第242話 夫が不満をこぼしてきた。

「そんな肩書きの話ではない。セレーネとの距離の話だ。

 私との距離より、あのアレクシスという男との距離の方が近い」

 うらブシ満載でそう吐き出すツァニス。

 あー……えーと、そうだね。そりゃ事実だわ。


 でもさ……

「それは、仲が良かった間の時間の長さの問題ですよ。まだ私とツァニス様は、結婚して一年ちょっとしか経ってませんし」

 そう。アレクとは物心つく前からの付き合いだ。かたやツァニスとは、まだ一年。

『時間は関係ないよねー』は、この場合適用されねぇべ。

「それでも!!」

 ツァニスが、突然手を強く握りこんできた。潰れる潰れる手が痛い!!

「私にも、あの気安さが欲しい! あの関係が欲しい!!」

 はァ?! どこ羨ましがってんの?!

 ってか声がデカいよ! アティが起きる!!

 私はツァニスの握った手から自分の手を引き抜くと、彼の口をガッと塞ぐ。

 慌てて後ろを振り返るが、アティは口をモニュモニュさせただけだった。

 ほー……起こさずに済んだ。

 良かった。


 私は、口を塞いだツァニスの顔に自分の顔を寄せる。

「声が大きいです。アティが起きてしまいます」

 私がそう睨みつけると、ツァニスはハッとした顔をした。恐る恐るアティの方を覗き見て、ホッとした顔をしていた。

 ツァニスの口を塞いだまま、私は一つため息を漏らす。

「他の人との関係を羨ましがっても意味ありません。そもそもアレクとツァニス様は違う人間です。

 私とツァニス様の間には、アレクとの間とは違うものがあるんですよ」

 そう説明すると、途端ツァニスの目がキラリと輝いた。単純さんめ。

「アレクとは夫婦だった事はありません。

 でも、ツァニス様と私は夫婦です。

 それじゃ、不満ですか?」

 私のその言葉に、ツァニスの目がさらに輝いて──ドンヨリと曇った。何故ここで曇る?!


 ツァニスは私の手を自分の口から外すと、死んだ魚みたいな目をして私を見上げる。

「……夫婦らしい事は、まだ、していない……」

 正解! そうだね! それを忘れてたウッカリうっかり!!

「しかも……離婚予定だ……」

 たーしーかーにィー。

 ぐぅ、今ここでその話題出すかぁ……?

 私は思わず苦い顔をしてしまう。

「……それは、置いといて……」

「置きたくない」

 置いとけよ今はァ! それどころじゃねぇ部分があんだろがィ!

「お……置きましょう。ひとまず、取り敢えず、邪魔なので」

「邪魔」

 なんで繰り返す。

「私との『夫婦の営み』は、邪魔という事なのか……」

 ツァニスは、魔法の石(石鹸)を無くしたと報告してきた時のエリックのような顔をした。

 何て顔してんの! 中年に片足突っ込んだいい大人が!!


 私は盛大な溜息を一つついたのち、ツァニスの両頬をガッチリと掴んだ。

 無理矢理視線を合わせさせる。

「私は今、アティとツァニス様が無事に生き残る事を最優先に考えています。

 伯爵家との対決に負けた場合、最悪の時は貴方がた二人は、反逆者として処刑される可能性もあるからです。

 貴方達二人の命、そしてカラマンリス邸の家人たちの命、それら以外、私はぶっちゃけどうでもいい」

 アンドレウ公爵とメルクーリ伯爵家に協力を依頼した一番の理由はコレ。

 最悪、ラエルティオス伯爵家に排斥された時、クソみたいな罪を被せられて処刑される恐れがある。

 それを防ぐ為に、二つの家に後見人として身柄保障してもらうつもりだ。


 その最悪の状態を危惧した上で、それが問題ない場合には──と、状況を整理して準備を積み重ねてってる。


 その労力は、ツァニスとアティを愛してないとかけられねっつーの。それじゃ不満か?!

