第216話 殴られた。

 ……ああ、なるほど。子供の選択と養子の話を聞いたのか。それで出会い頭に殴りつけた……しかも拳で。くっそ……避けられなかった……


「違います!! 先ほども申した通り養子を決めたのは私です! セレーネではない!!」

「セレーネが子供を産む事を拒否したからだろうッ!! こやつは責務を放棄したんだ!!」

 ツァニスがそう言い返したが、祖父の怒鳴り声に言葉を詰まらせた。

「やめてよお祖父じい様!!」

 そう叫んで私たちと祖父の間に滑り込んできたのは、末弟ヴァシィだった。

「そうだよやめて! なんでセリィ姉さまを殴るの!? なんでいっつもそうなのっ!?」

 一緒になって叫ぶのは妹⑦カーラ。

「うるさい!! 子供は黙っておれ!!!」

 そんな剣幕に肩を震わせる弟妹。

 私はツァニスに手を借りつつ、なんとかその場に立ち上がった。

 私は弟妹達の肩に手を置き、後ろへと下がらせる。

 チッ……口の中が切れた。血の味が口の中へと広がる。私は袖で口元を拭った。

「お祖父じい様、出会い頭に力いっぱい殴らないでいただけます? 当たり所が悪ければ死んでいますよ」

 咄嗟とっさに手がつけなかったら床に頭ぶつけてたわ。


 そんな私に祖父がもう一度殴りかかろうとする。しかしそれは執事に羽交い絞めにされて止められた。

 ジタバタとして執事の腕を剥がそうとした祖父が、拳を握りしめた。

「生き恥を晒すぐらいなら死んだほうがマシだろう!! いや! お前はあの時アイツの言う通り生まれてすぐ殺しておくべきだった!!!」


 ……え?


 いま、


 なんて?


「合理的ではないと却下したのが間違いだった! アイツの言う通り双子はロクな事にならない! 事実となった! お前は好き放題したあげくベッサリオンに泥を塗りおって! 役立たずどころか疫病神だ!!」


 一瞬にして周りの音が聞こえなくなる。

 唯一響くのは祖父の怒鳴り声。


「セルギオスが死んでお前が生き残った! よりにもよってお前が!! お前が生まれてこなければこうはならなかった!!!」


 どういう、こと?

 なに?

 お祖父じい様は、何を言ってるの?


 私が


 生まれてすぐ、殺される筈だった


 そう、言った?


 ちょっと、まって。

 ちゃんと考えられない。


 え。


 まって。


「お前が死ぬべきだった!!!」


 セルギオスが死んだのも、私のせいなの?


 私は、生まれてはいけなかったって、


 祖父は、そう言った?


