第206話 解放しにきた。

「はい」

 椅子から立ち上がって扉の向うへそう返事するものの。

 部屋には外から鍵がかけられているので私では開く事ができない。

 まったく。なんでこんな魔改造してんだよこの部屋! 知ってる!! 私が脱走するからだよね!!!


 返事をすると、ガチャガチャと鍵が開けられる音がした。

 扉が開くとそこには、私を部屋に押し込んだ執事と、ツァニス、そしてその後ろにサミュエルが立っているのが見えた。

 あー……胃が痛ァい。

「ここで待っていてくれ」

 ツァニスは執事とサミュエルにそう声をかけると、部屋の中へと入ってくる。

 扉を閉めて私の前へとゆっくり歩いてきたツァニス。

「セレーネ、久し振りだな」

 彼は、少しほほ笑みながらそう言ってきた。


「お久しぶりです。お恥ずかしいところを見せてしまいました。すみま──」

 そこまで言った瞬間、ガバリとツァニスに抱き締められた。

 強い! 痛い!! 背骨折れるゥー!!!

 私の肩に顔を埋めたツァニスは、暫くずっと無言だった。腕も緩まる気配はないし。私はその背中を優しくさすった。

「心配かけてすみませんでした」

 冬休みに入る前までは、こんな事になるとは自分でも思っていなかったよ。

 本当にごめんね。色々不安な思いや嫌な思いをさせてしまって。

「……大丈夫なのか……」

 私の肩に顔を埋めたまま、モゴモゴとそう小さく呟くツァニス。

「ハイ。身体はすこぶる元気です」

 左腕に傷が増えた事は内緒だけれどね。もう傷も塞がったし。

「殴られたのは」

「慣れていますから」

「タックルされていたぞ」

「慣れていますから」

「……」

 そうね。ちょっとそれもどうなんだって話だよね。


「カラマンリス領へ来ないと聞いた時……」

 ツァニスが喋る度に息が肩や首にかかる。物凄くくすぐったい。

「何か、あったのかと思った……」

 だよね。突然そんな事言い出したら、心配するよね。

「セレーネがアティから離れるなど、よっぽどの事だ」

 あー。そっか。確かに。私から意図してアティと離れたのは、これが初めてだったね。

 うん。そうなんだ。アティと離れる程の、事だったんだよ。

「そうですね。少し……時間が欲しかったんです」

 そう、ポツリと呟くと、私の身体をゆっくりと離したツァニスが、揺れる瞳で私の顔を見下ろしてきた。


 私は、一度ツァニスから離れて、丁寧に頭を下げる。

「そのせいで、ツァニス様に嫌な思いをさせてしまって申し訳ありませんでした。

 色々なイベントが企画されていたんじゃないですか? それを無駄ムダにしてしまって、本当にすみませんでした」

 暫く頭を下げたままにしていたが、ツァニスが私の顎に指をかけてきて、顔をあげさせられた。

 ツァニスは苦笑していた。

「そんなのは些末さまつな事だ。どうせセレーネが来ても来なくても、新年の祭りを行う事には変わりない。新年の祭りに便乗しようとしただけの事。紹介など、いつでもできる。それに、皆には体調を崩したと伝えてあるから問題ない」

「ご配慮、ありがとうございました」

「違う。セレーネへの配慮ではない。私の体面を保っただけだ」

 そう、ツァニスは自嘲気味に笑った。


「先ほど、『身体は』と言っていたな」

 ふと、ツァニスの目が真剣味を帯びる。

「それ以外はどうなのだ?」

 問われて、私は視線をツァニスから外した。


 アレクに言われる前から。

 ずっと考えたり、考えなかったりする事があった。いや、考えたくない、と思っていたという事か。

 ただ、アレクに正面から指摘され、自分で無視していた問題を、直視せざるを得なかった。

 あの日以来、ずっと、延々と悩み続けている。


「あまり、元気では、ありませんね」

 そう、力なく返答した。


 もういっそ、アティとニコラを連れて逃げてしまおうか。

 そう、思った事もあった。

 ギリ、理性が勝って思いとどまれたけれど。あぶない。

 もし、今回カラマンリス領へと行っていたら、私は紹介される直前に全てを投げ出して遁走とんそうしていただろうな。

 それこそ、最悪の形でツァニスの顔に泥を塗るところだった。

 追い詰められた私なら、きっと、やっていた。


 自分の中で、結論も納得も覚悟もできていない状態で、侯爵夫人として紹介される事は、耐えられなかった。


 だって、侯爵夫人って、そんな気軽な役職でしたっけ?

 ツァニスの横に立ち、ただニコニコと手を振っていれば良い立ち位置でしたっけ?

 名実ともにそうなった後は、私は都度都度ツァニスの名代として行動する事となる。

 決定権はない癖に、カラマンリス領の顔としての完璧な振る舞いを求められ、時には責められたり咄嗟の判断を押し付けられたり、最悪物事の矢面に立たされる事となる。

 味方がない中で。


 そこまでする、覚悟が、まだ、ない。

 覚悟した後であれば、いくらでもやってやんよ。カラマンリス領地に骨を埋める覚悟でありとあらゆる事をやってやんよ。口出しするなと言われる事にまでクチバシ突っ込んでやんよ。

 でも、まだ、そこまでする、覚悟がない。


 それに、資格もない。


 つい先日まで獅子伯と話す事に浮かれていた自分に、ツァニスの妻として、カラマンリス侯爵の名代として、名乗る資格って、本当にあるの?


