第106話 予想外の出来事が起こった。

 気づくと、レアンドロス様が私の顔を覗き込んで来ていた。

 その視線は強く、まるで私を射抜くかのようだった。


「前に言っていただろう。男が女か、健康か不健康かに関係なく、人が生きやすい世の中にしたい、と。

 その考えは、今のセレーネ殿だから待ち得たものだ」

 彼の手が肩に伸びてきて、私を励ますかのように揺さぶった。


「何不自由なく生きられたら、そんな考えは浮かびはしない。

 もし考えついたとしても、これが健康で何不自由なく生きる男の言葉だったら、俺は賛同しかねただろう。真意が見えないからな。

 セレーネ殿だからこそ、説得力が生まれるのだ」

 彼の、空いたもう片方の手が私の頬を拭う。水の感触が頬を冷やした。

 あれ、もしかして、私また泣いてんの?

 なんで? 泣くつもりなんかないのに。なかったのに。

 ヤバイ、レアンドロス様をまた困らせてしまう。っていか。泣き顔なんか人に見せたくない。

 私は慌てて自分の手で顔を拭おうとして──その手首を、レアンドロス様に掴まれた。

「逆であって、良いわけがない」

 静かで穏やかなのに、強い言葉が降りかかる。


 驚いて見上げると、彼が食い入るように私の顔を見ていた。

 近くに置いていたランプの光が彼の翡翠色の瞳にうつってる。

 私は、その色に吸い込まれそうになって──


 ほぼ同時に。

 お互いがお互いの身体を突き放して後ろに飛び退いた。


 アッぶねぇ!!!

 今危なかった! 危なかったよ!! 危険すぎる危険すぎんだよ!!! この人と二人っきりになるのはマジで危険すぎる!!!

 レアンドロス様もそう感じているのか、困ったような顔をして頭を掻いたのち、ぷいっと夜空の方へと視線を向けた。


 この場に留まるのは危険だから退避!! 退避だよ!! 撤退だオラぁ!!!

 私は今の事はなかった事として、慌てて言葉をひねり出す。

「ええと、あの、そうですね。そうでした。弱気になっている場合ではありませんでしたよねッ!? ええと。だから、そうだ! まだ考えの途中でしたよね!? そうだったそうだった!」

 そうだよ! 服のアレコレ考えてた筈なのに! どうしてこうなった!? どっから本筋からズレた!? もう!! 宿題が! 宿題なのに!!

「だから、ええと、さっきの続きはまた今度──いえ! 続きっていうのは今のじゃなくて服の話でッ!!!」

 自分で墓穴掘りまくっているのが分かるのに! 言い訳が上手く出て来ないィィ!!!

 ダメだ! 今は! もう! 何も言うべきじゃないし何もすべきじゃないッ!!

「おやすみなさいッ!!」


 私は、レアンドロス様の態度も返事も待つ事なく、寝室へとダッシュした。


 ***


 胸の動悸が収まらない。走ったからだな。

 顔が熱くて胸が締まって吐きそう。コルセット締め過ぎだな。

 しかし失敗した。ランプを置いて来てしまった。アレがないので月明かりを頼りに手探りで部屋探すハメになったぞクッソ。そうだよね! 深夜には廊下の明かりは消すよね!!

 お陰で迷子だコンニャロウ!!!

 なのにワイングラス(中身は多分どっかに溢して空)だけ持ったままって、どんだけェ?!


 しかし、ベランダには戻れない。レアンドロス様がまだいるかもしれないから。

 取り敢えず入口からなら順路を思い出せるかと思って一階へ降りて来たけど、そもそこここがどこら辺なのか分からなかった。手詰まり☆

 私は困ってしまい、廊下の壁にもたりかかりながら、柔らかな光が漏れ入って来る窓の外へと視線を向けた。


 ふとすると、レアンドロス様の顔が頭に浮いてきてしまうので慌てて消す。

 考えるな。考えるなって考えるから余計に考えてしまうぞチクショウ。他の事を考えなきゃ。

 いやでも──……ダメだ。ダメなんだよ。

 私はアティの傍にいたいんだ。

 今のこの幸せを手放したくない。やっと掴んだものなのに。

 私個人として、という望みも勿論捨てたくはないけれど、でも自分の中での喜びの大きさを比較すると、アティの方が比重が重い。


 だってアティが好きなんだもん。可愛いんだもん。目に入れても痛くないもん。いや物理は痛いだろうけど。

 彼女の成長を一番近くで見ていたい。新しくできるようになった事の、最初の目撃者になりたい。アティの事で一喜一憂したい。

 彼女が自立して、無事私の元から巣立って行く姿を見たい。

 彼女が幸せに笑う顔を見ていたい。


 ツァニスの事も嫌いじゃないし。彼は目に見えて変わって来た。

 彼からの、今までとは違う『愛情』も感じる。彼の力にもなっていきたい。だって、私やアティに見せないようにしていた努力を、彼一人に背負わせてのうのうと生きるなんてしたくない。

