第257話 悩ましい事ばっかりだった。
……なんだって?
私は自分の耳を疑った。
でも、確かに言った。マティルダは、自分の事を『駄馬』と。
なんで、そんな、自分の事をそんな風に言うの?
その口調、それって、まさか──
「誰かに、そう、言われてきたんですか?」
私が更にそう言い募ると、マティルダは突然無表情になり、自分の指先に視線を落とした。
「だって、事実」
マティルダがポツリと吐き捨てる。
──やっぱり。マティルダ、誰かにそう言われ続けてきたな。
彼女にそう、刷り込んできた人間がいる。最悪だな、何なんだよ全くもうっ……!
思わずムカついてしまい、私は膝の上に置かれていたマティルダの手をガッと引っ掴む。
「そんなのは事実ではありません。マティルダは馬に詳しいんですから分かるでしょう? 駄馬なんて存在しない。足が遅くても力強い子もいる、病気がちでも頭のいい子もいる。誰かが求める能力を持ってないとしても、それでダメである事にはならない!」
彼女の目を真っ直ぐに覗き込み、そう真摯に伝えた。
馬だってそう。人間だってそう。
不健康だって女だって、ダメな人間なんて一人もいない。ただ、その人が活躍できる場に恵まれないだけ。
マティルダは、これ以上ないほど目を見開き、ポカンと口を開いていた。
「……セレーネ、レオと同じ事を言う……」
そうポツリと
「そんな事、言ってくれる人、他にいなかった。だから……好き。レオのこと」
マティルダの口から漏れた言葉に、私は身体をギクリと硬直させてしまった。
マティルダは獅子伯が好き。
獅子伯も、恐らくマティルダの事を憎からず思ってる。あの優しい目。あんな目をゼノ以外の人に向けてるのなんて見た事ない。
つまり、それって相思相愛って事?
あれか? もしかして、身分違いの何とやらなのかな。だから二人はそばにいるのに──
いや、違う。
前に獅子伯が仰ってた。
『俺はもう結婚しない』
きっと、それがネックになってて前に進めないんじゃないのかな。
獅子伯は、奥様と子供をいっぺんに亡くした事で臆病になってるんだ。だから踏み出せない。
──獅子伯にも、幸せになってもらいたい。
あんな素敵な人が、幸せに踏み切れないのは……いやでも、誰かと
でも、そうじゃなく、ただ
ああダメだ、頭が爆発しそう。
気持ち悪くなってきた……
「セレーネ。顔、赤黒いを通り越して、ドス黒くなってきた。寝て。寝ないと治らない」
そう言って、マティルダは私の右肩をムイムイ押して布団の中に押し込もうとする。
私はそれに素直に従った。
目を閉じて、止めどな浮いては消えていく様々な出来事と気持ちを、熱で煮えた頭でアレコレ考える。考えたところでまとまらなかったけど。
そうしているうちに、気絶するかのように途中で意識を失った。
***
あの日から。
地味に面倒な日々が続いた。
熱は引いて私は回復したんだけど……屋敷に既に入り込んでしまった敵の動向を全て把握する事は、やはりできず。
ある時は鉢植えが落ちて来たり、ある時はカラマンリス邸から届いた書面にカミソリが仕込まれていたり。
あの鹿用の罠のようなものは、流石に屋敷の中や周辺では目立つ為あらかじめ撤去されていたが。見逃された小さいものが、地味に私たちの精神を削っていった。
そういう敵からの地味な攻撃もしんどかったけれど。
一番しんどかったのは……
やっぱり、大奥様とクネリス子爵夫妻だった。
「はーい、アティ! 貴女の為に取り寄せたお菓子を持ってきたのよ。食べなさ~い」
別荘の娯楽室で、暖炉前のラグの上に座りながら、サミュエルから簡単な算数を教わっていたアティ、エリック、ベルナに、そんな声がかけられる。
声をかけたのは大奥様とクネリス子爵夫妻。その後ろには、結構大きなブリキ缶を携えた使用人たちが立ち並んでいた。そのブリキ缶は蓋が開いており、中から色とりどりのクッキーらしきお菓子が整然と並んでいるのが見えた。
一瞬驚いた顔をするアティたち。
しかし、使用人たちが手にしたブリキ缶の中身を見て、エリックを始めベルナ・アティも一瞬にして目を輝かせた。
「うわ~!」
黒板を放り出すかのように床に置いたエリックが、いの一番にブリキ缶に飛びついた。
それを見たマギーが一瞬にして嫌な顔をする。
「大奥様、お言葉ですが──」
「そう思うなら黙っていなさい」
何かを言おうとしたマギーの言葉を、サッと封じる大奥様。
ったく! 勝手な事してんなよアイツら!!
