第233話 夫と今後の事について話した。

「セレーネが、子を持つ事を躊躇する意味を理解した。

 今この状態では、私もセレーネと子供を守れる自信がない……」

 私の身体を強く抱きしめ、私の肩に顔を埋めながら、ツァニスがそう漏らした。


「ラエルティオス伯爵との争いは、おそらく泥仕合になる。

 そうなれば、奴らは真っ先にセレーネとアティを狙うだろう。私の弱点である事を、奴らは理解しているからだ。

 カザウェテス子爵が捕まった今、表立って対立を表明する可能性もある。

 そんな動乱の中に、セレーネとアティを巻き込みたくはない」

 確かに、ツァニスの言う通りだ。

 ここまで時間をかけてやってきた事を、ラエルティオス伯爵は諦めたりはしないだろう。かけたコストの分だけ、人は諦めが悪くなる。

「ならばツァニス様──」

 私がそう言い募ろうとした瞬間、私の身体を抱くツァニスの腕に力がこもった。


「……離婚の事を、前向きに検討する」

 ボソリと、小さな声で、伝えられた声。


 ──ああ、そうなってしまうのか。

 やっぱり、人はそう簡単には変わらない。


 私は『一緒に乗り越えてくれ』という人が好きだ。

 しかし、彼は大切なものは脅威から遠ざけたいタイプなのだ。

 気持ちは分かる。私も、アティが殴られる可能性があるなら、その場から遠ざけたい。

 でもそれ以上に、殴る奴をぶん殴り返して、相手を遠ざけようとするタイプでもある。なんならアティと一緒に脛を蹴り飛ばすよ。


 でも、彼は違うのだ。

 怖いのだろう。

 これ以上、大切な人を失いたくないのだ。

 その気持ちは痛いほど分かる。

 それに、それもとても有効な手だ。

 後ろを守りながらでは、戦えない事もある。

 私は、ツァニスの重荷にはなりたくはない。


「しかし、勘違いしないで欲しい。

 私はセレーネを愛している。本当であれば絶対に手放したくはない。

 だから、セレーネが提案した離婚とは意味合いが違う」

 グリグリと、ツァニスが私の肩に頭を擦り付けてきた。

 私は彼の背中に手を回して、その背中をポンポンと叩いた。

「理解しております」

 私は、時間をかけたいがかけても彼を愛せないかもしれないし、彼が思い直すかもしれないからの、選択肢としての離婚。

 彼は、私を守るための離婚。

「だから、もし離婚したとしても、終われば必ず迎えに行く。

 いや、違う。迎えに行く為に、必ずこの争いを終わらせる」

 ツァニスの、力強い決意の声。

 それと同時に

「もし離婚となれば、今回の事件のことを利用し、セレーネが身体を壊したからだと伝える。

 しかし、本当に、勘違いして欲しくない。

 私は、セレーネが子供を産んでも産まなくても、健康でもそうでなくとも、セレーネがいいんだ」

 そう呟き、一層腕に力を込めて来た。


 ……また思わぬところで、私のツボを不用意に突いてくるねこの人は。

 離婚の意思が揺らぐような事を、簡単にぶっ放さないで欲しい。思わず顔がニヤけてしまったじゃないか。見られてなくて良かった……。


 彼の頼りない所や咄嗟の時の動きの悪さはあまり好きじゃない。

 でも、こうやって真っすぐに真摯に気持ちを伝えてきてくれる所は好きだ。

 ただ。

 おそらく物事に対応する時にやり方が私たちは決定的に違う。絶対にそこでぶつかる。何度も。意見にすり合わせを行う時間がない場合は、どちらかが妥協して気持ちを飲み込む事になる。

 それが蓄積していき、将来どこかしらにひずみを生みそうで、怖い。

 そのひずみを、受け入れられる自信がまだ、ない。

 受け入れたつもりで、影でブツクサ夫の文句を垂れ流すような女に、私はなりたくない。


「……前に、離婚したくない理由を教えてくれと言っていただろう」

 ツァニスが少しだけ気が抜けた声でポソリ。

「離婚すれば、誰かに取られてしまう事が容易に想像できるからだ」

 そんな彼の弱音に、私は少しだけ笑った。

「何をおっしゃっている事やら。取られるって……私にも選ぶ権利がありますからね?」

 それに、誰かって誰やねん。私にまつわる噂は酷いものばっかりやろがい。そんなに世の中女性は少なくないぞ。……自分で言ってて悲しいけれど。

「例えば……」

 ツァニスが手に力を込める。

「獅子伯など」

 その言葉に、思わず身体が硬直した。

 何故今ここでそのワードを出す。やめてくれ。彼の事は考えないようにすると決めたんだぞ。

「あの方は誰とも結婚しませんよ」

 それが揺るがない事実だ。それがある限り、私と彼の間には何も生まれない。

 私はツァニスを安心させるようにその背中をポンポンと叩いた。


 その時、ツァニスがガバリと私の身体を引きはがした。

 そして私の顔をジロリと睨みつける。

「セレーネは、あの時の彼の顔を見ていないからそう言えるのだ」

 不貞腐れたようなツァニスの声。

 あの時の彼の顔? いつのこと??