 夫婦な営みがァーとか言ってる場合じゃないんだよ。

「最悪、ツァニス様とアティを連れて一生逃げ続ける覚悟をしています。

 それでは、足りないですか?」


 私個人として言わせて貰えれば、侯爵家とか爵位とか、云々かんぬんは、本当にぶっちゃけどーでもいい。

 アンドレウ公爵家とメルクーリ伯爵家に取り次ぎ、今回のこの会合の機会を作ったのだって、対決したいというツァニスの為だ。

 もしそれがないなら。

 私はツァニスに、サッサとラエルティオス伯爵家に爵位を譲る事を勧める。

 降格されて表舞台から去るか、もういっそ平民になって、農場やって生きてく算段を立てた方がよっぽど楽だ。


 私が言うのもなんだけど、愚直で純粋なツァニスは、貴族に向いてない。

 あんな狐と狸の化かし合いなどは、ラエルティオス伯爵家が好き勝手やって、他の中央貴族達に潰されればいい。

 どうせそのうち、それほど遠くはない未来には、王族以外は特権を放棄させられる。

 未来永劫続く栄光などありはしない。


 でも、ツァニスにも矜持プライドがある。それは優先させてあげたい。


「……足りにゃくにゃい」

 私に両頬潰されたツァニスが、モゴモゴと呟く。

 ……頬染めて乙女みたいな顔してんじゃねぇよ。なんかイラッとしたわ!

 人の苦労も知らないで……全くもう。

「なら、今後アレクとの関係が羨ましいとか言わないで下さいね」

 そう最後に締めて、彼の頬から手を離した時だった。

 その手をガッと掴まれる。

「羨ましがるのは止めるが、親しさはもっと欲しい。彼との間にはないモノを」

 ツァニスが、何かを期待したようなキラキラした目で私の目を覗き込んできた。

 このタイミングでそんな事言うかっ……


 ベッドサイドに置いてあるランタンの軸が、ジジッと音を立てて燃えた音がする。

 シンと沈黙が降りた部屋に、アティのクークーという寝息だけが響く。

 ゆらりと揺らめいたランタンの灯が、ツァニスの菫色ヴァイオレットの瞳に映っていた。

 なんか……変な緊張が走る。初めてでもあるまいに。


 私はツァニスの手から自分の手をゆっくり剥がすと、彼の頬に手を添える。

 そして、その唇にそっと自分のを寄せた。

 ささやかに触れてすぐ離れると

「もっと」

 ツァニスがそうそっと呟いて私の腰に手を回してきた。


 その瞬間、心臓がヤバイほどドクリと強く脈動した。

 顔がカッと赤くなった事を自分で感じる。

 反則! 反則だオイ! こんなタイミングでそんな風に……ええと、その……反則だ!!

 思わず顔をひくと、ツァニスの手に力がこもったのを感じた。

「も……もっと?」

「もっと」

 ツァニスの目が真剣だ。薄ら濡れて熱を帯びてるのが分かる。

 心臓がうるさいぐらい騒いでいた。


 意を決して、彼の薄く開く唇に自分のを寄せ──


 コン、コンコン


「ふぁイ!!」

 ノックの音に驚いて反射的に返事をした瞬間、ツァニスの口に自分の顎がクリーンヒット!

 私はツァニスの歯が顎に当たったのか、その痛みに仰反のけぞる。ツァニスは口を抑えて私の横のベッドに突っ伏した。


「こんなっ……時にッ……!」

 くぐもったツァニスの文句。

 私も顎割れたかな?! 結構痛かった! 痛かった!!

 しっかし……あのノックは、アレクの合図!

 凄いタイミングでノックされたって事は──まさか?!

 部屋の扉の方を見ると、扉の下からサッとメモが差し入れられる。

 私は顎を抑えて立ち上がり、差し入れられたメモを拾って開いた。

 そこには──


 やっぱりアレク! 立ち聞きしてたな?! なァーにが『お邪魔虫が夫婦関係のちょっとしたスパイス♡』だあの野郎!!

 思わずメモを握りつぶしたくなったけれど、そこに書かれた本題の内容の為に、なんとかそれを我慢する。


「誰からだ?」

 ベッド脇から起き上がったツァニスが問いかけてくる。

「アレクです。今日の報告でした」

 私はメモをツァニスに渡した。

 それに視線を落としたツァニスが、苦虫を千匹ぐらい噛み潰したかのような顔をする。

「……彼は、食えないな」

「そうですね」

 ツァニスの言葉に、私も苦笑して同意した。


「まぁ、だから心強いんですけど」

 私は、アレクが先ほどまで居たであろう部屋の扉の方へ視線を向けて、小さく一つ溜息をついた。

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