第273話 春の嵐が全てを壊した。

「何を……勘違いしてるのだっ……」

 そんな、呆れたかのような声が背中の方から聞こえた。

 え、と思って振り向き、少し身体を伸ばしてレアンドロス様の方へと視線を向けると。


 お腹を抱えて大爆笑しはじめたレアンドロス様の姿が目に入った。

「あっははははははは! そ……そうか、そういう事か。何を言い出すのかと思えば……」

 目の端に涙を浮かべて笑い転げるレアンドロス様。

 ……大爆笑、するんだ。もしかして……滅茶苦茶レアな場面を、私は見ているのではなかろうか?

 ひとしきり笑った獅子伯は、肩で息をしながらなんとか呼吸を整える。

 そして、緩く私の方へと振り返った。

「マティルダは俺の腹違いの妹だ」

 えっ!? そ、そうなの!?

「でもっ……レヴァン元夫との結婚式には、マティルダらしき女の子はいなかったと……」

「……マティルダは、俺の父と、厩務員をしていたメイドの子供だ」

 ──ああ、そういう事か。

「父は一時いっときの気の迷いだと言い認知しなかった。だから書類上は妹ではない。しかしマティルダが父の子である事は、屋敷の人間の間では暗黙の了解であり、そしてまがう事無き事実だ。

 しかし、母は使用人から生まれた父の子をいとってな。その待遇は劣悪だったようで……俺が気づいた時にはマティルダの母は病気になっていて、そのまま──

 だから俺が世話してやっていたんだ。マティルダにとっては、俺は兄というより父だな」

 そ……そうだったんだ。うわ、もしかして、私は今、とんでもなく恥ずかしい事をレアンドロス様に言ってしまったんじゃ……

「俺にとっても年の離れた可愛い妹で……流石に、マティルダに結婚斡旋あっせんは気持ちがいい物ではなくってな。仕事を紹介したのはそれが理由だ。

 しかし、いつまでも俺が世話してやるワケにもいかない。自立した後一人で生きられるようにと他にも色々仕込んだが……まさか、あそこまで強くなるとは俺も想定外だった」

 武術ね。確かにね。彼女は息するように技を繰り出す。どっかで、妹④・デルフィナと模擬戦やって欲しい。


「そ……そうだったんですね、すみません、勘違いしてしまったみたいで……」

 兄のように──いや、むしろ父親のような気持ちでマティルダに接していたんだ。そうか、だからあの優しい目か。ゼノ以外にあんな視線をと思っていたけど、理由が分かったら……そりゃそうかって話だったのか。くっそ……マジか。

 やっばい顔から火が出そう。恥ずかしい!!!

「でも! あの、獅子伯に幸せになって欲しいというのは本心なので、例え相手がマティルダではなくっても、もし他にいらっしゃるのであれば、その方と──」

 私はアワアワとそう取り繕う。

 ああもうヤダ! なんで一番大切なところしくじってんだよ自分! よりによってレアンドロス様にっ!! ギャース! もう恥ずかしくて消えたい!!

 なんとか勘違いを忘れてもらおうと、アレコレ言いながら必死に言い訳を探している時だった。


 獅子伯がスクリと立ち上がる。

 私の方へと向き直って、すぐにその場にひざまずいた。地面についていた私の右手を取り、一度スルリとその手のひらをさする。

 そして──


 私の手のひらに、唇を落とした。


 ……。

 ………………。

 ………………………………。

 ……………………………………………………。


 これは──

 私の勘違いや記憶違いでなければ──


 これを男性からされたのは、実は初めてじゃない。

 二度目。

 一度目は──レヴァン元夫との、結婚式の時だった。


 メルクーリでの風習で、結婚する時に新郎が新婦にする、結婚の誓い──


 獅子伯の顔が、ゆっくりと上がる。

 その翡翠色の瞳が、真っすぐに、私を射抜いていた。


「しっ……しっししっしっ失礼します!!!」

 私はレアンドロス様の手から自分の手を引き抜き、転がるようにして立ち上がって走った。

 振り返れなかった。振り返れるハズもなかった。

 彼を見れない。見れるワケもない。

 まさか! まさかレアンドロス様が!? いや、ちょっと待って!? 何!? 何今のは?! いや分かってんだろって、だってアレってメルクーリだと結婚の──嘘だウソだマジか!?

