第289話 スリの少年から成果報告を受けた。

 あのスリの少年の名前は「ドン」。

 苗字はないそうだ。表情からして、たぶん苗字はあるのだろうけれど、思い出したくないのだろうか。敢えて突っ込んで聞かなかった。


 彼──ドンからもたらされた情報は、思った以上の成果だった。

 我々が今集めている情報の、手掛かり足掛かりになる重要なもの。彼らからの情報がなければ、私たちは闇雲やみくもに総当たりで情報を調べて回らなければならない所だった。

 いやマジ助かる。

 ディミトリやニコラにああは言ったけれど、子供を働かせる事に葛藤がなかったワケじゃない。個人的には、子供たちは生活の苦労などせずに、ノビノビ元気に遊んで勉強して過ごしていって欲しいから。

 でも……

 今の私には、この子たちを保護し養育する力がない。

 本当に、悔しかった。


 ドンに成果を聞いた後、次の依頼をしようとした時だった。

 彼はまた、目を真ん丸に見開いて私の顔を凝視した。

 なんで……そんな顔すんの。

「次って……次もあるのか? 本気かよ……」

 そんな言葉まで。本気ですが? それが何か?

「勿論です。むしろ、初回はドンたちがどれほどの事が出来るのかお試しって感じでした。思った以上の成果でしたので、ここから本腰入れてって思っていました。

 ……ダメでした? 報酬が安すぎる? それか、もっと別の物が欲しいですか? 私では『これがいいだろう』と予想して渡す事しか出来ないので、もし希望があるのであれば具体的に言って欲しいんですが……」

 私には、ドンたちがどういう事に具体的に困ってるのか分からないからなぁ。直接言ってもらった方が嬉しいし。

「そうじゃねぇよ。こんな事して、お前にどんなメリットがあんだよ」

 彼は渋い顔をしながら私の顔にジロジロと視線をわせる。私を見定めている──というより、本気で私が何を考えてるのか分からないって顔だね。

「いや、ドンたちに情報収集してもらう事、そしてその情報そのものがメリットなんですが」

 私が疑問顔で返事をしても、彼は渋い顔のままだった。

 ああ、そうか。

「ドンたちにとっては調べてもらった情報が有用ではないかもしれないですが、私にとってはとても重要な情報なんですよ。

 情報──だけじゃなくって、どんな物でも、ある人にとってはゴミでも、別の人にとってはお宝になりえます。そういう事です」

 誰にとってもお宝、誰にとってもゴミ、なんてものはそうそうないんだよ。


 水一つとってもそう。

 前世の頃の日本は水の豊かな国だった為『湯水の如く』なんて言葉すらあった、好き放題使いまくれる物だったけれど、乾きにあえぐ地域の人にとっては命に係わる程大切で重要なものだし。

 どの国でも大金で取引される黄金だって、今飢餓きがあえいでいる人間にとってはただの重い金属だ。それよりお腹が膨れる物の方が欲しいだろう。

 そういうモンだ。


 私の言葉を聞いて……ドンが黒くニヤリと笑う。

「じゃあ……俺たちに、家を用意しろって言ったら?」

 小さい声で、そして、私を試すかのような口調でそう呟いた。

 私はその言葉を笑ってかわす。

「それはちょっと報酬として支払うにはキツイですね。個人的にはそうしてあげたいですが、難しいです」

 そう答えると、ドンが顔を歪めて

「だろうさ。受け入れないなら最初から期待させんなよ」

 吐き捨てた。

 なので私は首を横に緩く振った。

「違います。希望は言ってもらわないと分かりません。それに、もしかしたら『OK』と言うかもしれないじゃないですか。答え合わせは、答えをまず言ってもらわないとできませんよ」

 ま、さすがに家までは用意してあげられないけれど。

「お互いが希望を言い合い、妥協点を探る。それが『交渉』です」

 これは、ついこの間の冬に私も痛感した。

 最初から忖度そんたく妥協だきょうした物を言うのは、上手い交渉方法ではない。最初はこっちが希望する条件を言う。それを受けて、相手が飲める条件を再提示する。納得するまでそれを繰り返すんだ。それが『交渉』なんだ。

 そして『自分の損得をベストな状態にもっていく』事が、交渉術。

 私もまだまだ勉強中だけどね。


「交渉が許されるならガンガンすべきだと私は思います。実際に交渉できる余地は……あまりない事も、多いですし。でも、それもまず確認してみないと分かりません。まず確認してみる事は、やった方がいいと、私は思います」

