第142話 嫌なものを見た。
夕食の時間。
いつもは楽しくて仕方ないその時間が、酷く苦痛だった。
ニコラの食事マナーを見ながら、チラチラとアティの様子を伺う。
アティはいつもとは全く違うショボンとした顔で、マギーに食事の介助を受けながら黙々と食べていた。
食事の味が全然しなかったわァー。
正直お腹も空いてなかったし。本当は食事もしたくなかった。
でも、アティとの関係が
どっちにしても針の
なんとか『美味しいね』とか頑張って話しかけてはみたんだけど……私の緊張が伝わってしまった為か、アティからの返事も曖昧なものに終始した。
……心臓マジ痛い……
食事が終わり、アティとゼノがお風呂に入っている間のこと。
ニコラが寝る前に、厩務員さんからの聞き取りメモを受け取った時の事だった。
「らしくねぇの」
私の顔を見上げたニコラが、そう一言吐き捨てた。あ、これニコラじゃないわ、テセウスか。
「ニコラがアンタらの緊張感じ取って引っ込んじまっただろうがよ。何してんだよお前は」
テセウスは、斜めに構えながら私の顔を
ああしまった。そっちにまで影響を与えてしまったか。ニコラは空気に敏感だからな。折角少し安定してきたのに、これではニコラにもテセウスにも申し訳ない。
私は思わず、テセウスに対して口を開こうとして──やめた。
ダメだ。テセウスに愚痴を吐いては。
彼をアダルトチルドレンにしてはならない。テセウスがしっかりしているのは、ニコラを守る大人がいなかったから、強く在るしかなかったから。
やっと酷い環境から抜け出せたのに、彼には大人の愚痴は聞かせたくない。子供らしくいて欲しい。大人は頼り甲斐のあるものなのだと思って欲しい。
「ごめんなさい。大丈夫ですよ。ニコラとテセウスは、何も心配する事はないのです」
私は顔にニッコリと笑顔を浮かべた。
弱ってらんねぇんだよ。
例えアティに嫌われたとしたって、アティにちゃんと分別をつけさせる義務がある。それが大人の役目だ。
その為になら、私はゴリゴリの悪役になろう。それが私の役割なのであれば。
もともと『継母』という圧倒的悪役ポジションなんだし。イケるよ自分。頑張れ自分!
テセウスは、私からフイっと視線を外して口をひん曲げる。
「ニコラに……次にニコラだった時に、ちゃんとそう伝えてやれよ」
ニコラの事、本当に大切にしてるんだな。テセウスも良い子。口は悪いけど。
「テセウスにもです。心配かけてごめんなさい」
彼に改めてそう伝えると、なんか知らないけど背中をバシッと叩かれて、走り去られてしまった。
アレがテセウスなりの激励なのだと、私は胸が熱くなった。
***
当然、夜は眠れなかった。
今日の寝かしつけはマギーの番だったし、私は眠れないしちょうど良いからと、メイド長と色々細かい事を詰めた。
情報が出揃って来たので、そろそろ整理して
その打ち合わせの帰り道。
深夜であった為、廊下の灯りは落とされている。なのでランタンを持って廊下を歩き、自分の部屋へと戻ろうとしていた。
廊下の角を曲がろうとした瞬間、人の気配を感じて足を止める。
複数人の気配。しかも、声を落としてボソボソと話していた。
誰だろう。深夜の廊下で立ち話とか。なんか不穏な空気しか感じないんだけど。
もしかして、執事たちの密談……?
私は廊下の角から、そっと人のいる気配のする方を覗いた。
そこにいたのは──ツァニスと……ドリス?
こんな深夜に何やってんだ? どんな密談だよ。何の話してんだ??
立ち聞きしちゃまずいよな。
つか、聞きたくない。もうこれ以上、心折れるような出来事に出会いたくない。
もう無理。お腹いっぱい。
私はそのまま、回れ右して遠回りして部屋に帰ろうと思った瞬間だった。
「もうっ……アティ様が可哀想で見ていられないのです!」
そんなドリスの言葉が耳に飛び込んできた。
思わず足が止まる。
アティが可哀想……どういう事だ? そして、何でそんな事をツァニスに言ってるの?
