第143話 天啓をもらった。

 満月は嫌い。

 だから、私は自分の名前が嫌い。


 何の因果か。

 私のこの名前は、前世の世界と同じく、月の女神の名前だった。

 小さい頃は月の女神をかんすることが誇らしかったけれど。

 セルギオスが死んでからは名前が嫌いになった。

 自分の名前が月を連想させ、セルギオスの死を嫌でも思い出させるから。

 改名、すれば良かったけれど。私の名を呼ぶセルギオスの声を忘れたくなくて、出来なかった。

 普段はなんとかそれと切り離していられるから、考えずに済むけれど。


「セレーネ様……?」

 そんな嫌いな名前を誰かに呼ばれた。

 私はその声がした方へとゆるゆると振り返る。


 そこに立っていたのは、ランタンを下げたサミュエルだった。

「……何故そこにいるのです?」

 ボンヤリとする頭でサミュエルに問いかけた。彼は通いだから、夜はいるはずがないのに。

「ここ暫くは屋敷に逗留とうりゅうしてるのですよ。その……仕事の事で」

 ゆっくりとした足取りでこちらに近寄って来た彼の足がギクリと止まる。

「泣いて……るのか?」

 そんな彼の緊張した声で思い出した。

 泣いてたね。セルギオスの命日の事を、思い出してしまって。

 命日に泣かなかった日は一度もない。いまだに。

「その……もしかして……」

 サミュエルが何かを言い淀む。

「ツァニス様と、ドリスの事か……?」

 そう言われて、ああと思い出す。そういえば、さっきそんなものを見たね。

 別にどうでもいいけれど。そんな事。

「違います。兄の事を、思い出してしまっていただけです」

 他のどんな事でも埋めることのできない猛烈な喪失感で、思い出してしまった日は耐えられないだけ。

「兄……亡くなった方の、か?」

 亡くなった方……? ああそうか。サミュエルには、二人兄がいた事にしてたんだ。

「そうです。秋は兄の命日があるのです」

 嫌いな月に目を向ける。

 嫌なのに、どうしても見てしまう。惹きつけられてしまう。

「……」

 私のそばまで近寄って来たサミュエルが、黙ったまま私と一緒に、明るく美しい月を見上げた。


 しばらくそうしていたが、ふと言葉が頭に浮いて来て、それをそのまま口にした。

「私は満月が嫌いです。完璧で美しくて。兄の死んだ日も満月が美しかった」

 毎月毎月、満月に気づくとナイフで心臓を突かれたような鋭い痛みを感じる。

「兄に最期の遠乗りに誘われた時、断ればよかった」

 安静にしていれば、もう少し生きられたかも。せめてあと一時間、せめてあと一日。少しでも長く一緒に居たかったのに。

「満月を見ると、どうしても兄の死に顔を思い出す。そんなもの、早く忘れてしまいたいのに」

 セルギオスの事は、楽しかった思い出だけ覚えていたいのに。

「なのに、満月を見なくても、今度は自分の名前が満月を思い出させる」

 他の名前だったら、こんなにズルズルとセルギオスの事を引きずらなかったのかな。


「『セレーネ』は、確か月の女神の名前だったな」

 サミュエルが、ポツリとそう呟いた。月を見上げたまま。

「……兄の最期の瞬間、満月を一緒に、二人だけで、見ていたのか?」

 そう問われ、私は月を見上げたまま頷いた。

「なら……」

 そこまで言って、サミュエルは言葉を詰まらせた。

 一瞬の沈黙のあと


「満月を見るたびに、自分の事を思い出して欲しかったんじゃないのか?」


 サミュエルのその言葉が耳に届いた瞬間、身体に稲妻のような衝撃が走り抜けた。

 固まった身体をなんとか動かして、そう言ったサミュエルの顔を見る。

「わざわざ死の床を抜けだして、お前と二人だけで満月を見に行ったという事は、お前に満月を嫌いにさせたかったからじゃ、勿論ないよな。

 なら、満月と自分を紐づけて欲しかった、そういう事じゃないのか?」

 なんてこと

「お前の名前と月が紐づいているから、『セレーネ』の名前が呼ばれる度に、月を連想させて、そこから自分を思い出して欲しかったとか……もしかしたら、そういう事かもれないぞ」

 考えた事もなかった

「セルギオスは……自分の事を、忘れて欲しくなかっただけ……?」

 そういう事なの?