 レアンドロス様が──私を……?


 でも、でも、でも! レアンドロス様は何も言ってない! 何も言わなかった!!

 ただ、手のひらに口づけただけだ! もしかしたら、私の手のひらに知らない間にハチミツがついてて、それに気づいた獅子伯が、こうお腹すいててたまらずペロッと──なワケあるかッ!!! どんな腹ペコ熊さんだよッ!!!


 私は大きな木の裏側に逃げ込んで、背中が幹にめり込むかという程押し付けた。

 落ち着け。落ち着け。息が苦しい。呼吸できない。心臓が肋骨突き破って飛び出してきてしまいそう。それか喉からコンニチハしそう。

 私は両手で顔を覆う。

 頭が真っ白。何も考えられない。考えたくない。ダメだダメだめ。それはダメなんだって。私が離婚と言っていたのは、レアンドロス様は関係なくって。彼がどういう行動を取ろうと、私の判断の中に彼を入れるべきじゃなくって。

 今はツァニスとアティの事だけを考えていたくって。だから私は命懸けで色々していたんであって。他の事を考えてる余裕は一ミクロンもなくって。

 でも、どうしよう。あの行動を流したら、もしかして私は、レアンドロス様の──

 だから考えんなやボケがァ! 今は! 他の事を!! 考えるのっ!!!


「セレーネ?」

 そんな声が、少し離れた所からかけられる。ビックリして思わずちょっと飛んだ。

 両手を少し開いて恐る恐る目開けると、驚いた顔をしたツァニスが歩いてくる姿が見えた。

「どうした? 走っていたな。何かあったのか?」

 ッ……!? ツァニス見ちゃった!? さっきのアレ、見ちゃった!?

「まだ間者がまぎれていたか?」

 彼は私の元へとたどり着くと、不安そうな表情で辺りをキョロキョロと見まわした。

 ああ良かった。ツァニスは、さっきのアレ、見えてなかったんだ。

 良かった。本当に良かった。

 私は、すぐさまツァニスの身体に抱き着いた。彼の身体に両手をまわし彼の肩に顔を埋め、ギュっと抱き締めた。

「どっ……どうした?」

「なんでもありません。少しの間だけ、こうさせてください」

 彼の身体を抱き締めながら深呼吸する。落ち着け私。そうだ、今は、ツァニスの事だけを考えるんだよ。

 彼についてどう自分が思うのか、そしてどうすれば彼の命が助かるのか。

 それだけを……考えるんだ。


「ツァニス様は、どうなされたんですか?」

 彼の肩に顔を押し付けたまま、そうモゴモゴと尋ねてみた。

 私に抱き着かれたツァニスは、私の背中を緩くさすりながら

「……実は、一つ、確認したい事があったのだ」

 そう呟いた。

 確認したい事? なんだろう。

「なんでしょうか?」

 私はそのままの態勢でツァニスに問い返す。ツァニスは、私の背中をゆっくりと撫で続けていた。

「……セレーネ、お前は、私に……大切な事を隠しているのではないか?」

 身体伝いに振動として聞こえたその言葉に、私は身体を硬直させる。

 やっぱり!? さっきの、見えてたんじゃ!?

 私が慌ててツァニスから身体を離して一歩後ろに下がる。そして彼の顔を改めて見た。

 その顔は、酷く、真剣だった。

 どうしよう、あんな姿、どう言い訳すれば──

「セレーネは、これに、見覚えはないか?」

 頭の中を高速回転させて言い訳を探していた私に、ツァニスのそんな静かな言葉が投げかけられる。

 これ? これって何──

 彼の言葉の意味を知ろうと思った時だった。

 ツァニスは懐に手を突っ込んで、ある物を取り出して私に差し出してきた。

 それは、懐中時計だった。


 心臓がコレ以上ないほど圧縮される。背中にゾクリという悪寒が一気に走り抜け、地面が揺らいだような気がした。

 その懐中時計に見覚えは勿論あった。

 だってそれは、兄の形見であり、ずっと大切に私が持っていた物だったから。


 一年前、アティに落ちてきたランタン目がけて投げつけた、あの懐中時計だ。

 なんで……それを、ツァニスが持ってるの……?