「アティ様を……助けて差し上げたい」
──ああ、そういう話ね。ハイハイ。
ああ、でも
聞きたくない。聞きたくない。聞きたくない。
私はゴリゴリの悪役になるって決めたんだよ。それでもういい。アティについて責められる話を、他人からこれ以上聞きたくない。
その場でどんな話が行われ、その後どんな展開になろうと知ったことではない。
私は足早に、その場を去って行った。
部屋に帰る為に遠回りせざるを得なかった。
屋敷の一階に降りてから、ぐるりと大きく迂回する。
と──その時。
通りかかったテラス窓から、大きな月が見えた。
完璧に丸く大きくて明るい月──満月。
……ああ、もう、来てしまうのか。
あの日が。
──セルギオスの命日が。
あの日も、満月だったな。
人生で一番酷い日だったのに、月が恐ろしく美しかった。
この日を実感したくなく、流したかったから色々沢山の事を詰め込んだのに。
結局こうして思い出してしまった。
毎日セルギオスの事は思い出す。
楽しかった思い出、笑える思い出。それを思い出せるのはすごく嬉しい。日に日に色褪せてってしまう思い出の解像度を、維持できる気がするから。
でも、命日近くの満月の日だけはダメだ。
ほんの少し思い出すだけで、胸の傷が開いて生々しい血が流れていくような気がする。
「セルギオスに会いたい……」
思わずポツリとそう漏らしてしまうと、途端にタガが外れてしまう。
意図せず涙がポロリと溢れた。
あの日。
月が残酷に美しかったあの日。
ベッサリオンの秋にしては、まだ暑さが残る珍しい日だった。
その日の日中は、セルギオスが珍しく体調が良いと言っていた。冷静に後から考えると、セルギオスは今にも倒れそうなほど顔色が悪く、息苦しそうだったのに。
私は彼のその言葉をそのまま信じて、セルギオスに誘われるがまま夜の遠乗りに出た。
収穫を間近に控えた黄金色の田んぼに、月の明かりが映って輝いていた。
その間を馬で走り抜け、セルギオスが行くまま私は後をついて行った。
前を行くセルギオスが、馬の速度を突然緩めた。
田んぼのど真ん中で馬を止めたセルギオスの身体が、グラリと揺れる。
そして、そのまま馬の上から落ちた。その瞬間はスローモーションのように見えた。
馬から落ちたセルギオスの元へと走り、その身体を抱き起こす。
その時、改めて兄の体が羽のように軽くなっている事に気がついた。
暫く、大きな深呼吸をするかのように胸を動かしていたセルギオスが、ゆっくりと目を開けた。
このまま開かなかったらどうしようと心配していたので、目を開いてくれた事に酷く安堵した事を覚えてる。
「セレーネ、このまま、遠くへ旅に出よう」
小さく消えいりそうな声でそう呟くセルギオス。
私は返事ができなかった。
セルギオスの身体が、旅に耐えられない事を知っていたから。
嘘でも、そうだねと、言えばよかったのに。その時は言葉が出なかった。
「いろんな場所へ、行きたいな。海の向こうにも、国がたくさん在るんだよ。僕たちが知らない文化が沢山あるんだ。
その中にはきっと、僕たちが探してる場所も、あるよ。
貴族とか嫡男とか、男とか女とか、身体が強いとか弱いとか、そんな事に縛られない国が──」
その瞬間、セルギオスが大きく息を吸って
そして、吐き出した。
長く吐き出した。
吐き出し切って──
次に、吸われることは、なかった。
満月が綺麗だった。
黄金色の田んぼが月の光で輝いてる。
私は、月が落ちて辺りが漆黒に包まれるまで、ずっとそこで魂の抜けた兄の体を抱き続けた。
酷く美しくて、残酷な日だった。
セルギオスの墓はない。
もともと火葬の文化の場所だから、火葬した骨が収められる納骨堂はあるものの。
私が、納骨の前日に骨壷を盗んで、細かく砕いて散骨してしまったからだ。猛烈に怒られたけれど後悔も反省もしなかった。
セルギオスを、死んだ後までこの場に縛りつけたくなかったから。
崖の上から風に乗せて全て撒いた。
これで、セルギオスは何処にでも行ける。
彼の夢見た世界へも。
ここではないどこかへ。
病み衰えた身体からやっと解放されて。
──私を置いて。
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