第253話 助けられた。

「レアンドロス様……?」

 ここに居る筈のない人が。なんで……?

 アティは? アティに何かあった?!


 慌てて身体を起こそうとすると、やんわりとレアンドロス様に肩を押し返される。

 私が目を開けたからか、レアンドロス様は少しだけホッとした顔をした。

「アレクシスから聞いて迎えに来た。アティ嬢は軽く手当てをして、すぐに屋敷に戻した。他のメンバーも屋敷に戻る手筈てはずになっている。心配はない。

 セレーネ殿は大丈夫か?」

 レアンドロス様がそう言いつつ、私の前髪をサラリとかきあげる。

「……顔が白いな。毒か」

「いえ。多分、迷走神経反射です……」

「めいそう……何?」

 あ、そうか。この世界この時代、まだこの症状に名前がついてないのか。

「痛みとストレスで、血の気が引いただけです。少し休めば大丈夫」

 そう言いつつ、私は再度目を閉じた。


 今、獅子伯の顔は見たくない。

 痛みとストレス──色々あって、ちょっと心が弱ってる。気持ちまで揺さぶられそう。

 アレにもコレにも気を配って考えて気を張って。久々一人になって少し気が抜けて、痛みと共に悪い感情が湧き起こって来てる。

 もう一度、細く息を吐いて気持ちを落ち着かせた。

 大丈夫、大丈夫、私はまだ、大丈夫。


 そんな私の頬が、ゆっくりと撫でられた。

「そんな顔をするな」

 目を閉じてるからレアンドロス様の顔は分からない。

 彼の指が、ゆっくりと私の頬を撫でた。

「大丈夫だ。セレーネ殿は一人ではない。我々メルクーリとアンドレウは、表立って派手に動く事は出来ないが、友人として必ず力になる」


 ──アカンて。今は優しい言葉をかけられたくない。揺らぐ。今は、弱ってる場合じゃないのに。

 弱音を吐くなら、彼にじゃない。

 でも……

 余裕のないツァニスにも吐けない。

 貴族から解放されたアレクにも、これ以上の面倒はかけられない。

 家人たちの命運は、雇い主である私達が握ってる。上に立つ者が、不安な顔をしてはならない。

 実家は自領の事で精一杯だ。


 もう少し、もう少しの辛抱だ。

 もう少しすれば、状況が打開できる。

 キツイのは今だけ。

 大丈夫、大丈夫……

 きっと、大丈夫──


「辛いなら助けを求めろ。

 セレーネ殿が言わなければ、我々は──俺は、手を出すことができない」

 レアンドロス様の言葉が聞こえる。

 私は歯を食いしばって顔を背け、彼の手から顔を離した。

「もう助けを求め、それに応えて頂いております。今回の事だってそう。アンドレウ公爵にもティナ様にも、レアンドロス様にも、カラマンリス侯爵家に多大な助けを頂いております」

 もう充分に助けてもらってる。

 特にレアンドロス様には、メルクーリ領内で問題が起こす事を呑んでもらってる。

 これ以上は──

「違う、そうではない。

 個人的にだ。セレーネ殿が、辛いと声を上げろ。自分が、辛いと言え。

 今だって痛いだろう、何故痛いと言わない。

 言わなければ助けてやれない。

 俺は──」

 レアンドロス様の言葉が、そこで途切れる。

 何か、言葉を飲んだよう。


 ──言えない。

 言いたくない。

 レアンドロス様に言えない事があるように、私にだって言えない事がある。

 でも──


「……痛い」

 ポロリと、言葉が漏れた。

 一度漏れてしまうと、途端に口から勝手に言葉が垂れ流れていく。

「矢が刺さった腕が死ぬほど痛い……肩関節がガタガタで痛くてダルい……貧血起こしてて立てない……」

 口にすると、それだけで痛みが引いていくかのような気がした。

「アティが、セルギオスに結婚してって。でも、出来ないから断っちゃった……アティに失恋させちゃった……これで恋に臆病になったらどうしようっ……」

 言葉と共に、目から途端に涙が溢れてくる。

「でも、貴族だからって利害関係だけでアティに結婚してほしくない……諦めて、私みたいになって欲しくない……

 勝手に結婚決められて、勝手に男児産む事期待されて、嫌がりゃ人でなし扱いされて、何もさせてもらえないのに穀潰し扱いされて、挙句侯爵夫人だからって使える権利もないのに矢面に立たされて命狙われて……なんなんだよ全くもうっ……勘弁してよ……」

