第278話 執事見習いと話をした。(2023/07/01改稿)

 騙していた事、セルギオスの事、それにまつわる事──

 ツァニスとその事をちゃんと話す事もなく、今に至ってしまった。


 本当は、離婚する前にちゃんとそれを話すタイミングを取りたかったけれど……ラエルティオス伯爵との対決は待ってはくれない。

 新しく抱え込んだカラマンリス侯爵直属諜報部組織の設立や調整、そしてそれにまつわる事諸々について、主にアンドレウ公爵にレクチャーを受けた。でも、アティとゼノ、ベネディクトとベルナ、そして時々屋敷に来るエリックやイリアスたちとの時間は絶対に減らしたくなかったので、本当に時間が取れなかった。食事はアティたちに食事をする大切さを教えたいが為に一緒にちゃんと摂っていたけど、睡眠時間やそれ以外の時間はガッツリ削った。


 そして離婚後──改めて、私はカラマンリス侯爵直属諜報部の司令官として雇用される事となった。


 ただし、その事を知っているのは屋敷のごく一部の人間だけだ。普通のメイドたちは実情を知らない。『誰が諜報部の人間か』なんて事を知ってしまったら、その身に危険が及ぶから。

 メイド達は私の事を、離婚して元の『ベッサリオン伯爵令嬢』に戻ると共に、改めて『カラマンリス邸専属家庭教師兼子守ナニー』、そして『カラマンリス邸相談役コンサルタント』として再雇用されたと思っている。

 全ては、アティのそばにいる為に。

 ……間違ってはいないけれどね。


 そんな感じで肩書が変わったので、本来カラマンリス邸での立ち位置も『侯爵夫人』ではなくなったけれど、今まで通り使用人たちには丁寧に扱われていた。いや、少し距離は前よりも近くなったかな? 呼び方も『奥様』ではなく『セレーネ様』になったし。私もある意味、使用人の一人になったワケだからね。

 部屋も、侯爵夫人用のものから長期滞在用の客間に移動した。サミュエルを通してツァニスから、そのままでいいとは言われていたんだけど、ケジメとしてね。

 それでも──


 アティは私を『おかあさま』と呼び続けてくれた。


 一応、アティには離婚の事とか、もう公式には『母』じゃないんだよ、という事は伝えたけれど。

 アティはかたくなに、『おかあさまはおかあさまなの』『アティはそうなの』と言って呼び方を変えなかった。周りの人間も、無理してアティに呼び方を変えさせようとはしなかったけどさ。


 子守として、アティと一緒に寝る事も特例として許可されていたし、一緒に食事する事も食事作法を実践して教える事として許されていた。今まで通り、アティやゼノの教育カリキュラムも考えるし、一緒に遊ぶ。

 相談役コンサルタントとして、カラマンリス邸の構造改革等にも変わらず参加させてもらったし、言ってしまえば、肩書きは変わったけれど、私の扱いは離婚前とさほど変わらなかった。


 ──ツァニスとの距離、以外。


 その寛大ともいえる措置そちに、ありがたさを感じつつも──心のどこかに、何とも言えない複雑な形をしたトゲが、ブッサリ刺さって抜けなくなっていた。


 ***


 既に深夜近く。

 私がいる一等寝台車の部屋の灯りは落としてあった。二つある寝台の片方では、ニコラがスヤスヤ眠っていたし。

 ちなみにクロエは別部屋だ。「なぜ私が一人で別部屋なのでしょうか」と疑問を吐かれたけれど、一等寝台にある四人部屋が取れなかった事と、ニコラと一緒がいいという私の言葉に、渋々引き下がってくれた。本当に……渋々だった。


 私は窓際に座り、ギリギリまで光量を落とした電気ランプの灯りを見つめながら、これまでの事を考えながらワインをチビチビ飲んでいた。

 最近あまりよく眠れない。眠れる時間がとれた日でも。

 今日も例外ではなかった。

 寝酒ナイトキャップにワインでも一杯ひかっければ──と思ったけど、無理みたい。

 いやに神経が高ぶってる。強盗ぶちのめしたからかな。

 私は注いだワインを一気飲みして、グラスをサイドテーブルに置いた。

 ともすれば、ため息ばかりが漏れ出る。どうしたもんか。


 ああダメじゃん。もうアティに会いたい。この一年で随分重くなった身体を手首がクキッっていうのも構わず抱き上げてギュウギュウに抱き締めたい。ついでにその頭皮吸いたい。グリグリ頬っぺた擦りつけてキャッキャと笑うあの声が聞きたい──


 でも。

 やるべき事はやらなければ。離婚も諜報部司令官として再雇用されたのも、全てはその為だ。

 アティとツァニスを、ラエルティオス伯爵の企みから守る為。

 二人が大切だから。

 無事に生きて欲しいから。

 そして、全てを片付けた後、自分の思った道を進みたいから。


 だから、アティを置いて、私は旅に出た。

 ラエルティオス伯爵の企みを阻止する為の計画を、実行する為に。

 恐らくこれが、ラエルティオス伯爵との闘いの鍵となる。これが上手くいけば、後は私は直接関わらなくても、物事を上手く運べるようになるだろう。

 だからこれが終われば私は──


 それを予感したのか、旅立つ日までの毎日、アティは私に確認してきた。

 かえってくる?

 もどってくる?

 アティのことすき?

