第291話 スリの少年に靴を渡した。

「おお!!」

 ドンは、自分の足にピッタリとフィットする靴を見て感嘆の声を上げた。

 ドンは今、下宿の我々の部屋にいる。お昼少し回ったぐらいの時間に結果報告に来てくれたドンに、「靴が出来上がりましたよ」と伝えて部屋に来るかどうか確認してみた。

 最初、しっぶい顔をしていたドンだったが『新しい靴』の誘惑に勝てなかったのか、恐る恐るだったが部屋へと来てくれた。


『部屋に来ますか?』

 と確認した時のドンの表情。

 一瞬にして顔いっぱいに警戒色を浮かべたものの、彼の紅玉ルビー色の瞳の奥に葛藤が見えた。靴、見たい。嬉しい、早く欲しい、危険、ヤバイかもしれない、でも──と、彼の目が如実に揺れて語っていた。

 私は表情筋にこれまで使った事のない程の力を込めて、表情がニヤケないようにした。……私、子供が頭の中で一生懸命考える時の表情がツボみたい。もうアカン。身悶えそうだった。

 アティやエリックのとか、もうマジ見てると我慢できなくなってぎゅーっと抱き締めたくなる。いや、アティに至っては抱き締めちゃう。『おかあさま、じゃま』って首を押し返されて塩対応されるけど……

 エリックとかまだ頭の中だけで考えるの難しいから口に出ちゃうし、アティは手が動くんだよ。両手の短くてちっちゃな指を折ったり空中を指さしたりして、滅茶苦茶頑張って考えるの。もうたまらん……ッ!!!

 でも、そんなニヤケ顔をしたらドンは逃げるって分かってたので、頭の中にマギーを降臨させて、彼女になりきって表情をキープした。頑張ったよ私!!


 部屋の中には、ニコラ、クロエ、サミュエルがいた。当初その事にビクついていたドンだったが、彼らがこちらをあまり気にせず、各々書類を書いたり掃除したり新聞を読んだりしていたので、そのうち気にしなくなった。

 ……みんな、ありがとう。私が『ドンが来ても反応しないで』ってお願いした効果があったわ。私が実家で猫を手懐ける時の手法だ。ま、実家にいた時は、いつも妹の誰か──大概、末妹のカーラが反応してしまい、逃げられるんだけどね。


「これ、革じゃないのか?」

 自分の足にフィットした靴をマジマジと見たり、立ち上がってピョンピョン跳ねたりするドン。私は下唇を噛みしめて、ニヤけてしまいそうな顔に力を入れる。

「靴本体は帆布はんぷです。あ、ええと……船のに使われている、丈夫じょうぶな布です。そしてつま先と靴底が木ではなく革なんですよ。柔らかいけれど滑りにくく、また疲れにくくなっています。貴方のように活動的な人には、この方がいいのではないかと思いまして」

 靴、というより構造はトゥシューズに近い。実は、こういった靴を私は家で履いていた。固い靴底だと疲れるからさ。特別に作ってもらったんだよね。

 ……マギーから『普通、貴婦人は足が疲れるほど歩きませんけれどね』って小言までくらったけどさ……

 アティをはじめ、メイドたちの中にもこのタイプの靴を気に入ってくれて、作業中履いてくれている子たちもいる。何より、動くのに楽だしヒールがないからいいってさ。

 参考にしたのは、前世の頃小学校で履いていた上履きだ。アレはつま先部分と靴底がゴムだったけれど、この世界ではまだラバーソールは出回ってない。早く出回って欲しいなぁ。

「水に弱いので、雨の日は足まで濡れてしまいますが……」

「そんなの、今履いてるのと同じだよ」

 私の言葉に、ドンが速攻で被せてくる。ま、だよね。あの靴、紐で縛って分離しないようにしてるだけだもんね。

「一応、コレも用意しておきました」

 そう言って私がドンに差し出したのは巾着きんちゃく

「ソレをつくろう為の針と糸です。服を縫う用のものよりも、少し太くて丈夫なものです。これを使えば修理ができます。適当な布や革さえあれば、例え穴が開いてしまっても、当て布をしてえばそこそこ長く履けると思いますよ」

 耐久性・耐摩耗性は、どうしても普通の革靴に劣る。でもこれさえあれば、使い続けられる。この針と糸は、クロエにお願いして買ってきてもらった。


「あ……ありがとう」

 差し出された小さな巾着を反射的に受け取ったドンは、いつもの渋い警戒した顔ではなく、子供らしく幼気いたいけで、頬が緩んで嬉しそうな顔だった。

 が。

 自分で自分の表情に気づいたのか、ギュッと眉根を寄せて私の手から巾着を奪い取る。

 ……イチイチ萌えツボを押されてしまう。アカン反応が天邪鬼あまのじゃくで可愛いっ……!

 ふと気づくと、クロエがこちらから顔を背けて肩を振るわせていた。クロエにもツボったみたい。可愛いよね?! 可愛いよね?!