「彼がどういう意図でそうしたのか知らないが……『自分を忘れるな』なんて言葉で直接伝えたら重荷になるとか、そう思ったとか」

 そうだとしたら


 物凄く全身が熱くなってきた。足が震えて立っていられない。地面が揺れてる気がする。

「セルギオスを忘れるワケないのに……」

 自分の半身を、忘れるわけないじゃないか。

 本当にバカだ。セルギオスは賢いのにバカだ。そんな遠回しな事しなくっても、毎日セルギオスの事を思い出してるのに。


 なんとか立っていられるようにと床を見ると、濃密な影が床に伸びている事に気が付いた。影を作り出している光を追って──満月へと辿り着く。


 今まで禍々しく見えていた満月が、神聖で柔らかい光をたたえた清らかで美しいものに見えた。


「遅いよセルギオス。もっと早くにそう伝えて欲しかった……」

 毎月毎年、その日に痛みを感じる必要なかったじゃないか。

 毎月毎年、その日がセルギオスの思い出に浸って良い日だったなんて、そんなの気づけないよ。

 自分の名前を、嫌う理由がなかったじゃないか。

 むしろ愛すべき名前だったんじゃないか。

 セルギオスのバカ。わざわざ私の名前と自分を紐づけなくったって、私とセルギオスはそれよりも太いもので既に繋がってるのに。


 私が自由に生きたって、セルギオスを忘れるわけないじゃん。

 私はセルギオスの半身なんだから、どこへ行こうとセルギオスも一緒なんだよ。

 ──ああそうだった。会いたいなんて変だった。

 今までもこれからも、ずっと一緒なんだ。


「セルギオスのばーか」

 そんな事を呟くと

『セレーネもな』

 そんなセルギオスの声が、聞こえたような気がした。


 ***


 天啓を受けたような気分だった。

 止まらなかった涙に、全てが洗い流されたようなスッキリとした、とても心が軽くなったような気持ちだった。


 そこで初めて気が付いた。

 サミュエルが、ずっと私の手を握っていてくれた事を。

 私が握られた手に視線を落とした瞬間、サミュエルがその手をパッと離してアワアワとした。

「そのっ……許可は取らなかったが! 落ち着くまでと思って!!」

 ああ、そういえば。前に勝手に抱きしめようとして来たから、ナイフ首に当てて触るなら許可取れとか言ったっけな。

「……ありがとうございます」

 今日は構わない。確かに落ち着けたし。

 それに、サミュエルからとても大切な事を聞けた。

 これは、多分自分では気づけなかった。

 セルギオスの死に囚われすぎていて、彼の真意にまで意識が向かなかった。


 セルギオスの本当の真意は分からない。

 でも、そうじゃないかと思える事があるだけで、世界が違って見える。

 本当に、心の底からありがたかった。


「変な所を見せてしまいましたね。もう大丈夫です」

 私は改めて顔を袖で拭った。ま、今更だけど。あ、鼻水まで出てら。ここら辺乙女ゲームの演出的になかった事になんねぇのかな。

「本当にありがとうございました」

 心からのお礼を述べて彼にペコリを頭を下げる。そして自分の部屋へと戻ろうとした時、ふと彼の表情が目に留まった。

 何か言いたげ。

 しかし、ずっとこうしているワケにもいくまい。

「……こうしているところを、に見られたらマズイのではないですか?」

 私は少し婉曲的に指摘する。

 彼は眉根を寄せて、少し視線を落とした。

「いや……奥様を誘惑していたとか言えば、彼らは喜ぶ」

 誘惑って。サミュエルの? 私に効くと思うのか!? ……アイツらは効くと思いそう。私の事舐めくさってるからなぁ。

 ああそういえば、最初アティのサプライズ誕生日を計画してた時も、ツァニスもサミュエルとの浮気を疑ってたっけ。

「皆さんはおかしな事を考える。サミュエルと私が? アティという接点以外何もないのに」

 あ、いや。本性はガラが悪いという点では似てるかも?


 ま、見られても構わないけど、それはそれでまた面倒くさそうだったので、私はサミュエルにひらりと背を向けた。

 これ以上面倒ごとになる前に退散しよう。

 そう思った時だった。


「……お前は、本当にアティ様の為にここまでしているのか?」

 そんなサミュエルの疑問が、私の背中にぶつけられた。

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