第109話 何も出来なくてイライラした。
ニコラの母親が消えた。
メイドたちが少し目を離した隙だった。
ニコラの母を保護して数日経っていた。傷も随分良くなって来ていて、そろそろ動けるようになってきた、と思っていた矢先の事。
使用人たちや私兵が、逃げたんだと騒いでいたけれど、私は彼女の行き先に見当がついた。
戻ったんだよ。
家に。
そう言うと、サミュエルが驚いた顔をした。
「どうして?!」
殴られているのにって?
ホントにね。不思議だよね。
昼前のお茶の時間。私がニコラの母がいなくなった事を報告すると、みなそれぞれがその事実に驚いていた。
ちなみに、この場には子供たちの他に、サミュエルとマギーなどの子供たちの世話人の他、アンドレウ夫人と私がいた。
男性陣はいない。何か話があるとかって、別の場所で何かやってる。
私はため息を一つついて、驚愕顔のサミュエルに解説した。
「被虐待者の心理なんですよ。愛しているから、あの人を理解できるのは自分だけ、自分が殴られるような事をしたから悪いんだ──傷が治ると暴力が過去の事となって、そういう心理状態になりやすいんです。
『ハネムーン期』といって、虐待者は暴力後恐ろしく優しくなる事があるので余計に。
それに、逃げたところで一人では生きていけない。そんな環境要因も影響しているようですよ」
最悪、共依存を引き起こす。殴るヤツと殴られるヤツの泥沼の共存関係。
悪役令嬢アティと、悪役子守マギーの関係も、最後にはコレになる。
マギーの場合は物理的な暴力ではなく、精神的な暴力。
アティを散々罵倒しながらも『そんな貴女を理解できるのは私だけ』と言う、アティをボロカスに
『だから私から離れてはいけません』
『貴女は私の言う通りにしていればいいのです』
そうやってアティの自尊心を限りなく底辺まで低くして精神的に支配し、悪役令嬢に
これはマギーが、アティに離れて欲しくないから行う事。つまり、マギーも自尊心が低いのだ。子守という役割が終わると自分の存在価値を見出せなくなる彼女の、自己防衛手段。この心理を抱えた母が、どれほど多い事か。
そうならなくて、本当に良かった。
まだ油断は出来ないかもしんないけど、私がアティとマギーの自尊心を引き上げてやるわ。どんな手を使ってもな。
でもニコラの家族は、他人が横から口出ししただけではもう無理。
その段階はとうに過ぎてる。洗脳完了、もう泥沼に頭までドップリ浸かっている。
ニコラの母親はもう一人ではなかなか共依存から抜け出せないし、ニコラ自身も解離してしまったと思われるし。
さて。どうしたもんか。
それに。気になる点もある。
ニコラが、どうして可愛い格好が好きで、刺繍も絵もピアノも上手く、ファッションに
あんな父親がいる環境で、ゼロから自分で全てを身につけるのは不可能なんじゃないかな。
そして。
多分まだ出てきていないもう一つの人格。
乙女ゲームの主人公の侍女で、誰が見ても女の子らしい女の子。
どうやって彼女が構築されたのか。
ニコラの心が、どうやって引き裂かれたのか。
それは多分──
「母親が家に戻った、ニコラも無事という事は、我々にはもう何も出来る事がないという事ですね」
イマイチ納得出来ない顔をしながらも、サミュエルがそう締めた。
そうんだけど……
そうなんだけどさ……
ニコラがボッコボコにされ続ける事も心配だけど、ニコラがあの父親をいつか手にかけてしまうって事も心配。
勿論、それは
止めないと。
ニコラの人生がこれ以上メチャメチャになったら……
動きたい。ニコラの身辺を色々調べたい。
でも動けない。
ツァニスやレアンドロス様が、私の動きを警戒して見張らせてるよ、きっと。下手に動いたら軟禁されかねない。くっそう。
あー。もう! どうしよう!?
「その、指でテーブルを叩く癖、直していただけます? アティ様に
マギーの辛辣な声で我に返る。確かに、私のテーブルに置いた手の指が、ひたすらテーブルを叩いていた。無意識だった。私にこんな癖が……
「指叩き折りますよ」
そんな怖い事を私の耳元で囁かないでよマギー!!
私は自分の手を握りしめて動かないようにしてから、また考え始めた。
思い出せ自分、記憶を掘り起こせ。
ゲーム中のニコラは何か言ってなかったか? 父親がいなくなった頃の事とか。
ええと。どうだったかな。
主人公のゲームサポートキャラ・ニコラ。
貴族の世界に突然放り込まれた主人公をサポートしてくれる侍女。主人公より六・七歳上で、お姉さんキャラ。
ゲーム中の便利キャラで、でもちゃんとニコラとのほのぼのイベントも用意されている。
あー、でも周回するたんびにそのイベントが発生していたから、飽きてすぐに飛ばしちゃってたんだよなぁ。だからあんまり注目してなかった。記憶にもあんまり残ってない。
ええとええと……
侍女の人格の名前がニコラ。本当の人格の名前がニコラオス。あ、でも確かもう一つ名前があったよな。ヤバイ人格のヤツの名前。なんだっけ……? ダメだ、思い出せない。『ア』から人名思い浮かべれば思い出せるかな? 果てしねぇ……ダメだ。そこはちょっと置いておこう。
確か、ゲーム開始時にはもう既に母子家庭になってるんだよね。
出稼ぎ……では、なかった気がする。確か、母親も一緒に主人公の所でメイドをやっている設定だったような。キャラとしては母親は登場しないけど。
で? うーんうーん……
母と共に使用人として働き始めたきっかけが、たぶん父親がいなくなって生活に困ったからだよな。
いくつから働いてるって言ってたっけ……
思い出せないなぁ……くっそう。
「世の中、物騒な事ばかり」
私の煮詰まった脳味噌に、言葉をねじ込んできたのはアンドレウ夫人だった。
彼女は、お茶を飲みつつ新聞を読んでいた。
形の良い眉毛を歪ませて、軽くため息をついて手にしていた新聞をテーブルの上にそっと置く。
「どうしました?」
私はちょっと頭を切り替えたくて夫人に話しかけた。
すると、彼女は新聞を
「この
そこで彼女は一度言葉を止める。
何かを思い出した顔。
「──いえ、穏やかなのは、見た目だけね」
そう、ポツリと漏らした。
……それ、ニコラの事でしょ。
家庭内暴力は外からは見えないっていうのを、
本当に。そうだね。
この世界にも、前世の世界にも、凄惨な家庭内暴力は後を絶えない。
見えてるだけで気が重くなる数あるのだから、全体数は吐き気を催すほどなんだろうな。
「まちはあぶないのか?」
スコーンをお茶で流し込んだエリックが、口の周りに食べカスを付けながらそう尋ねて来る。
イリアスが甲斐甲斐しくその顔を拭いてあげていた。
「そうですね。事件もあったようなので、少し、危ないのかもしれないですね」
私は
「でも、にこらはまちにすんでるんだろ?」
珍しく、エリックが言い募って来た。
お? どした? 何が気になるんだ??
「にこらはあぶなくないのか?」
何の気ナシにエリックの口から漏れた言葉に、大人の我々の動きが止まる。
サミュエル、動揺しすぎ。手にしたティーカップとソーサーがカチャカチャ鳴ってんぞ。
私は、思わずアンドレウ夫人の顔を見てしまった。彼女も私の事を横目で見て、軽く首を横に振る。
「……どうでしょうね。無事だと、いいですね」
そんな曖昧な言葉しか、エリックに返す事が出来なかった。
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