第130話 根回しが始まった。

 本当に、申し訳なさそうにうつむいてしまう厩務員さん。

 その顔を、横に座ったニコラが困ったような悲しいような顔をして見つめていた。


 私は厩務員さんの顔が見えるように膝をつく。

 そして彼の顔を下からのぞきあげた。

「問題ありません。貴方は喋れる。それで充分です」

 私が歯を見せてニッコリと笑うと、厩務員さんが目をまん丸にして驚いていた。


 まさか私が、それに気づかないとでも?

 厩務員さんとどんだけ仲良くさせてもらってたと思ってんのさ。今や茶飲み友達だというのに。水臭い。

 そんなのなんとなく感じていたよ。

 厩舎にかけられたメモ用の小さな黒板には、文字ではなく暗号のような記号が沢山書いてあった。小さな数を数える為に黒板を書く時は、数字ではなく小さな線を並べていた。

 それで分かる。

 それもあってニコラを連れて来たんだし。


「ニコラにお願いがあります」

 私は、厩務員さんの顔から、横にいるニコラの顔に素早く視線を移動する。

 思わずビクリとするニコラ。

「ニコラは文字が書けますよね?」

「え……うん、あ、ハイ。あまり難しい言葉は無理だけど」

「充分です。私が彼に聞いて欲しい項目をリストアップしますから、厩務員さんに読んであげて、答えてもらった内容をメモしていってください。

 つづりを間違えても気にしなくていいですよ。そんなの些末さまつな問題です」

「さまつ?」

「あ、細かいって意味です。つまり、そんなのは小さくて問題にすらならないって事ですよ」

 ニコラは首を傾げて私を見て、そして厩務員さんの顔に視線を戻す。

 厩務員さんの顔は──えっ!? なんで泣いてんの!?


 シワシワの目元を濡らして、厩務員さんは何度も何度も手ぬぐいで顔を拭いていた。

「そんな事を言われたのは久々ですわ……」

 彼は肩を小刻みに震わせ、手ぬぐいを持っていない方の手をぎゅっと握って膝の上に置いていた。

 ……彼の、悔しさや恥ずかしさを感じた。

「そう言ってワシを雇ってくださったのは、先々代でしたよ」

 震える声でそう告げる厩務員さん。先々代──ツァニスの祖父か。


 彼の人一倍の努力を感じた。

 文字が読めない、文字が書けない。でも雇ってくれた先々代に恩義を感じ、ずっと真面目に今日まで勤めて来た厩務員さん。

 恥を忍んで人から教えてもらった事も多かったはず。その中には、彼をバカにした人間もいただろう。彼のせいではないのに。

 でも彼は耐えて、ひたすら自分の仕事を全うしてきたんだ。

 頭が下がる思いがした。


 そして。

 やはり思った通り、彼の持つ情報は下手したら今からやろうとしている事にとって、一番の鍵になるかもしれない。

「ホラ。やっぱり貴方は凄い方です。貴方の持つモノは、私が今喉から手が出るほど欲しいものなんですよ」

 私は、彼の膝に置かれた手にそっと自分の手をかさねた。

 シワだらけでガサガサで、皮膚が分厚くなって血管が浮いた傷だらけの手。

 人一倍努力を重ねて来た、働き者の手。

「改めてお願いします。私の力になっていただけないでしょうか?」

 私は再度、厩務員さんの顔を見上げて真剣にお願いする。


 彼は、ふぅと大きく一つ息をつく。そして

「ワシで良ければ是非」

 そのシワシワの顔を更にシワシワにして快活に笑った。


 ***


 今日はエリックが来る予定の日だったけど、朝からバッタバタで時間を気にする余裕がなかった。

 あの執事たち野郎どもめっ……!

 あんだけ渋って全然見せてくれなかった帳簿や資料を、今度は「どうぞ心行くまで見てください」

 とか言って、私の部屋に全部運び込みつつ、入らなかった分は全部廊下に積みやがった!!

 マジムカつくアイツらっ……夜は背後に注意して歩けよッ……!!!


 積みあがった帳簿と資料の山で、部屋の中がまるで迷路のようになってしまったのを見たクロエ。笑顔のままだったけど、こめかみと額にビシリと青筋立ててた。笑顔だったから余計に怖かった。

 ごめんって謝ったら

「奥様のせいではない事は充分存じ上げておりますわ。そう、充分にね」

 って言ってた。

 ……マジ怖かった。クロエには絶対逆らっちゃいけないんだって、改めて思った。

 マギーからも「だからアティ様の事だけに注力していればいいのに」って嫌味言われた。勿論手助けはしてくれなかった。


 はははははは。貧乏伯爵家舐めんなよ。多少の力仕事だって女もやるんだよっ。この日々の懸垂(※クロエに見つかったら何言われるか分からないから厩舎の方でしかやらない)の成果を存分に見せてやんぜコンチキショウ!!