 私なら、ふざけんなって、思うよ。


「ツァニス様やアティ、マギーやサミュエルから離れ、一人で、客観的に物事を見たかったです。

 ただ、思っていた以上に実家は針のムシロになっていたので、あまり、出来ませんでしたけれどね」

 ホント、知らない土地に一人旅すればよかった。

 ……お金、あんまないけど。


「アティとすら離れたのは、アティとも少し距離をとって、そして──」

 改めて、ツァニスの顔を見上げた。

 彼は、不安そうな顔をしていた。

「アティはアティ、ツァニス様はツァニス様、そして結婚した事について、それぞれ別で考えたかったんです」

 そう伝えると、彼の目が少し見開かれた。驚いたのかな。


「アティの傍にいると、どうしても貴方の事を『アティの父』として見てしまいます。

 それ以外の事──全ての事、侯爵夫人という立ち位置も、誰かの妻であるという事も、全てアティを通してアティの延長として見てしまう。

 アティがいるから我慢できる、アティの為に決意できる、アティの為に覚悟を決める、アティ、アティ、アティ……」

 今まで、全部そうやって考えてきていた。

 紛れもない事実。

 でも

「ツァニス様の妻でいる事、侯爵夫人としている事、それって、そんなナァナァ、何かのオマケやついでみたいに、考えて良い事だっけ? と。

 そう、思いました。

 だから、今の自分の立ち位置から少し離れて、客観的に、見直してみたかったんです」

 じゃないと、アティが自立した後、私は役割は終わったと離婚するだろう。だってアティがもういないのだ。そこに居る理由がない。

 でも、この立ち位置って、そんな簡単に『はい終ーわり』って、やって良いものだっけ? 私は、そんな適当な生き方を、受容できる人間だったっけ?


「アティを見る前まで──再婚前、再婚が決定した段階では、適当にこなしていればいいや、そう思っていました。

 私個人の事など、誰も見ない。なら、私も個人の事を見る必要がない。

 どうせ私には決定権はなく、与えられた役割を求められた形で求められたように応えるだけ。許された範囲で立ち振る舞うだけですから。

 でも子供は拒否しよう。私個人などどうでも良く、私をただの子宮として見るような人の子供を産む為に命をかけたくない。そんな人は子供が生まれたら、子供を人質にして私を意のままに動かそうとする。

 子供を拒否すれば、放逐ほうちくされる。どうせ私には決定権がない。好きにすればいい、私も好きにする。

 そう、思っていました」

 前の夫、レヴァンもそうだった。傷だらけになった私に興味を失い、勝手に離婚申請書を押し付けて外国へと行ってしまった。いない間に消えろ、と言わんばかりに。

 なら、再婚相手の侯爵もそうだろう。顔を合わせた事も文を交わした事もないのに、結婚を決めたような人物だ。私個人には興味がないだろう。

 そう、思っていた。

 そして事実、当初ツァニスは、私をセルギオスの血を継ぐ為の道具としてしか見ていなかった。


「でも、アティを見た時……このままではダメなのだと気づいたんです」

 この子を誰からも断罪され、消えて良かったね、せいせいしたわ、なんて思われるような子にしたくなかった。

 だってアティは、まだ何にも染まっていない無垢で純粋な存在だったから。


 一度、そこで大きく息をついた。

 ツァニスは、眉根を寄せて渋い顔をして視線を落としていた。


「誰もこの子を幸せにしないのなら、私がしなければ。

 そう、思いました。

 だからその為に試行錯誤しました。今のアティへの待遇を変える為には、まずは同じ女性である私への対応も変えてもらわないといけない。社会全体の認識は変えられなくても、せめてアティの周りにいる人間が、アティを物ではなく、生きていて意志のある一人の人間として扱ってくれるようになればいいと。

 アティの周りの大人が変われば、社会の問答無用の圧力からアティを守って支えてくれるようになる筈だと。

 そして、少しずつではありますが、やっと、そうなってきました」

 今や、アティの周りには、ちゃんとアティをアティとして可愛がってくれる人が沢山いる。

 ツァニスも、マギーも、サミュエルも、ニコラも、ルーカスも、他のカラマンリス邸の家人たちも。

 そしてその外側には、エリックがいてイリアスがいてゼノがいて、その後ろにはアンドレウ夫人がいて、獅子伯がいてヴラドさんがいる。

 これだけの人たちが、アティをアティとして見てくれて、そして気にかけてくれる。


 怒涛の一年で、良い方向へと少し流れを変える事ができた。

 良かった。


 そう思っていた。

 そして、生活やまわりの環境にリズムがついて、少し力が抜けるようになった時に──


「でも、気づいてしました。

 私は、『アティの為に』と言い訳をして、アティに、依存していたんだという事に」

 大きなため息と共に、私はそう、吐き出した。

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