娯楽室の別の場所でアンドレウ夫人とお喋りしていた私は、その場からサッと立ち上がった。
「ダメですよアティ、エリック、ベルナ。おやつは先ほど食べたでしょう。今日のおやつはアレで終わりです。あとは夕飯まで待ちましょう」
私が鋭く放った言葉に、子供たちはピャッと首をすくめる。ツカツカと近寄って行く私の顔を見て、特にエリックが『えー』という不満そうな顔をした。
「おやおや、いいじゃないですか、少しぐらい。せっかくアティたちの為にお菓子を用意してきたんですから」
そう言い募って来たのはクネリス子爵。夫人と同じく、口調は柔らかかった。
が、当然
「いえ。今食べたら、お夕飯が入らなくなってしまいます」
私は
お茶の時間に子供たちにはちゃんとおやつをあげた。もう夕方前だ。今食べるのは良くない。食事のリズムが崩れてしまう。
「なら、夕飯を食べなければいいじゃない」
そんな事を言い放ったのは大奥様だった。
ハァ!? お前何言ってんの?
「ダメです。子供たちに用意される毎食は、栄養バランスが考えられたものです。
また、変な時間に食べると変な時間にお腹が空いたりします。リズムは崩さない方がいいんです」
私がそうキッパリと言い放つと、大奥様はフッと鼻で笑った。
「そうやってアティを
大奥様の言葉が、また私の胸に小さく刺さる。私はこっそりと拳を握りしめた。
「まだアティたちは小さいので、食事内容はともあれリズムの管理はまだ必要です。
もしお菓子を食べさせたいのであれば、明日のおやつの時間にしてください」
私は一歩も引かずにそう言い募った。
私はなんとか、今そのお菓子を食べさせるのを辞めさせようとする。
私があのお菓子を食べさせたくないのは、食事リズムが崩れるとか、夕飯が入らなくなるからとか、勿論それもあるが、実はそれ以上の大切な理由があるからだ。
毒見されていないものを、子供たちに食べさせたくない。
実は、この屋敷で出されているあらゆる食事やお茶等は、全て事前に毒見が実施されている。また、信用できる使用人の手から渡されたモノしか口にしていなかった。
いつ
例え致死性ではなくても、お腹を下したり痺れを起こさせたり、殺さない代わりに苦しめる毒など沢山ある。
大奥様たちが持ち込んだ物についてはまだ調べていない。アティ達が口にする前に、まずは調べておく必要があった。
でも、それを子供たちの前で言うワケにはいかない。子供たちが『これは毒なのかも』と思って食べられなくなるかもしれないから。
子供の時の食に対する恐怖は、大人になっても消えないことがある。
しかし、大奥様はシラーッとした冷めた目で私を見下すだけ。そして、サッと手を動かした。
すると、その後ろに控えていた使用人が、アティやエリック、ベルナたちの目の前にブリキ缶を差し出す。
子供たちは、目をキラキラさせて思わずそこから大きなクッキーを取り出した。
「ダメです!!」
私は素早く動いて、子供たちの手からお菓子を取り上げる。
その瞬間、私の手がブリキ缶に当たって、お菓子が床にバッと散らかった。
「なっ……なんて事をっ!!」
わざとらしい悲痛な叫びをあげて、大奥様は床に
「ひどい……」
それと同時に、使用人が私の事をキッと鋭い目で睨みつけて来た。
「奥様、お言葉ですが。いくら大奥様を
そう厳しい声で進言してくる使用人。
確かに、ワザとではないにせよクッキーをダメにしてしまったのは申し訳ないけど……
「大奥様は、アティ様の為を思って、このお菓子を厳選し持ってきたというのに」
……ああ。そうやって、私を悪役に仕立てようってか。連携完璧やな。ムカつく。
この使用人も……なんか、好きくない。
クネリス夫妻は私たちの様子にアワアワしているだけ、アンドレウ夫人は口元を扇子で隠してこちらをジッと見ている。使用人たちも固唾を飲んで私たちの様子を見守っていた。
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