第293話 スリの少年の実情を聞いた。

「女だってバレると……娼館しょうかんに売られちまうんだよ……だから、男のフリしてたんだ……」

 ドンが、ゆっくりとまばたきしつつ、自分の手のひらを見つめながら、そう零した。


 ドンが姿を現してくれてから。ここじゃあ話せない、というのでとあるアパートメントの屋上へと来た。

 沈みかけた太陽が空を真っ赤に焦がしている。強い光が肌と目を焼きそう。夜か、明日には雨が降るかもしれない事を予感させる空だった。

 ドンは屋上のフチに座り、足をブラブラさせつつ真っ赤に燃える空を見上げた。

 その隣に、同じように座るニコラ。

 私とサミュエル、そしてマティルダは、少し離れた所でその二人の背中を見守っていた。

 飛び降りるんじゃないかとヒヤヒヤするけれど……ああ、心配。

 でもドンが、何故か、ニコラにだけは笑顔を向けていたので、心配しつつも下手に口出しせずに、こうやってずっと見守っていた。


「しょうかん、て、何?」

「女が男に身体を売る所だよ」

 ニコラの質問に、ドンが苦笑しながらそう答える。

「……ああ。でも、あそこって、大人の女の人だけじゃないの?」

「お前、ホント何も知らないんだな」

 そう言いつつも、ニコラに向けるドンの顔は、何故か優しかった。

「俺らぐらいの年のヤツがいいとかいう変態もいるんだよ。

 お前……俺らの世界にいたら大変だったぞ。すぐに飼い慣らされて連れてかれそうだ」

 ドンがそう言って少し声をあげて笑う。ニコラはてへへ、と少し恥ずかしそうにしていた。

 ひとしきり笑った後、ドンはふと顔を暗く落ち込ませる。

「どうせ娼館しょうかんに勤められるのも二十五か……ま、いけて三十前までだな」

 燃えるような真っ赤な瞳から、光が消える。

 それは──絶望の色か。

「かと言ったって、その年まで生きられるのも結構レアなんだぞ。それまでに病気で死ぬか、殴られて死ぬか。殺されても娼婦は同情されねぇぞ。

『そんな仕事してるからだ』、だってさ。……殺されたヤツに向かって、よくそんなこと言えるよな……」

 それは多分、ドンが実際に見聞きした言葉なんだろうな……

 現実に、そういう事を、何の気なしに、むしろ正当だと思って口にする人間もいる。

 確かにハイリスクだよ。でも、彼女たちがやってるのは生きる為に身体を売る事だ。命を売ってるわけじゃない。

 敵がいる諜報部隊や軍人と違って、『殺されて当たり前の仕事』じゃないんだよ。


「もし生き残れたって、そのまま娼館に残って今度は娼婦を使側になるか……まぁ大概、娼館しょうかん追い出されてだ」

 ドンの言葉に、胸の奥がえぐられるような気持ちになる。何も、言葉が出てこない。

 ニコラにはピンとこない世界なのだろう。彼は無垢な顔をしたまま、ドンに向かって小首をかしげていた。

「たちんぼ?」

「道端に立って客を取る、流しの娼婦だよ。元娼婦だってーのは周りの人間は知ってるから、どこも雇ってなんかくんねぇしな。だから他の仕事して生きるとか無理だし。

 そうやって……流しの娼婦で日銭ひぜにを稼いで生きるしかないんだ。

 そのうち道端で殺されるか、病気で人知れず野垂れ死んでいく……たくさん……見て、来た……」

 ドンの言葉を聞いて、さすがのニコラも気づいたのか、声を失っているようだった。

 彼が想像もした事がない世界だったんだろう。

 ……でも、それも存在する世界だ。特に、道端の孤児たちストリートチルドレン──その中で女の子として生きるドンには、大げさな話じゃないはず。


 世界は、生活基盤を構築できない人間に、優しくない。

 そしてドンには、自分もそうなる未来が見えている──そうなる未来しか、見えて、ない。


「病気で死ぬか、殺されるか、野垂れ死ぬか……それしか、ねぇんだよな……

 でも俺は……そんな風に……なりたくない……」

 そんな言葉を吐き出した直後──ドンの夕焼けよりも赤い瞳から、涙がボロボロと零れだした。

 それを見たニコラが、目と口をあんぐり開けて驚く。

 しかし次の瞬間。

 ニコラがガバリとドンの身体を抱きしめた。ギュっと強く。そして恐る恐る、背中をゆるゆるとさすっていた。

 そんな彼の肩に顔をうずめて、ドンは嗚咽おえつらしている。


 見てられん……見てられん!!

 でも!! 私が手を出すべきじゃない!!!

 ドンはきっと、周りに聞かれるのも構わず、大声でカミングアウトしたニコラだから話してるんだ。

 二人の会話に、我々は、きっと邪魔だ。

 見てるしかない。見てるしかできない。くっそう!!!