 ま、言わないけどね。ドンに言ったら折角積み上がった信頼が崩れちゃう。


 私は咳払いを一つして気を新たにし、椅子の横に置いておいた紙袋を拾い上げる。

「あともう一つ。報酬とは別に、コレもどうぞ」

 そう言って、彼にその紙袋を手渡した。

 彼は小首を傾げて受け取り、紙袋を開く。遠慮なくズボッと手を突っ込み、中から蝋紙ろうがみに包まれた四角い物を取り出した。

「……石けん……?」

 お? 蝋紙ろうがみに貼られたシールの文字が読めたね? って事は、ドンは読み書きが出来そうだ。


 取り出されたものが石けんだと気づいたドンは、途端にカッと顔を赤くして手にしたソレを私へと投げつけてきた。

 わっ! 何?!

「こりゃどういう意味だよ! クセェってか?! ああっ?!」

 激昂げきこうして立ち上がり、歯をき出して怒るドン。その様子に、クロエとサミュエルが腰を浮かせたので、私は小さく手を振ってソレを制する。

 そして、落ちた石けんを拾い上げた。

「違いますよドン。そういう意味ではありません」

 私は座ったまま、落ち着いた声でそう語りかける。

 しかしドンは腕を振って私の声を振り払った。

「嘘つけよ! ナメんのも大概にしろよ! こんなモンよこしやがって! 薄汚れてる、小汚い、クセェってダイレクトに言われた方がまだマシだ!

 俺らを見下して、そうやって顔しかめて、ついには見なかった事にするんだ!!!」

 彼のその言葉は、私を罵倒している、というより、彼を取り巻く悲惨な現状の告白のように聞こえた。

 いつも、そうやって周りの人間から扱われてきたのだろう。

 見なかった事にされ、存在を気づかれるのは臭いや汚れ。そして見下され軽蔑けいべつされる。視線ですら、彼らの存在を否定される。さぞかし辛いだろうな……

 ドンはひたすらわめき散らす。

 私はそれを、ただ黙って聞き続けた。

 そんな様子を、クロエとサミュエルが悲しそうな顔で見つめ、ニコラはただオロオロと右往左往していた。


 どれぐらい経った頃か。感情を吐き出して少し落ち着いたのか、彼が言葉を止めて肩で息をした瞬間だった。

「違います。これは貴方たち自身が病気にならない為に渡すんです」

 彼が次の言葉を発する前に、私はそうじ込んだ。

 罵倒ばとうの続きをしようとしたドンが言葉を詰まらせる。

「何かを食べる時とかに、先にまずそれで手を洗ってください。それをするだけで、ある程度病気にならなくなります。

 流行病はやりやまいや下痢、腹痛を引き起こす病気、それらの多くは口から手についた病気の元を、食べ物と一緒に摂取してしまう事が原因です」

 私は至極しごく真剣に、ドンの紅玉ルビーのような瞳をまっすぐに見つめてそう告げた。

「病気になると辛いです。食べ物も受け付けなくなって弱って死ぬ事もあります。貴方たちでは医者は来てくれないでしょうし、私にも貴方がた全員を医者に診せる事も出来ません。

 だから、石けんで手を洗うことによって、少しでも病気にかかる可能性を減らしたいんです」

 手指しゅし消毒は衛生の基本だ。それをするだけで、病気にかかる割合が段違いになる。

「……まぁ、確かに匂わないとは言えませんけれどね」

 でも、山の獣も大概だよ。特に、雑食してる熊をさばいた時の内臓の匂いとか……正直、アレは苦手だ。慣れたけれど。

「石けんは沢山あるので、余裕があるようでしたらソレで体を洗ったり服を洗ったりしてもいいと思います。体や服が綺麗になれば、それだけ手が汚れる事も減って、病気にかかりにくくなりますから。

 でも優先は手を洗うことです。なくなったらまた渡しますから、言ってください」

 身綺麗に云々なんてのは健やかに生活できるようになってからでいい。まずは病気にかかる確率を少しでも減らしたいだけ。

 何か流行り病が発生した時、真っ先にかかるのはこういう子たちだ。そして、この子たちから更に街の人間へと被害が拡大していく。

 この子達が病気にかからないようにする為だけじゃなくって、そもそも地域に病気を広げない為にも必要だから。


 私が言わんとしている事を理解できたのか、彼は私の手の中にある石けんを憎々にくにくしげに見つめる。

 どうやら、私が伝えた事の意図は理解してくれたみたい。

 しばらく沈黙の時間が我々の間に流れた。

 ドンは歯を食いしばり、まるで何かにえるような顔をしてから

「……もらっとく……」

 絞り出すようにそう答えて、私から石けんを受け取ってくれた。


 場が収まったかな、そう思って、心の中だけてホッと息をついた時だった。


「石けんない時は灰を使うといい。ある程度汚れや匂いが取れるし消毒にも使える」

 予想外の声を背後からかけられ、私は思わずビクリと肩を震わせてしまう。

 その声と喋り方は──

「マティルダ! いつの間に?!」

 私は部屋の扉の方へと振り返って、声の主の名前を呼んだ。

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