第272話 真剣な話をした。
その言葉に、ドキリとして息が止まる。レアンドロス様には色々弱音を吐いてしまっているし……それ以上の『立ち入った質問』が何なのか、想像もつかなかった。
「な……なんでしょう?」
息を詰めながらそう返事をする。
すると、レアンドロス様が小さく息をついてから
「本当に離婚してしまうのか」
そうポツリと呟いた。
な、なるほど。確かに、ちょっと今までとは種類が違う『立ち入った』話だな。
私はこっそりと息をついてから
「ハイ」
そう返事をした。
また、暫く沈黙が降り立つ。
私はずっと、薄紫の満開の花と、その向こうの真っ青な空を見上げていた。
「ツァニス殿もそう言っていたが……しかし、それは不本意ではないのか?」
問われてドキリとする。なんで、そんな事聞くんだ……?
だってツァニスも言っていた。『私の命を守る為だ』って。今の状況だと、侯爵夫人が危険に晒されているのは分かりやす過ぎる程に分かりやすいし、そんな状況にツァニスが私を置いておきたがらないのも、分かるかと思うんだけれど……
「カラマンリス侯爵夫人の位置が今危なく、そしてセレーネ殿がそれについて理不尽に感じている事も理解している。
ただ……」
一度そこで言葉を切る獅子伯。小さくまたため息をついた音が聞こえた。
「離婚しない方がいい。そう、俺は思う」
レアンドロス様のその言葉に、頭を殴られたかのような衝撃を受けた。
彼の真意は分からない。分からないのに──なんで、私は、ショックを受けてるの。何を、今更──
「セレーネ殿は隠れてやり過ごすのは苦手だろう。それに、肩書を失えば出来ない事も多くなる。この状況では、それは不利に働くのではないか?
それに……いや、それ以上に、ツァニス殿とアティ殿にはセレーネ殿が必要だと思うのだが」
そう続けられた言葉で、レアンドロス様の真意を知る。
確かに。
これからまだまだやらなければならない事だらけだ。実質実施権限がないにせよ、侯爵の後ろ盾は大きい。肩書のお陰で味方になってくれる人も多いだろう。
何かをしたいのであれば、権力や後ろ盾は、あるに越したことはない。
そして、ツァニスとアティ。二人の精神的な支えは、きっと私だ。
血の繋がり等がない分、離婚してしまったら──本人たちがどう言おうと、周りの状況がそれを許さない事もある。
「それだけではない」
レアンドロス様が言い募って来る。
「セレーネ殿は人に頼る事が苦手であるが故、全てを一人で背負い込む癖があるだろう。それは悪手だ。誰しも一人で全ては背負いきれない。時には信頼できる誰かを頼る事も、そろそろ覚えるべきだ。その為にも、一人にならない方がいい」
ぐぅ。さっきまで考えていた事を見透かされたみたいな言葉だな……確かに。最悪の時は全部一人で片付けるつもりだった。
レアンドロス様の言葉を受けて、私は離れた場所でキャッキャとはしゃぐアティと、ゼノとエリックに剣の指南をするツァニスに目を向けた。
楽しそうに笑う二人。
自然と私も笑みがこぼれた。
「離婚は私の
そんな言葉が口からスルリと漏れた。
「妻、義理の母、そんな肩書がなくっても、二人と繋がっていられる。繋がれる程の絆が既にある──私は、それを証明したいのかもしれません」
この一年で
そんなものでは説明できない物が作れたのではないか、そう思う。思いたい。
私が何になろうと、それは変わらない。変わらないものである。そう、信じたい。
「二人を愛しています。とても。でも、私はそれと同じぐらい──いえ、下手をしたらそれ以上に、自分も愛しています。そんな自分の希望を考えると、今の『結婚』は──
『結婚を了承したんだから我慢しろ』
それを、何度言われて来ただろうか。
例えその結婚に自分の意思が一ミリも含まれていなくたって、周りの人はそう言う。
ならば。
自分の意思と決意で結婚したいじゃないか。自分で決めてないのに、まるで私が決意してそうしているかのように言われるから理不尽に感じるんだ。
なら、そうならないように、私は決意し覚悟したい。
「言われるがまま受領するのではなく、自分で選択して掴み取りたい。状況としては同じかもしれませんが、自分の中の……こう、『納得感』が違うんです。
その方が、自分が幸せになれるって、思うんですよ」
状況としては変わらない。ならなんでそんな必要のない手間をかけるんだと言う人がいる。でも、私も人間である以上『気持ち』が重要だと思うんだよね。
その『気持ち』次第で、物事の見え方は百八十度変わる。
「全部をリセットし、自分の周りの状況を見まわしてみて、どれが大事なのか、どれが実は必要ではなかったのかを、新しい視点で見て、判断したいんです。
だから離婚は──この状況がなくっても、したいと思っていました」
肩書がなくなる事で、他人との関係性は変わるだろう。
アティは私の娘ではなくなり、ツァニスは夫ではなくなる。
