択肢。
最初から諦めて、考えないようにしていた選択肢。
本来なら、喉から手が出る程欲しかった選択肢。
それを提示され。
なのに。
私は、ドンのように素直に喜ぶことが出来ず、声を出すことが、出来なかった。
第九章 了
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