第141話 𠮟りつけた。

 私が怒ったのは別荘以来か。

 こんな事でアティを怒りたくなかった。


 怒られたアティは、次第に溢れんばかりの涙を目にため込んでいく。

 そして──

「ドリス~!」

 少し離れた場所に茫然と立ち尽くしていたドリスの元へと走った。

 彼女はしゃがんでアティの身体を抱き留めると、その頭をヨシヨシと撫でる。

「怖かったですね。大丈夫ですよアティ様」

 は? 何言ってんだドリス。大丈夫じゃねぇよ。

「奥様、お言葉ですがアティ様はまだお小さいのです。あまり厳しくお怒りにならない方がよろしいかと思いますが」

 ドリスは、少し怒ったような顔をしてキッパリとそう私に言い放ってきた。

 あ? 何言ってんだお前?

「小さくても理解しなければならない事があります。特にこういった危険のあるものについては、むしろ幼い頃から知る必要があります。

 最悪死ぬかもしれない事についてなどは、真剣に伝えないとどれだけ危険な事なのか伝わりませんよ」

 アティの首が落ちてから『ごめんごめん☆』じゃ済まないだろ?

「優しくする事と甘やかす事は違いますよ? ドリスはそこを理解していますか?」

 私が眉根を潜めてそう言うと、ドリスの顔がカッと赤くなる。

「私はアティ様を甘やかしてなどおりません!」

 いや、今お前がやってる事が甘やかしてるって事なんだっつの。


 私は一つ溜息をついてから立ち上がった。

 そしてドリスとアティの方に真っすぐに向き直る。

「私が今までエリック様やアティに本物を持たせなかったのは、まだその意味と危険性を理解できないだろうと思っていたからです。

 持たせるのであれば、その危険性まで伝えるべきではないですか?」

 幼い子供だって、ナイフ一本で人を殺せる。

 刃物とはそういうものだ。だから扱い方を教える時も、模造刀を渡していたのだ。

 模造刀は打ち合う為だけのものじゃない。人の命を脅かす可能性のあるものの扱い方を覚える時に持つものだ。

 私の言った言葉の意味が理解できたのか、ドリスは口を真一文字に結んだまま黙っている。しかしアティの頭を撫でる手は止めない。

 真意まで理解してねぇなこの野郎。


「それに。アティは今、ルーカスの爵位をバカにしました。それも許される事ではありません」

 剣の事もそうだけど、私はどっちかというとこっちの事の方がマズイと思っている。

 幼い頃から爵位で人をはかるような人間になって欲しくない。

 そもそも人間は年齢とか爵位とか性別とか出身地とか、そういう属性で判断できるもんじゃねぇんだよ。

 だから私は今まで、アティに周りの人間の爵位の事を伝えた事はなかった。相手の爵位がなんであろうと、相手がアティの為を思って言った言葉には耳を傾けて欲しかったから。

 なのに……ッ!

「でもっ! 侯爵より男爵家の方が地位が低いのは事実ですよね!」

 ドリスがなんとか反論しようと言い募ってきた。

 ……お前か。アティにルーカスの爵位の事、そして男爵の方が下だって教えたのは。


「それが何なのです? 侯爵より男爵のくらいが低いから見下していい事にはなりませんよ?」

「……でも……ッ! 事実ですよねっ……」

 はぁ? お前何言ってんだ? それが事実かどうか今重要か?

「侯爵より男爵の方が爵位は下ですが、それが何か?」

 今論点にしてんのソコじゃねえんだけど。

 しかし、ドリスは私がそれを言うとなぜかホッとしたような顔をした。……お前は何が確認したかったんだよ……

「先ほどから言っていますが、それが事実だとしても、侯爵家の人間が男爵家を見下していいという事にはなりません。爵位とはそういうものではありません」

 侯爵家が上だとか、男爵家が下だとか、今はそれが問題じゃねえんだよ。

 問題は、その爵位をかさに着て、アティがルーカスを見下した事なんだよ。

「貴族、そして爵位とは役割の事です。役割を全うする為に与えられた権限でしかありません。爵位自体が、その爵位が持つ人間自身が、偉いワケではないのですよ。

 ましてや、それを振りかざして立場の弱い人間を責める為のものではありません」


 私はドリスではなく、ドリスに抱き着きながらもこちらの様子を伺う、アティに向かって口を開く。

「爵位とは、自分より下の爵位や庶民を守る為にあるものです。その方々を守る為に与えられた権利を、使う為にいるのが貴族です。

 爵位を持った家に生まれた人間は、その権利を振るうのに相応しい人間にならなければなりません」

 それが、今階級制度がある世界で必要な事。階級制度とは、上の人間の為のものではない。本来は弱い人間の為に、その人たちの代弁者として、権利の行使者としてものだ。形式的には王から給わるものだが、それは王が国の──ひいては国民の代表だからに過ぎない。