ティナ様やエリック、そしてイリアスとはおいそれと口をきけない立場となる。ゼノはメルクーリ関係での繋がりはあるものの、それはとてつもなく希薄となり、ベルナとベネディクトに至っては、完全に接点が切れてしまう。
レアンドロス様ともそう。侯爵夫人ではないのであれば、きっと、もう二度と面と向かって会う事はなくなる。
でも、それでいい。
「今持っているものを手放さないと、新しいものは手にできません。
今あるものがいらないのではなくって……手を離したら、離れていくものがあるように、離れていかないものも、あると、思うんですよ」
きっと大丈夫。
アティと私は、こんな事では切れはしない。例え物理的な距離が離れてしまっても。
私からアティに贈った様々な事が、彼女の中に根付いている事を、実感できたから。
──そうだよ。
例え離れてしまっても。その後の状況が変わったとしても。変わらない事もあるんだよ。
「だから……レアンドロス様も、一歩、踏み出した方が、いいと思います……」
先ほどの自分の言葉に影響され、自然とその言葉が続いた。
レアンドロス様の空気が、一瞬ピリッと厳しくなった事を感じる。
でも私は言葉を続けた。
「レアンドロス様が、奥様とお子様を愛し大切にしていた事は揺らぎません。例え、新しく……妻を迎えたとしても」
そう言う私の脳裏には、マティルダと獅子伯が仲良さそうに笑いあっていた光景が蘇る。
「奥様とお子様を亡くしてしまった事は本当に不幸な出来事です。これ以上ない程の。それによりレアンドロス様が心に深い傷を負い、そして一生消えない後悔を背負っている事も理解しています。
でも、だからといって、自分が幸せになるかもしれない道を選ばないのは、違うと思うのです」
視線を上げると、ヒラリと目の前を薄紫色の花弁が横切った。
花はいずれ散る。それを憂いても意味がない。季節が廻ればまた盛大に咲くものだ。散った花びらを大切に保管せずとも、見事に咲いた事を覚えていればいい。
そして新しく咲いた花を見て、時には昔の事を思い出せれば、いいのではないだろうか?
「奥様やお子様は、きっと、レアンドロス様の幸せを願っていると思いますよ。だって、きっと、レアンドロス様の事を……とても愛していらっしゃったでしょうし。
これは予想ですが……奥様はお手紙で……『すぐに帰ってきて』とは、おっしゃらなかったのでは?」
私がそう問いかけると、レアンドロス様が息を呑んだのが分かった。
やっぱり。
奥様は、レアンドロス様が前線の状況で戻ってこれない事も、きっと理解していた。もしかしたら、実家や療養地には行かずに、メルクーリの屋敷で待っていたのかもしれない。
状況が落ち着けば必ず帰って来る。彼の帰る場所で、彼を待ちたかったんだ。愛する彼を、彼との子供と一緒に出迎える為に。
その為に彼女は、文字通り命をかけた。
「むしろ、奥様は望んでいたんじゃないでしょうか? レアンドロス様が全てを片付けてから戻ってきて、心置きなくゆっくりと、自分と子供を抱き締めてくれる事を」
だから、帰ってきてと言わなかった。それが、永遠の別れになるなんて、きっと彼女も思っていなかっただろう。
誰もそんな事は思わない。最後の遠乗りに誘ったセルギオスだって、きっとそうだっただろうし。
「奥様は本当に、獅子伯の幸せを願っていたんだと思います。
だから……怯えず踏み出して、ご自身が幸せになれると思う行動を……とっていただきたい」
私は前に進む。
だから、レアンドロス様にも、進んで欲しい。
例え途中で道が別れてしまうとしても、私は、この一年の幸せな時間を忘れない。
「それは……どういう……」
獅子伯の困惑した声が聞こえる。声が、少し、動揺してる。
凄い、私。獅子伯と呼ばれる彼を動揺させてる。なんだか少し笑えてきた。
笑いが……歪む。苦笑のような形になってしまい、ゆっくりと深呼吸して気持ちを落ち着かせた。
そして口を開く。
「マティルダの事です。マティルダはレアンドロス様を慕っています。レアンドロス様もマティルダには、心を開いていらっしゃるようにお見受けしました。なら……いえ、誰かと
でも、レアンドロス様は、守れるものがあった方がより強くなられると思うのです」
私は膝の上に置いた手を強く握りしめる。
これでいい、これでいいんだよ。
レアンドロス様に幸せになって欲しいのは本心だ。
例え、それが、自分とじゃなくったって。
私の大切な人たちが幸せになってくれる事が、一番大事。
「マティルダ……」
獅子伯の、掠れるような、そんな声。
怖い。
彼の口から、次に紡がれる言葉が怖い。
でも、それで私も踏ん切りがつけられる。
私は、彼から紡がれる次の言葉を、じっと無言で待ち続けた。
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