 まって


 気持ち悪い


 物凄く気持ち悪い


 もう何も聞こえなくなった。

 周りで動いている影が誰だか視認できない。

 目の前が、暗い。


 ここに居たくない。

 ここに居たくない。

 ここに居たくない。


 私は、私を止めようとした誰かの腕を振り切り、走ってその場を後にした。


 ***


 途中の事はよく覚えていない。

 気づいたら、私は山の中にいた。


 ああ、ここは。

 秘密基地。

 セルギオスとアレクと、小さい頃に良く来た場所。


 大きな木の上にあった筈の小屋は朽ちて木片だけが木の上にへばりついている。

 あまり手入れを行っていなかったからか、藪も木々も生い茂っていた。

 少しだけ開けた場所から、領地が見下ろせた。

 私は着の身着のまま走ってきたようで、足元も服の裾も泥と雪でドロドロになっていた。


 でも、何故か、不思議と寒さは感じなかった。

 というか。

 何故か、何も感じなかった。

 ショックだった筈なのに。

 気持ち悪くなるぐらいショックだったのに。

 何故だろうか……


 あの時祖父に罵倒された言葉を思い返す。


『お前はあの時アイツの言う通り生まれてすぐ殺しておくべきだった』


 思い出すとまた気持ちが悪くなる。

 私は思わず口を覆った。吐きそう。ダメだ。


 私は一度、木の影に盛大に吐いた。

 一度全部胃の中の物を空にして、少しだけ気持ち悪さが落ち着く。

 口元をその辺の溶けかけた雪で拭った。

 ……痛い。そういえば、口、殴られて切れたんだった。


 祖父の言葉を断片的に思い返す。

 あの時、祖父が『アイツ』と言っていたのは、たぶんお祖母ばあ様だ。

 お祖母ばあ様は妹④デルフィナが生まれる前に病で亡くなってる。

 お祖母ばあ様は、今思い返すととても信心深い人だった。

 確か生まれも育ちもベッサリオンだった筈。アレクの大叔母だ。

 左利きのセルギオスを『みっともない』と叱責して右利きに矯正していたのも祖母だ。

 その人が言っていたという事なら、なんとなく理解できた。


 双子は不吉の証。


 そういえば、前世でもそんな言葉を聞いた事があったな。

 歴史書を読んでいたセルギオスに教えてもらった。昔は生まれた双子の片方を殺すか里子に出すんだよね。

 ああ、思い出した。日本では江戸時代ぐらいかな、男女の双子は昔心中した男女の生まれ変わりとか言われて、忌避されていた事もあったんだっけ? だから一緒に生まれた女の子の方を殺しちゃうんだよね。


 そうか……祖母は、それを実行しようとしたんだ。


 それを止めたのが祖父か。

 しかし、愛情云々からじゃないんだね。だって『合理的じゃないと却下した』と言っていた。単純に、使い道があるから残したって事か。……そうか、そうだったんだ。


 てっきり、愛情があると思ってた。

 殴るのは、私がそれまでの因習や不合理な習慣に噛みつくからで、『祖父の思う女の幸せ』に私が乗ろうとしないからだと思っていた。

 違った。

 飼い犬に手を噛まれるからだった。

 道具が不具合を起こすからだった。


 あげく、セルギオスが死んだのは私のせいだと言っていた。


 おそらく、母が双子を妊娠したのではなくセルギオス一人だけだったら、セルギオスが健康に生まれて来る事ができて、何の問題もなく過ごせたからだと思っているからなんだね。

 そうか。

 祖父にとって、セルギオスを殺したのは、私なんだ。


 セルギオスが健康で生まれてきていたら……妹たちと、そして末弟ヴァシィは生まれて来なかった。

 セルギオスが嫡男としての責務を全うできる身体を持っていたら──


 私や、弟妹達は、不要だったんだ。


 祖父にとって、私たちは邪魔で手のかかるオマケみたいなものだったんだな。

 養子に出さないでいてくれたのも愛情からじゃないのか。利用価値があるものをそこらへんの人たちにあげたくなかっただけなんだ。


 そして、その目論見は見事に成功した。

 私は侯爵と再婚した。

 これで上手く物事が運ぶと思ったら、私が子供を産みたがらない事を知った。

 そりゃ怒るわな。せっかく役に立ったと思ってたのに、そうじゃなかったんだから。


 そうか、そうだったんだ……


 私だって子供欲しいよ。

 でも、自分とその子がちゃんと生きられるかどうか分からない場所では産めないよ。

 みすみす自分の子供が人形のようにさせられるのを見てられないよ。

 セルギオスのように何か生きるのに大変な理由があった時、無茶を押し付けられて短命で終わる未来なんか見たくないよ。


 ああ、でも


 それも過ぎた願いだったんだ。


 私は、生まれるべきじゃなかったんだから。


 死ぬべきだったと言われた。


 私は、誰にも、望まれていなかった。

 間違いで生まれて、ただ、道具として生きる事を許されていただけだった。


 流石に無理だ。

 今までなんとか自分に自分で価値を見出し、自分を鼓舞してきたけれど。

 自分だけでは、復活できそうもない。


 もう良い大人だから、他人から存在意義を否定されても跳ねのけられる。

 でも、まさか肉親から存在否定されるとは思わなかった。


 セルギオス。

 セルギオスもそう思ってた?

 私がいなければ、健康的に生まれる事ができたのにって、思ってた?

 私がいなければ、上手くいったのにって、思ってた?

 ねぇセルギオス。


 なんか、酷く、疲れたな。


「……きえたい……」


 風に溶けてしまいたい。

 ここから撒いた、セルギオスの身体のように。

 何のシガラミにも、縛られないように。


 私は立ち上がり、セルギオスの遺灰を撒いたすぐそばの崖の上へと赴く。

 セルギオスは風に溶けた。病み衰えた身体から解放されて。

 セルギオスに会いたい。

 ああでも、セルギオスは私に会いたくないかもしれない。


 もうどこにも居場所はないのかもしれない。

 そうなのかもしれない。


「消えてしまえればいいのに……」

 クラゲは死ぬと水に溶けると何かで読んだ。

 そうなればいいのに。でもこの身体ではならない。

 ならば皆が言うように、私は思考しないただの肉の塊であれば楽だったのに。

 どうしてそうじゃないんだろうか。


 私は何も出来ずに、その場に膝を抱えてうずくまった。


「それはダメだよ」

 そんな私の背中に、小さな声がかけられた。

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