第244話 事故と人に出会った。

 誰かに助け起こされる。

「大丈夫か」

 この声はレアンドロス様……

「アティをっ!!」

 歪む視線でなんとか前を向くと、柵の向こうを走る馬とその背中にいるアティの姿が見えた。

 馬が混乱して柵を飛び越えたのかっ……

 でもまだアティは馬にしがみついてる!

 早く馬を止めないと!!


 ベルナを地面に下ろしたルーカスが、馬を駆けさせその後を追う。

 私も立ち上がろうとしたが、左腕が動かない。鼓動と同じリズムでズキンズキンと痛みが全身を駆け抜ける。

「動くな。骨をやったかもしれない」

 レアンドロス様がそう言って右肩を押して座らせようとしてくるが、私はその胸を押し返す。

「アティが!!」

「分かっている」

 レアンドロス様は、駆け寄ってきたツァニスに私を預け、柵をヒラリと飛び越え横を並走してきた馬に飛び乗った。

 他の家人達も、馬でアティの方へと駆け寄っていく。

 私は、動けないようにツァニスに後ろから抱き締められた。

「セレーネ、落ち着け」

 私がウゴウゴツァニスの腕から脱出しようと動くからか、ツァニスが腕に力を込めて耳元で囁く。

「でもアティがっ……」

「分かっている。分かっている……」

 ツァニスが、私の右手をギュッと握ってきた。その手も震えてる。

 私とツァニスは、心配しながらもアティ達の事を見守る事しか出来なかった。


 アティを乗せた馬が、ルーカスの馬を避けて方向転換する。

 その進路を獅子伯の馬が遮り、彼が伸ばした手が馬の綱にかかった。

 しかしその瞬間、嫌がったアティの馬が竿立ちになる。

「アティ!!」

 思わず叫んだ。

 アティの身体が馬の背中から離れる。

 馬のたてがみにつかまっていたのか、アティが馬のたてがみにぶら下がった。

 落ちるッ……!!


 そう思った瞬間、誰よりも早い馬が駆け抜ける。

 それに乗った人が、落ちそうになったアティの身体を抱き留めて、棹立ちになった馬の後ろを走り抜けた。

 その瞬間が、まるでスローモーションのように見えた。


 アティを抱き留めた人を乗せた馬が、こちらへと方向転換し、段々と速度を落としていく。柵の向こうで立ち止まり、柵をヒラリと乗り越えて降りたその人は、馬の上からアティを下ろした。

「おがあしゃまァー!!!」

 恐怖と、そこから解放された安堵で顔をグチャグチャにしたアティが、私に向かって両手を広げて走り寄ってくる。

 私とツァニスも、腕を広げてアティを迎え入れた。

 アティの突撃を胸に食らう。肩の痛みがズシンと来たが、そんな痛みよりも何よりも。

「無事で良かったアティ。ごめんねアティ。怖かったね」

 私の胸に顔を埋めて泣きじゃくるアティの身体をギュと抱きしめ、その頭をゆっくりと撫でた。ツァニスが、私ごとアティを抱き締めてくる。

 良かった。本当に良かった。無事で本当に良かった。

「偉かったよアティ。ちゃんとお馬さんにしがみ付けてたね。凄いよアティ」

 怖かった筈なのに、私が落ちた瞬間からアティは言われなくても、おそらく馬にしがみついたんだ。

 だから柵を飛び越えた馬からも振り落とされなかった。

 偉いよアティ。ごめんね、私が落馬さえしなければ……


 私はアティが無事だった安堵に盛大な溜息をつく。

 落ち着いたところでゆっくりを顔を上げて、アティを助けてくれた人を仰ぎ見た。


 年の頃は二十歳かそこらか。褐色というより鮮烈な赤の、長い髪を風に揺らしている。

 スラリとした肢体をラフな服に包んだ──女性だった。

 彼女は、抱き合う私たちの事を、無言でジッと見下ろしていた。

「アティを助けてくださってありがとうございます」

 私がそう言って頭を下げるが、彼女は無言のまま。しかし、小さく首を横に振った。

「怪我が、ないようで、良かった」

 物凄い小さい声で、かつ、たどたどしい言葉だった。

「貴女のお陰です」

 そう笑顔で再度お礼を言うと、彼女は俯いてしまった。え。なんで??


「マティルダ、よくやった」

 そんな彼女に声をかけ、その肩をバシッと叩いたのは、馬を連れて戻って来たレアンドロス様だった。

 彼に肩を叩かれた彼女──マティルダと呼ばれた女性は、叩かれた肩をさすりながらレアンドロス様の方を見る。

「レオ、この人が、例の人?」

 女性がそう尋ねると、レアンドロス様が頷き──愛称で呼び捨て!? ええっ!? どういう関係!!?