 とかやっていたら。

 うっかりエリックたちが来る時間を忘れてしまっていた。

 まあ、集中していたからっていう事もあったんだけど。

 誰も呼びに来なかったんだよね。

 いけね! と思って庭に出てみたら──


 既にエリックとゼノが、庭で模造刀を振り回していた。


 あれ? と思ってよく見てみると。

 エリックの傍にいつもいる、アティ、イリアス、サミュエル、マギー、そして各護衛たちの他、見知らぬ女性の背中に気づいた。

 アレは誰だろう?


「だんちょう!」

 さっそく私の姿に気づいたエリックが、模造刀をブンブン振り回して私に合図してきた。あ、デコに当たった。よっぽど痛かったのか、デコを抑えてうずくまってしまった。流石エリック。期待に応えてくれるねぇ。


 そんなエリックを介抱するのは、先ほどの見知らぬ女性。

 エリックを慰めながら振り返った顔に、私は見覚えがあった。

 あ、彼女は──

「奥様! もうお仕事はよろしいのですか!?」

 輝くような快活な笑みでそう話しかけて来た女性──この子は、確かメイドの子だ。

 名前は覚えてないけど……洗濯婦だったようにように思う。十代後半ぐらいの子で。

 でも今はメイドの制服を着ていない。動きやすい服──いつも私がエリックやサミュエルに稽古をつける時に着ているような、木綿のシャツに麻のズボンとブーツ姿で、腰には模造刀を差していた。

「ええと貴女は……」

「ドリスです! 以前は洗濯婦をしておりました!」

 ああやっぱり。

 でも、なんでその子がここに?

「奥様がお忙しいようでしたので、僭越せんえつながら私からエリック様とアティ様に剣の扱い方をお伝えしておりました!」

 エリックのそばで膝をつきつつも、そのまま元気よく頭をペコリと下げるドリス。

 あ、そうなんだ。へー……

 ふーん。

 ……。


 私はチラリとマギーの方を見る。マギーは我関せずといった顔で私の視線に全く反応しない。だと思ったっ……

 次にサミュエルの方へと視線を向ける。

 しかし彼は小さく首を横に振っただけだった。

 え、サミュエルの差し金じゃないの? じゃあ誰の?


「セレーネが来てくれたんだから、セレーネから習おうよエリック」

 すかさず横から入ってきたのはイリアスだった。

 エリックの背中に手を置いたドリスの手をやんわりとどける。

 ──イリアス。背中に黒いオーラが見えるぞ。笑顔の裏に『気安くエリックに触んな××××(※ここでは言えない)』って書いてあるぞ!?

 え!? 何どうしたのどういう事?

 そうか! という顔をしたエリックが、立ち上がって息を大きく吸い込んだ瞬間だった。

「いえいえ! 奥様のお手をわずらわせる必要なぞございません!! 奥様はお子様方のお世話よりも大切な事が沢山おありになるのですよ!?」

 エリックよりも先に口を開いてそう言うドリス。

 首をプルプルと横に振ってから、イリアスに対して『メッ』と軽く𠮟るような素振りをする。

 怖いもの知らずかよ。


 しかも今、なんてった?

 

 あると思うか? そんな事。

「そんな事はありませんよドリス。子供の事の方が大切に決まってるではないですか」

 あまりに自然にナチュラルに爽やかに快活に、私のムカつきポイントにソフトタッチしてくから、キレるタイミング見失ったじゃねぇか。

「ええ!? でもお忙しいですよね!?」

 彼女が驚いた顔をして私を見上げる。

「ええ、暇ではないですが、それで──」

「ですよね!? なら私がお子様方のお相手をしますよ! 奥様はお仕事をなさってください!」

 いや、そうじゃねぇんだって。

「いえ、仕事より子──」

「大丈夫です! 奥様のお手は煩わせません!」

 だから違うって。

「煩わせるとかで──」

「私、子供得意なので面倒くさくないですよ!」

 まるで私が子供の相手が面倒くさいみたいに言わないでくんねぇかな!?

「そうじゃ──」

「お子様方! 奥様は大切な大切なお仕事があります! 手を振ってお見送りしましょう!」

 聞けよ人の話!


 しかし、彼女が満面の笑みで私に手を振るからか、つられてエリックとアティも輝いた笑顔で私に両手をブンブン振って来た。

 イリアスは笑顔でありつつこめかみに青筋が浮かべて、頑なに手を動かさない。ゼノは困った顔をしていたが、暫くしてから小さく私に向かって手を振った。

 他のメンバーもめっちゃ苦笑して見ているだけ。


 この場に残る雰囲気ではなくなってしまった為、私はすごすごとその場を後にするしかできなかった。

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