 恋愛感情はあまりないけれど、愛着は既にある。


 多分、レアンドロス様が今まで私の周りにいた男性とは違うタイプだから揺れるんだ。

 タイミングの問題もある。死にかけた時にいつもいるから、吊り橋効果的な事もあるんじゃなかな。

 それだけじゃない。

 ゼノに──私が乙女ゲームで好きだったゼノにとてもよく似ているから、どうしてもその気持ちにも引っ張られてしまう。遠い記憶の筈なのに、気持ちは思い出そうと思えば思い出せてしまう。


 チクショウ。いいかげんにしてくれ私。消えろ脳内麻薬。

 私が今大切にしたいのはアティであり、そして向き合わなければならないのは夫であるツァニスだ。


 そもそも論。レアンドロス様がどう思ってるのか分からんし。聞く気もない。聞きたくない。

 聞いたら最後、その時点でツァニスの妻でありアティの母でいる資格を失ってしまう。


「記憶って、消せないのかなぁー……」

 そんなどうしようもない事をポツリと呟いた時だった。

 目の端に、動くものが見えた気がした。

 ゴキ──いやいや違うって。窓の向こうだし。

 あれは、なんだろう。動物かな。遠くてよく分からない。

 暗い中で月明かりだけを浴びたその姿は……え、人間じゃね?!

 私は慌てて窓に張り付く。

 窓の外──別荘の庭をヨタヨタと歩く人間だ! 一瞬ニコラかと思ったけれど、それよりは身体が大きい気がする。


 その人物の身体が一度グラリと揺れたかと思うと、地面に倒れ込んだ!

 私は慌てて窓から庭へと走り出る──って、ワイングラス邪魔!!

 私は一度窓の所に戻ってグラスを地面に置いて、再度倒れ込んだ人間の元へと走った。


 倒れ込んだ人間のそばへと辿り着き、その人の上半身を抱き起す。

 仰向けになって月明かりに照らされたその顔は

「ニコラの……お母さん?!」

 だと、思う。

 多分、ちょっとだけ、見覚えがあるから。

 でも、自信ない。

 だって、この人の……顔左半分が痛々しく腫れ上がっていたから。

「誰かッ!!!」

 私は大声で人を呼ぶ。

「誰か来てッ!!!」

 深夜だからすぐには人が来ない──と思ってたら、遠くでドシャリと重い音がする。

 その方へと顔を向けると、レアンドロス様が走ってくるのが見えた。

「どうした?!」

 そう叫びつつ走ってくるレアンドロス様。もしかして、バルコニーから飛び降りました?!


 まぁいい、今はそんな事はどうでもいい!

「人が! 女性が怪我をしていて! 酷い状態なんです!!」

 私は大声でそう叫ぶ。

 すると、廊下にポツポツと明かりがともり始めた。使用人たちも気づいたんだ。

 私たちの元へと辿り着いたレアンドロス様が、私が抱いた女性にランプの明かりを向ける。

 彼女の痛々しい顔が更にあらわとなった。瞼の上が大きく腫れて目が開かなくなってる。頬も腫れて輪郭が変わってた。鼻血に塗れた口元も腫れて、口も切れてるよう。

「酷いな。誰がこんな事を──」

 そう呟きつつも、レアンドロス様が私から彼女を受け取って抱き上げてくれた。

 走り寄ってきた使用人に、レアンドロス様が厳しい声を放つ。

「屋敷の医者を叩き起こして来い! 急げ!!」

 そう言いつつも、彼は彼女の身体をしっかり抱きつつ別荘の中へと急いで戻る。


 本当に、誰がこんな事を。

 少なくとも動物の仕業じゃない。噛み跡がや爪痕がないもの。

 だから犯人は確実に、人間。

 こんなに──顔の形が変わるほど殴るってどういう事?!

 彼女がこんな状態で……ニコラは? ニコラは大丈夫なの?!


 私は心配で騒めく気持ちを何とか落ち着けつつ、レアンドロス様たちの後について行った。

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