 と。

 私は毎日毎晩アティを抱き締めて、勿論だよと伝えた。

 終わったら必ず帰ってくるよ、

 アティの事はずっと大好きだよ、と。

 何度も約束した。何度も何度も。別れ際も。


 あー。いかん。

 一度思い出すと止まらん。脳裏に浮いたアティの顔が消えない。

 ニコォっと笑う顔、太陽光にキラキラ輝くプラチナブランドの髪、額には珠のような汗で前髪が張りつき、背伸びして私に両腕を伸ばして抱っこをせがむ姿。

 ああクッソ。アティに会いたいアティに会いたいアティに会いたいアティに会い──


「口から呪文、漏れてる」

 声に驚いて振り返ると、寝台の上に身体を起こしたニコラがいた。

「起こしてしまいましたか」

 私は申し訳なくそう言うと

「大丈夫。は寝てる」

 ニコラがそう言った。寝てる? あ、って事はつまり。

「ニコラが寝てるから俺が起きただけ。ニコラが寝てる時は、俺自由に出れるんだ。ま、普段は起きないけど」

 そっか。これ、テセウスか。

「ま、それは気にすんな。それより」

 そこまで言うと、テセウスが苦い顔をした。

「……一応、先に、アンタに言っておきたい事があって」

 少しだけ言いにくそうに口をモゴモゴさせながら、そう呟くテセウス。

 私は身体を返して彼と向き合った。

「なんでしょう」

 そう問いかけて、私は彼の言葉を待った。

 テセウスは、一瞬口を開きかけたものの、一度口をきゅっと結び、私から視線を外して壁をジッと見つめる。私は彼の言葉を根気よく待った。


 どれほど経った頃か。

 テセウスが鋭く息を吸うと、私を下から覗き上げるかのような視線を向けてきた。

「……俺、そろそろ、消えるかもしれない」

 予想外のその言葉に、私の心臓がドクリと強く一度脈動する。

「え、どういう──」

「今回さ。アンタについて行きたいって言いだしたの、ニコラなんだ」

 テセウスはなんだか遠い目をしてそう言った。あ、いや、違う。遠くではなく、私の隣にある窓──そこに映ってる自分を見てるんだ。

 今回の旅について、本来ならニコラ、そしてテセウスは屋敷に置いていくつもりだった。危険が伴うしぶっちゃけ無事に帰れる保証も実はないし。それに、やっと彼らの心が安定してきたのに、ここで突然環境を変えたくなかった。ただでさえ、肩書が変わったりして色々複雑になってきたのに。

 しかし、ニコラは旅に同行したがった。いや、正確に言うと、私にそう伝えてきたのはテセウスだったけれど。

「アンタの力になりたいって。それで、俺の力を借りたいって手紙で改めて伝えてきたんだ。俺の方がセレーネ様の役に立つからって」

 そう言って、テセウスは苦笑いした。

「ニコラが俺にそう言うの、実は初めてなんだ。今まではから、代わりに俺が出て来てただけだったけど。

 アイツの意思で、俺と交代したい、テセウスに出て欲しいって。お願いされたのは、初めてだった……」

 そう説明されても、私にはテセウスが『消えるかも』と言った理由は分からなかった。

 しかし、尋ね返したいのに言葉が出ない。嫌な予感に心臓がバクバクいってる。

「ニコラは強くなったよ。前と全然違う。気づいてるかどうか知らないけど、ニコラ──女のニコラはとっくに消えた。つか、ニコラオスと同化した」

 言われて気づく。そういえば、ニコラは最近、自分を『私』と言う事がなくなっていた。自分を『私』と呼ぶのは女の子のニコラだ。そうか……いつの間にか、統合してたんだ。

「ニコラが好きな事しても、アイツを女として扱うヤツがいなくなったからな。女のニコラはきっと不要になったんだ。だから消えた。

 ……たぶん、俺も、そうなる」

 なん、だって?

「そんな……事は……」

 テセウスも消えてしまう? そんなの、それって、え、ちょっと待って。

「なんで……?」

 テセウスが不要になるなんて、そんな事あるの?

「ニコラが強さを身につけ始めたからだよ。俺が生まれたのは、アイツが弱くて耐えられなかったからだ。……今は、違う。ニコラ自身が、強くなりたいって、思ってる。

 だから……」

 私はテセウスの前に膝からスライディング。そして彼の両手をとり、下から彼の顔を見上げた。

 テセウスは、何故か、ひどく困ったかのような顔をしつつも、笑っていた。


 本来なら。

 ニコラの多重人格症状がなくなる事は良い事だ。記憶が途切れる事がなくなり、生活の質が俄然がぜん良くなる。周りも、突然の人格交代に驚く事も、対応を変える必要もなくなる。

 良い事だ。

 良い事なんだけど……


 これは、言ってはいけない事だ。

 言ってはいけないのに──言わずにはいられない。


「テセウスに消えて欲しくない……」

 口から、言葉が漏れてしまう。ついでに涙も。

 それを聞いたテセウスが、クシャリと笑って私の額に自分の額をコツンと合わせてきた。

「泣くなよ。強い女だろ、アンタは」

「強くたって泣くよ……強いイコール泣かないってワケじゃ、ないんだから……」

 いつもとは逆転した立場。私の手から自分の手を引き抜いたテセウスは、私の頭を優しく撫でる。

「そうだな。アンタ見てるとそう思うよ」

 その声は、落ち着いていて安心できるものであったハズなのに、私の心にはジワジワと不安な気持ちが広がって行った。

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