 止まらない。全然言葉と涙が止まらない。

「双子だから呪われてるとか、お前が兄の健康を吸い取ったんだとか、男に生まれれば良かったんだとか……みんな好き勝手言う。

 生まれた世界も時代も立場も性別も、自分で選んだんじゃねぇやい……」

 溜まりに溜まった鬱憤うっぷんも噴き出してくる。

「でも、守りたいものも沢山ある……アティも、自分も、みんなも……

 だからやらなきゃ、やらなくちゃ。

 でも……キッツい……ホント、キツイ。

 ちょっと疲れた……本当に、疲れた……」

 最後にそう吐きだすと、なんだか少し身体から重さが消えた気がした。肩の荷が下りたような……。まだなのに。まだ下すには早いのに。

 でも。

 言葉と一緒に涙も止まった。

 なんだか、とてもスッキリした。


 はぁ、と大きくため息をついてから深呼吸。

 その瞬間、背けていた顔の方向をグイっと変えられる。

 驚いて目を開くと、すぐそばにレアンドロス様の顔があった。


 息が止まる。

 アカン。無理。近い。動けない。ど、ど、どうしたら──


「やればできるではないか」

 その瞬間、レアンドロス様の顔がクシャリと歪んで笑顔になる。彼の服の袖口でグイグイ涙を拭かれた。荒い。痛いっ。

 私の涙が止まっている事が分かったのか、彼は眩しそうに翡翠色の瞳を細める。私の頬に添えた彼の手が、ふと、私の唇を撫でた。


 時間が、止まったような感じがした。


 レアンドロス様は、そのまま手を放して立ち上がった。

「安心しろ、大丈夫だ。しばらく我々に任せて少し休め。これではセレーネ殿の身体も心も持たない。既にボロボロだ。

 セレーネ殿に言われた通り、今回別荘には連れてきていない。アンドレウ公爵家も同じだ。セレーネ殿だけが気を張る必要はない。もう少し周りを信頼して任せろ。

 それに、もしかしたら知らないかもしれないが、俺は『獅子伯』と呼ばれるような男なんだぞ?」

 ……レアンドロス様、もしかして、今、最後に冗談言った?

 思わず笑ってしまった。まさか、レアンドロス様が冗談を言うなんて。不意打ち反則!

 しかし、一度笑ってしまうと、今度は笑いが止まらなくなる。

 アカン、情緒不安定過ぎる! 我慢しなきゃ。でも、我慢しようとすればするほど、笑いが収まらない! 私はお腹を押さえた。あたたたたたっ!! 左腕が痛い!!!


 私が笑いながら左腕を抑えると、レアンドロス様が呆れたような顔をする。

「ほうら、また我慢をする」

 そうこぼし、彼はまた私の前に膝をつき、懐からチーフを取り出した。私が手で圧迫止血していた布のその上から、チーフで少しだけ強く縛った。

「あ、ありがとうご──」

 そうお礼を言おうとした瞬間だった。両脇に手を入れられて、そのままスクリと立ち上がらせられた。えっ、マジか。そんな軽々と!? 私、さほど軽くありませんけれど?!

「さ、戻るぞ」

 レアンドロス様が、私の右手をギュっと握って背を向けた。

「あ、いや、罠を回収しないと……」

 何かの役に立つかもしれないし。そう言うと、レアンドロス様がゲンナリした顔で振り返った。

「だから先ほども言っただろう、任せろと。既に周辺の調査を指示してある。罠も回収する。怪我をしているセレーネ殿がやる必要はない。

 ……今回は俺の落ち度でもある。湖までの道中と桟橋付近しか警戒していなかった。しかも、小舟の細工を看破して油断していた。この国最強と謳われるメルクーリ北西辺境部隊の人間ともあろうものたちが、セレーネ殿や子供たちの明るい雰囲気にのまれて平和ボケしたな」

 そう朗らかな言い方をしていたけれど、一瞬、レアンドロス様の目に剣呑けんのんとした色が浮かぶ。

 ゾクリと背筋に寒気が走った。

 ──もしかして、レアンドロス様、怒ってる?

 これは……ラエルティオス伯爵家、怒らせちゃマズイ人を怒らせたんじゃないのかなぁ。果たして、穏便に全てが終わるのかな……


 それはそれとして。

 私はレアンドロス様に掴まれた右手を引く。が、びくともしない。

「あの、手、大丈夫です。一人で歩けます」

 私が手を引きながらそう言うが、レアンドロス様の目がいぶかにスッと細められた。

 何っ!? なんでそんな顔すんのっ!?

「ここで手を離したら、勝手に調査に行ってしまうだろう。屋敷の付近まで連行する」

 しませんよっ!? 任せろって言われたんだから任せますけどっ?!

 ……いや、ハイ。正解ですね。今までの出来事が脳裏に浮かびましたよ。ハイ、私は何度、言いつけを破ったか知れませんね。スミマセン……


 私が諦めた事を悟ったのか、レアンドロス様は私の手を引いて屋敷の方へと歩き出した。

 私は彼の後ろを歩きつつ、発動したであろう罠があるハズの方向へと視線を向ける。これから、何度アティが危険にさらされるだろう。アティだけじゃない。傍にいるエリックやゼノ、イリアス、ニコラ、ベネディクトやベルナだって危ない。


 でも、子供たちはメルクーリの別荘ここに『遊びに』来たのだ。

 サッサと片付けてやる。子供たちに気取られないウチにな。

 私たちに手を出した事を、後悔させてやる。

 絶対に。


 そう心に誓い、私は別荘へと戻っていった。

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