 そこを間違えていけない。

 民なくして王や貴族は存在しえないのだ。


「もう一度言います。爵位、くらいの上下は権利の違いでしかありません。誰が偉く誰が偉くないと、人間をはかるものではないのですよ。誰かをけなしたり、馬鹿にしたりするのに使うものではありません」

 この話は概念的すぎて難しい。だからアティにはまだ話していなかったのに。

 アティが、自分とそれ以外、家族と家人たち、カラマンリス邸の人間とそれ以外、それが区別ができるようになってから話したかったのに。もう!!


「アティ。あとはアティが自分で考えるんですよ。どうしたらいいのか、自分で、考えなさい。自分が何を言ったのか、何をしたのか思い出して、そして行動しなさい。それが今アティがしなければならない事です」

 難しい。絶対難しい。分かってる分かってるよ! ああもう本当にっ! もっと順を追って教えたかったのに!! くそっ!!


 私が全てを言い切るまで、誰も発言しなかった。

 ドリスはアティを抱いて私を見上げたまま動かないし、ルーカスも神妙な顔をして黙りこくっていた。

 そばにいるサミュエルも眉根を寄せて難しい顔をしていたし、マギーに至っては目を伏せて感情を表に出さないようにしている。

 エリックも、目をまん丸にして立ち尽くしていた。近くにいる護衛たちも微動だにしていない。

 少し離れた所に立っていたクロエもイリアスも、驚いた顔をしてこちらを見るゼノも固まっていた。


 ……あーあ。アティを叱ってしまった。

 胸が痛い。アティを叱るの嫌なのに。私だってアティをベロベロに甘やかしたかったのにィ!!!

 でも、アティが爵位の事を持ちだしたら言わないワケにはいかない。例えそれが大切な事だと知らなくても。無知は罪ではない。しかし無知を振りかざして相手を傷つけたら、それはもう罪なのだ。

 私はその場に背を向ける。

 せっかくエリックが来てくれた日だというのに。私は悶々とした暗い気持ちを抱えたまま、ゆっくりと屋敷へと戻って行った。


 ***


 心折れた。正直折れた。ボッキボキに粉砕骨折した。


 アティが、ドリスのもとへと泣いて走った。

 あの時は、アティがいけない事をしたから叱らなければという気持ちの方が強かったからなんとかなったけど。

 あの場を離れた後。

 屋敷の中に入って誰もいない部屋に入った瞬間、膝から崩れ落ちたわ。


 あー、ヤバイ。ショック過ぎる。

 なんでこうなんのかなぁ。ちくしょー……


 執事たちに何されても平気。男たちに罵詈雑言ぶつけられても平気。

 でもアティは……アティは……そっかぁ。そうなのかぁ。ヤバイ、ちょっと立ち直れないかもしれない。

 執事たち。まさかこれを想定してドリスをアティの傍に置いたのだとしたら、私は状況を舐めすぎていたよ……

 まさか、アティと敵対させられるとは思わなかった。


 ドリスが甘やかせばアティがそっちに流されるのは至極当然。

 それをとがめて私が叱れば、当然悪役になるのは私だ。

 ああちきしょう! 悔しいィィィ!!

 私だってアティを怒りたくない! 叱りたくないんだよ!!


 でも。アティを叱らないという選択肢はなかった。

 ルーカスがダメと言ってるのに聞き分けなかったのも、そんなルーカスを罵倒したのもアティだ。子供でもその責任を問わなければならない。やって良い事と悪い事の分別ふんべつはつけさせないと。

 ただ単純な失敗しただけだったなら叱らない。何かすれば失敗するものだし。どんどん失敗していい。

 でも今回は違う。あれはただの暴言。叱らなければならないタイミングだった。

 叱らなければならなかったから……ぐぅ、ツライ。

 アティの為だとはいえ、それでアティから嫌われる事になるとはっ!!

 マジちょっと無理! 無理中の無理! 心臓痛い……


 私はしばらく壁に張り付きながら、泣きそうな気持ちをなんとか必死に抑え込んだ。

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