「だからっ……おれっ……おとこのかっこうしてたっ……おとこになりたいとか、そういうんじゃ……ないんだっ……」

「そうなんだね。ゴメンね。僕、勘違いしちゃった」

 泣きながら告白するドンを、ニコラは受け止めつつハハッと恥ずかしそうに笑う。

 私は下唇を噛みしめて耐える。泣きそう。もらい泣きしそう。いや、実はもう泣いてるけどな。

 ふと見ると、サミュエルも顔を背けてうつむいている。マティルダは口をへの字にしながら、ジッとニコラとドンの様子を見守っていた。

「僕もね、可愛い恰好をしてるけどね、女の子になりたいワケじゃないんだ。ただ、可愛い服とかがね、好きなだけ」

 ドンの髪をゆっくりと撫でながら、ニコラはポツポツと語っていた。

「だからね、僕はお父さんに殴られてた。男らしくないって。そしてね、お母さんにもずっと言われてたの。娘が欲しかったって。僕が女の子なら良かったのにって」

 ……食いしばり過ぎて奥歯割れそうっ……ニコラの両親あいつらめェ……今からでも、頭髪全部むしり取ってやりたいッ……

「でもね」

 ニコラがそう強く言葉を発して、ドンの肩をゆっくりと押す。押されたドンは顔を上げて、ニコラの顔をジッと見つめていた。

「セレーネ様はね、好きにしていいって言ってくれたの。僕が可愛い服を着たいなら着ていいし、着たくないなら着なくていいって。

 僕に、そうやって好きにさせてくれる場所をね、くれたんだよ」

 ニコラはニッコリとした笑顔を、ドンに向けていた。

「それだけじゃないよ。僕に仕事をくれたんだ。

 アティっていうね、すっごくすっごく可愛い女の子のね、お世話してるんだよ。セレーネ様のお仕事のお手伝いもしてる。セレーネ様、ちょっと抜けてる所もあるから。

 あとね、サミュエルにお茶の淹れ方も習ってる。知ってた!? 新聞にアイロンかけるとね! 手が汚れなくなるんだよ!

 それに、おじいちゃんに字を教える事もしてる。勉強もね、させてもらってるよ。知らなかった言葉とか、沢山知れて面白いよ。マギーっていう人がね、いっぱい本を貸してくれるの。紹介してくれる本、凄く面白いのばっかりなんだ」

 ニコラが顔を真っ赤にしてドンに説明してる。いや、赤いのは夕日のせいか……どっちだっていい! アカン無理っ……もう直視してらんないッ……!!

「僕ね、時々、記憶をなくすの。僕の中にね、テセウスっていうもう一人の僕がいて、テセウスが僕の時は、僕は眠ってるんだ。急に目が覚めて、覚えてない場所に立ってたりするんだけど、でも、その場にいる人が、テセウスが何をしてたのかとか、全部教えてくれるんだ。だから僕、今、困ってないんだよ!

 僕、カラマンリスのお屋敷に来る前……お父さんに殴られてた時、逃げたいって思った。でも逃げられなくって。どうしようもなくって……死のうと思って崖から川に飛び込んだの。

 でも、セレーネ様が助けてくれた。

 僕が生きられるようにしてくれた。好きな事してても、誰も怒らない場所をくれた。

 だから僕はセレーネ様のお役に立ちたいの。だから今してるの」

 ニコラが、一気にまくし立てる。

 最後に一呼吸置いたのち

「だから、ドンも、セレーネ様に、助けてって……言って……」

 語尾が消え入りそうなニコラの声。

 私はその言葉を聞いて顔をあげた。


 こちらをジッと見ていた、ドンと目が合う。

 涙に塗れた、燃えるような紅玉ルビーのような瞳。

「俺も……死にたくないッ……生きられる世界が……欲しいッ……」

 ドンが再度ボロボロと涙をこぼしながら、そう、真摯しんしに訴えてきた。

「男に身体売るなんて嫌だっ……でも、そうやって生きるしか、俺には、もう、ないんだ……」


 ドンの──

 その言葉を聞いて、私の脳裏に衝撃とフラッシュバックが駆け巡る。


 その言葉。

 どこかで見た。


 どこで……

 どこで──


 あ。


『私だって好きでこうやって生きてきたんじゃないわ。これしか生きる道がなかったのよ!!!』


 乙女ゲームだ!

 あのゲームだ!!

 そこに登場したキャラ──ゼノのルートの時に、悪役令嬢アティを利用しつつゼノに取り入ろうと画策かくさくしていた、女性キャラだ!!!

 名前は──


「ドーラ……?」

 私がその名前を思わず口にしてしまうと、ドンがこれ以上ない程目を見開いた。

「なんで……俺のホントの名前、知ってんだよ……それも、調べたのか……? あ、そうか……ネグラも知ってたぐらいだもんな……そんなん、簡単か……」

 ああ本当にあの乙女ゲームのキャラなんだ!!


 そりゃドンの眼差しに見覚えがあるハズだよ!

 何周したか分からんほどのめり込んだ、ゼノルートのライバルキャラ!!

 赤い瞳の男性キャラに覚えがない筈だよ。だってゼノのルートのライバルキャラは、赤い瞳があやしく光るお色気女性キャラだもん。そりゃ紐づかねぇわ。

 でも、赤い瞳と『ドーラ』という本名、もう彼女で間違いない。


 そうか……またあのゲームの登場キャラと、出会ってしまったのか……

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