「丁度よい機会だから先に名前だけ紹介しよう。

 彼女はマティルダ。セレーネ殿に依頼されていた、厩務員として推そうと思っていた者だ」

 レアンドロス様がそう彼女を紹介すると、彼女は突然ズシャリとその場に正座する。

 そして私の手をサッと取ると、ギュウっとその手を握りしめてきた。

「はじめまして。私はマティルダ。レオに聞いた。お仕事をもらえると。とても嬉しい。名前はセレーネで合ってる? ベッサリオンの出身なんだよね。ベッサリオンて、珍しい長毛種がいるんだよね。体高は高いけど足が短めで胴回りもしっかりしてて、寒さと農耕作業に適した姿をしてるって聞いた。一度見てみたい。でもそれだけじゃなくってそこから派生して作った新しい騎馬用の品種もいるってきいた。どうやって交配したの? どこか別の馬と掛け合わせ? それとも特異な子の種を増やしていったのかな。それって種だけ保存していたの? どうやって? それかもしくは特定の血族ではそういう特徴が出て──」

「コラコラ、マティルダ。名前だけの紹介だと言っただろう……怪我の手当が先だ」

 突然マシンガンのように喋りはじめた女の子の肩に手を置き、レアンドロス様は彼女の言葉を止めさせる。その時の彼は、ゲンナリという顔をしていた。


 私とツァニスは、彼女──マティルダという女性の突然の言葉の猛攻に、呆気にとられる事しかできなかった。


 ***


「マティルダは、まぁ、もう分かっていると思うが、馬の事となると周りが見えなくなるタイプでな。少し癖は強いかもしれないが、仕事は出来るし人柄は保証する」

 談話室のソファに座ったレアンドロス様が、隣に立つ女性──マティルダを改めて紹介してくれた。

 レアンドロス様の言葉を受けて、さっきのマシンガントークが嘘のように、無言で彼女は小さく頭を下げる。

 レアンドロス様の向かい側のソファに座った私とツァニスも、彼女のそれに合わせて小さく頷いた。


 あの後。

 乗馬はお開きとなり、屋敷へと戻ってきた。

 アティは、幸い怪我はなかったみたい。良かった。

 ただ、本当に怖かったみたいで(そりゃそうだ)、私が怪我で抱っこができない代わりに抱いてくれたサミュエルの首に、ずっとしがみついて離れなかった。

 私は……まあ、擦り傷とか色々できたけど、落馬してこの程度で済んだんだから儲けものでしょ。

 肩は軽く脱臼はしていたものの、靭帯や神経が切れたりはしていなかったみたい。打撲はあるものの、骨も折れてないし。良かった。でもまぁ、脱臼の整復は痛かったけどね……今も痛いは痛い。脱臼が癖にならないように、絶対に肩を動かすなとレアンドロス様とツァニスから厳命が下された。

 今は左腕を固定されている。不便でしゃーない。

 大浴場でアティと一緒にお風呂に入って泥を落とした時、動いてはダメですって言われたから身体をクロエに洗ってもらったんだけど……クロエ、なんか、ずっと、笑顔だった。怖かった。

 それよりも。

 アティ、これで馬に恐怖心を抱いてしまっていないかな……でも、それだけの出来事だったし、夢とかでも今日の事を思い出してしまいそう。

 夜は慎重に様子見しないとね。


 今、アティは娯楽室にエリック達といる。たぶんまだサミュエルにくっついてるだろうなぁ。アティを心配したエリックが、コレで遊ぼう、アレで遊ぼうとアティを励まそうと躍起になっていた。

 エリックも、ちゃんと人を思いやれる子になってるんだなぁ。その姿を見て、ちょっと感動しちゃった。

 そんなエリックに、『アティは怖い思いをしたんだから、そっとしておきなさい。傍にいてあげるだけでいいのよ』とアンドレウ夫人が声をかけていた。

 エリックは何か言いたげだったけれど、ゼノとイリアスにもなだめられ、励ますのはやめる。

 そして、アティの傍でゼノやイリアスたちと遊び始めた。

 チラチラと、アティの方を気にしながら。

 子供たちは子供たち同士で労わり合っている。それが見て取れて嬉しかった。


 そして談話室にて。

 レアンドロス様にマティルダを紹介されている、私とツァニス。

 レアンドロス様に、厩務員さんの後継者となる子の紹介をお願いしていたけれど、まさかこの子とは……

 つか。レアンドロス様とどういう関係なんだろう。彼女は、レアンドロス様を『レオ』って愛称を呼び捨てにしてた。

 それって──いかんいかん。

 そんな事はどうだっていいんだよ。


 レアンドロス様がと彼女がどんな関係だっていい。関係ない。

 私には、関係ない。


 彼女──マティルダを見るレアンドロス様の目が、とても優しげであったとしても、私には、関係ないんだ。

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