「どこで……それを……」

 締まる喉で、かろうじてなんとか言葉を絞り出す。しかし、上手く息が吸えない。

「一年前、エリック様とアティの婚約を取り交わした場所──アンドレウ邸で拾ったのだ。

 危うくアティが火だるまになるところを助けた男──セルギオスと名乗る男が落としていったものだ」

 ツァニスは、懐中時計に視線を落とし、それを指でゆっくりなぞっていた。

「これがあのセルギオスの物である事を、この間ベッサリオンに行った時に、ヨルギオス様セレーネの祖父に確認した」

 ──ああ、そうか。しまったな……。懐中時計の行方、気にしてなかったワケじゃないけれど、まさか、ツァニスが拾っていたなんて。

 そして、それの持ち主がセルギオスだった事が……バレて、しまったのか。

 私の気持ちが、スゥっと冷静になっていくのを感じた。


「この懐中時計を拾った後も、不思議な事が続いた。端々でセルギオスの影を見たのだ。舞踏会の時などは、目の前に立っていた」

 今考えると、アレは不用意過ぎたな。あの時は、状況を引っ掻き回せると思ってたから、セルギオスの存在がバレても構わないとすら、少し思ってた。

「でも、実はそれだけではなかったんだ。

 アティが、セルギオスの事を言っていた。てっきり、セレーネがセルギオスの事を伝えていたのだと思っていたが……不思議な事に、アティはまるで言うのだ」

 ……まぁ、そうなるだろうな、とは薄々思ってた。アティが秘密を秘密のまま絶対に外に漏らさない、なんて事は不可能だって分かってたし。セルギオスの名前、どこかで出しちゃうだろうなって、ずっと思ってた。でも、はぐらかせると、思ってた。なんとでもなるって。

「だから私は、実はセルギオスが影で生きているんだと、ずっと思っていた。何かしらの理由があって、表舞台には出れなくなっただけなのだと。

 ベッサリオンでセルギオスの事を聞いても、不自然にはぐらかされただけだったし。

 でも、それでも良かった。彼が生きているのであればそれで。

 でも──」

 ツァニスが、一度そこで言葉を切る。

 そして、懐中時計をまた懐に戻して、真っすぐに私の事を見た。


「でも、それが勘違いであった事に、つい先日、気づいたのだ」

 その一言で、彼が今何しに私の前に立っているのか、理解した。


「セルギオスは確かに存在していた。しかしそのセルギオスは、私が知っているセルギオスとは違うのだな」

 こんな日が、いずれ来る。必ず来る、そう分かってた。

 でも、それを考えないようにして、私は現状をなんとかギリギリまで引き延ばそうと必死だった。


「……セレーネ。アティの傍に今もいる『セルギオス』は、お前だろう?

 アティを火傷の危機から救い出し、舞踏会に現れ、ベッサリオンで妹とアティを助け出したのは……」

 あれだけ派手に動き回って、バレなかった事がむしろ奇跡だったんだ。

 奇跡にすがって、私はその後しなければならない事を、おこたってしまった。


「数年前に私と剣を交え、そして私を倒したのは──

 セレーネだったんだろう?」


 ツァニスが、私の事を真っすぐに見ていた。

 少し、悲しい顔をして。


 ……あんな顔を、させたかったワケじゃないのに。


 私とツァニスの間を突風が吹き抜けていった。舞い上がる無数の薄紫の花びら。木々が風に煽られザァっと騒がしい音をたてる。

 目を開けていられない程の花吹雪。

 風に混じって、少しだけ子供たちの笑い声が聞こえた。


 こんなに美しい場所が最後の場所とかって。

 出来すぎじゃないの。


 私は一度目を閉じた。

 何故か私の目から、一粒だけ、涙がこぼれた。

 小さく深呼吸して、ゆっくりと目を開ける。

 すぐそこに立つ、自分の夫をじっと見つめた。

 そして。


「そうです。私が──あのセルギオスです」


 そう、ゆっくりと、彼の言葉を肯定した。



 第八章 了

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