「アンドレウ公爵の別荘で。セレーネが立ち聞きしていたから、彼は言葉にはしなかったが……あの時の彼の顔は、セレーネの事を憎からず思っている」

 ドクリと、心臓が鼓動した。

 い……や、待て待て。それはツァニスの主観だ。主観でしかない。ツァニスはそんなに他人の気持ちの機微きびさとい方じゃない。

 きっと、ツァニスが獅子伯に嫉妬していたから、そう見えただけだ。それだけだって。他人から聞いた本人の気持ちは、本物じゃない。信じない。信じないぞ。

「だから最初、セレーネから離婚という言葉を聞いた時、獅子伯の元へ行こうとしているのだと思った」

 んなワケあるかい。

 コッチがダメだからアッチ、なんて即座に乗り換えるような人間じゃねぇぞ私は。

「そうじゃない事は、セレーネが伝えてくれたが……」

 私の顔を見ていたツァニスが、サッと視線を外した。

「……人は、心変わりすることも、あるのだろう?」

 ぐあ! あの時ツァニスの事を言ったつもりだったのに、とんだブーメランが返って来て思いっきりブッ刺さった!!

「そ……それは……」

 ああ人に言った手前否定しにくい。私だって心変わりの一つや二つする。する。する。

「しかし。じゃあ必ず再婚しよう、と約束させるのもまた違う気がするのだ。

 セレーネはそういった事に縛られるのを、酷く嫌うだろう」

 良くご存じで。

「どうしたらいい? どうしたらいいと思う?」

 そんな事本人に聞きます?


 私は口をひん曲げて暫く考える。

 そして、思った事を素直に口にした。

「あまり不確定な先の事を心配するのは徒労かと。

 それこそ、人の気持ちは時と状況によって七色に変わります。それを予想する事は困難です。

 それに、まだ離婚も決まっていません。

 まずはラエルティオス伯爵と対決する為に、味方がどれほどいてどうやって情報収集を行い、いつどうやってカタをつけるのか、そちらを考えるべきなのだと思います。

 他の事に気を取られても大丈夫な程、ラエルティオス伯爵は容易な敵なのですか?」

 そう問うと、ツァニスはフルフルと首を横に振った。

「私は、例え貴方と離婚したとしても、戦っている貴方を見捨てるような人間ではありませんよ。表に立たなくても、裏からでも戦える事はいくらでもありましょう。

 アティやカラマンリス邸の家人たちを守る事も出来ます。例え妻じゃなくっても。

 私も決して弱くはありませんよ。なんなら私を護衛として雇いますか?」

 私がそう笑いかけると、ツァニスは天啓を受けたような顔をした。

 え、何。

「そうか! その手があったか!」

 いや、今のは例え話だよ?

「離婚しつつも、雇用関係を結べばいいのか」

 あ、まぁ、全くない話ではないけれどさ。

「安心した! そうだな。そうすればセレーネが離れる必要もないのだな!」

 そうだけど、待って、いや、本当にただの例えばってだけだったんだけど!?

「我々にはセルギオスの加護がついているしな!」

 突然セルギオス!? なんでここで再び登場!?

「ベッサリオンではセルギオスの加護が強かったな! 我々があの崩落地の傍に寄らないよう、どこからともなく警告が降って来たのだ!」

 いや、それ弟妹たちな! そうか。ツァニスの場所からは弟妹たちの姿は見えてなかったのか。男装もしてたしな。

「セルギオスの幻影も見たぞ! 遠かったが!!」

 それたぶん弟妹たちの誰か!! キリシアは確かにソックリだったし、バジリアは私に似てるから男装したら男装した私に似て──

 って! それ違う! セルギオスの加護違う!! なんでそこだけ突然ファンタジー!?

 言えないけれど!!!


「行ける気がしてきたぞ。カラマンリス邸に戻ったら、改めて先の事を決めよう!」

 そうツァニスは私の顔を覗き込んできて、目をキラキラとさせていた。

 ま……まあ、ツァニスが今後の事に希望を見いだせたんなら、良かったよ、う、うん。


「そうですね。まずは私たちの家に戻って、それから色々考えましょうか」

 私は彼の顔を見返して、微笑みながらそう同意した。


 色々な事が変わってきた。

 これからも、安心できる事はそれほど多くはないのかもしれない。

 でも、独りじゃない。

 大丈夫、きっと上手くいく。

 私はそう思い、希望を見いだせた夫の頬を優しく撫でた。



 第七章 了

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る