 相手によっては、交渉させてもらえず頭ごなしに命令される事もある。足元を見られる事もある。交渉の為に高めの要望を出したら、呆れられてしまう事もあるだろう。

 でも。

 相手がどう反応するかは、まずはやってみないと。特に、相手がどんな相手か分からない場合にはね。そうじゃないとベストを目指せない。


 私の言葉を、眉根を寄せて聞いていたドンだったが、口をへの字にしつつ何かを考えているようだった。私が彼からの言葉をジッと黙って待っていると

「大きいパンじゃなくって、小さいヤツがいい。数が欲しい。あと、オレンジ。もっと欲しい。金は硬貨で。細かい方がいい」

 そう、ボソボソと口にしてきた。

「分かりました」

 私が笑顔で頷くと

「あともう一つ」

 彼がビシリと人差し指を立ててきた。私がその指に思わず注目してしまうと

「……靴が、欲しい」

 ホントに、小さい声で、ちょっと言いにくそうにドンがそう呟いた。

 気づいて彼の足元を見る。分離したであろう本体と靴底を、紐で縛ってなんとか履ける状態を維持している靴が見えた。

「分かりました。あとでサイズを測りましょう」

 予想外に萌えツボをドストライクで押されてしまい、思わず顔がニヤけてしまう。それに気づいたドンが、口を尖らせてプイッとあらぬ方向へと顔を向けてしまった。

 ……顔が赤くなっているのを隠す為なのだという事は、彼の真っ赤になった耳で気が付いた。


 ***


 初めてドンが来てくれた日から。

 定期的に彼は私の依頼をこなし、結果報告に下宿を訪れて来てくれた。

 最初は私の手の届く範囲には絶対座らなかったドンだったが、日に日に警戒心が解けてきたのか、少しずつ距離が縮まっていった。

 勿論、彼は我々の部屋になんか来てくれない。下宿の中にすら入るのを嫌がった。だからいつも話をするのは玄関先とか、アパートメントの脇にある路地とかだったんだけど。それでも、目に見えて分かるほど彼との距離が短くなっていくのが嬉しかった。

 そういう話をする時は、いつもそばにニコラやクロエ、そしてベネディクトがいた。大人の男では警戒されてしまうと思って、サミュエルやアレク、ディミトリには近づかないように念押ししておいたし。


 いやぁ、野良猫との距離をちょっとずつ詰めるみたいで楽しかった。

 それか、罠を張って獲物がかかる様子を、少し離れた場所から今か今かと待ってるような──

 ……ちょっと、自分が危険人物になったような気がしたけれど、気にしない事にした。


 それはそれで嬉しいし楽しかったんだけれども。


 肝心な事の方が、段々と停滞していっていく事に次第に焦りを感じるようになっていた。


 ***


「証拠が出ませんね……」

 とある日の夜。

 今日は夕飯は部屋で頂きたいからとミコス夫人に伝えて、我々の部屋に全員が集まり、食事をしながらそれまでの情報共有と今後の方針を話合う場での事。

 一人用ソファに深く腰掛けた私は、遅々として進まない証拠集めに、思わず弱音を漏らしてしまった。


「そりゃ簡単に尻尾は出さないだろ。そんな不用意な人間なら、先代カラマンリス侯爵や前妻の暗殺がもっと早くに露見ろけんしてただろうし」

 私の言葉を受けて、部屋の入り口の傍の壁に背を預けて立っていたアレクが、持っていた炭酸水の瓶をゆるゆる回しながら、ヤレヤレといった表情をして答える。

「証拠集めの為に、わざわざ相手のお膝元まで来たというのに……」

 サミュエルが、私の向かいのラグに直接座りながら、眉間を揉みしだきながらそう吐き出した。

 窓際のすぐ下に座ったベネディクトが、何かを考えながら宙に視線を漂わせている。

「しかし、虎穴こけつらずんば虎子こじを得ず、とも申しますし。それはそれで必要な事であると思いますわ」

 私の隣の椅子に座ったクロエが、マグカップを包む両手に少しだけ力を入れてそう継いだ。

 サミュエルの隣に座ったニコラが

「こけつ……?」

 と首を傾げてクロエの顔を見返していたので

「虎の巣穴、という意味です。虎の巣穴に入らないと虎子こじ──虎の子供を捕まえる事はできない、転じて、危険を冒さないと成果を得られない、という意味です」

 クロエはそう答えてほほ笑んだ。ニコラは、ナルホド、という顔をしてウンウン頷いてから手にしたパンに再度かじりついた。


「しかしタチが悪いのは」

 私はクロエの言葉を引き継いで口を開く。

 一度言葉を止めて、ふとディミトリの方を見た。

 彼は一人だけ少し離れて床の上にドッカリと座り、その容姿端麗な姿とかかけ離れた感じで、ワイルドにグビグビと炭酸水を飲んでいた。

「証拠が指し示すとおぼしき人物が……肝心かんじんのラエルティオス伯爵ではなく……であるものばっかりっていうのが……不気味ですね」

 私は、集めた証拠が不自然過ぎる事に気持ち悪さを感じて、思わず大きなため息を漏らしてしまった。

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