第95話 命拾いした。

「れ……レアンドロス様……? なんで……」

 私は、ここにいるはずもないその人の名を呼ぶ。

 呼ばれた彼は、顔をクシャリと歪ませて微笑んだ。


「クリストファー様──アンドレウ公爵からお誘い頂いてな。カラマンリス家も来ると聞いて、久しぶりにゼノの顔を拝みに来た。

 あとは、セレーネ殿とアティ嬢のな」

 バチコンとウィンク一つ飛ばしてくる獅子伯──レアンドロス様。

 不意打ちウィンクやめてっ!!

 私は人妻私は人妻私は人妻私は人妻私は人妻私は人妻私は人妻。

 しかし結局動揺して思わず上半身を起こしてしまった。私の右脇を枕にしていたエリックの身体が、ゴロリとベッドから転がり落ちる。

「わぁ!」

 ちょうどベッドサイドにいた護衛くんが抱きとめてくれた。

 しかし、それでもエリックは目覚めない。ほぼ逆さま状態なのに起きない。どんだけ熟睡中やねん。首がエライ方向に曲がってんぞ。

「んー?」

 枕(※私の左脇)がなくなった衝撃で目を覚ましたアティは、目を擦りながら起き上がった。

「なぁに?」

 寝起きアティ悶絶する程可愛い〜。

 それはその場にいた誰しもが思ったのだろう。みんなの顔がフニャリと溶けた。特にレアンドロス様。

 アティは寝ぼけまなこで私を見上げ、護衛くんを見てマギー、サミュエルと視線を移動する。そして最後、レアンドロス様を見た瞬間、アティの顔がキラキラと輝いた何で?!

「おはよう、アティ嬢」

 フニャフニャの笑顔でそうアティに挨拶する獅子伯。

「……れおさま、おはようございます」

 アティはそう、ポツリと呟く──って、レオ様?!

「アティ嬢、さっそく俺の愛称を覚えてくれたのか。そりゃあ嬉しいな」

 愛称?! 何?! どう言う事何の話っ?!

 知らないぞレアンドロス様の愛称なんて! しかもなんでレオ様……ああ、もしかして伯だから?! それとも、レアンドロスって言えないから?! いつの間にそんな仲に?! 母を差し置いていつの間に親密度上げてんの?!


 そんな私の驚きなど気づかず、レアンドロス様は腕を組んで、少し険しい顔をして私に視線を戻した。

「こんな可愛い娘がいるのに、自ら危険に飛び込むのはいただけない。死ぬ所だったぞ」

 少し咎めるような声音。その声に、マギーとサミュエルがウンウン頷く。わぁ、孤立してらぁ、私。

「農場まで迎えに来て正解だったな」

 レアンドロス様が、そう言葉を締めた。

 ん? と、言うことは

「では、レアンドロス様が助けて下さったのですか?」

 そう尋ねると、レアンドロス様は困ったような笑顔になって首を縦に振った。

 その瞬間、私のわきに座っていたアティが、ガバリと両腕を上げる。

「れおさまがね! ざばーっていって、ばしゃばしゃってなったの! そしたらね! ざばぁっておかあさまでてきたの! それでね! れおさまが、おかあさまをどんどんしてね! ふーってしたのっ!!」

 頬っぺたを真っ赤にして、身振り手振りで解説してくれるアティ。レアンドロス様が私を助けてくれた一部始終を、興奮しながら教えてくれた。

 うん、うん、うん。可愛い。とにかく可愛い。すこぶる可愛い。半分ぐらいしか、言ってる意味分からなかったけど。

「レアンドロス様がざばぁって、川に入ってくれたの?」

「はい!」

 なるほど理解。

「それで、私をざばぁって川から引き上げてくれたんだね」

「はい!」

 ……その後が分からねえな。どんどんしてふーとしたって、何だ?

「えーと、それから……?」

「こうしたの!」

 私が首を捻ると、アティが私のお腹に両手を当ててくる。

 ……あ? もしかして、心臓マッサージか? ああ、だから胸が痛いのか。心臓マッサージされたらそりゃ痛いわ。でも、肋骨は折れてないみたい。レアンドロス様上手いな。

 そうかそうか、なるほどなるほど。

 じゃあ、ふーっていうのは──……

 ……。

 ……。

 うん、そう、よ、ね。

 救急救命の基本よね。

 うん、理解理解。

 はいはい。

「いっぱいふーってしたらね! おかあさまがおせきしたの!」

 うん、大丈夫だよ、アティ、理解したから。

「つまり、心臓マッサージして、人工呼吸したって事ですね」

 マギー!! 分かってるから皆まで言うなや!!!


 ……いや、違う。そうじゃない。違くないけど違うぞ自分。

 単純に心肺蘇生してくれたんだ。呼吸が止まってたんだな。レアンドロス様だったから心肺蘇生方法を知ってて、それで私は助かったんだ。

 そう、レアンドロス様は蘇生してくれたんだ。メインはそこだ。それ以外は瑣末さまつな事。

 私はベッドの上ではあったが、背筋をスッと伸ばす。

「レアンドロス様、助けていただきました。命の恩人です。感謝してもしきれませんが……本当にありがとうございました」

 身体を折って丁寧に頭を下げた。

「「「また?」」」

 サミュエル、マギー、そして護衛くんの声が揃う。

「アティを誘拐犯から助けてくれたでしょう?」

 そう答えると、三人は『あぁ〜』という顔をした。何だよ。何でちょっとガッカリしてんだよ。何を期待してたんだよ。


「それは構わん。恩義を感じる必要はない。俺は俺が出来る事をしたまでだ。が──」

 レアンドロス様は首を横に軽くフルフルと振るが。

「もう少し自重してくれ。命がいくらあっても足りないぞ。俺は、セレーネ殿の葬儀になんか出たくない」

 眉根を寄せて、そう少し厳しく私をたしなめた。


 マギー。

『もっとガツンと言てやれ』って小さく呟いたの、聞こえたぞ。


 ***


 もう大丈夫、いや寝てろ、その押し問答を、私VS獅子伯レアンドロス様+家庭教師サミュエル+子守頭マギーで繰り広げて、負けた後。


 どうしても起きていたいならこれでもやってろ、とマギーに押し付けられたのは刺繍だった。


 刺繍……刺繍か……ししゅうめェ……

 私は刺繍が苦手なんだよッ……

 でも。

 我が実家・ベッサリオン領では、刺繍は基本中の基本技術。

 民族衣装は美しい幾何学模様の刺繍が施されている。これが出来て女性は一人前なのだ。男性でもやるよ。男性の方が意外と凝り性が多いのか、中には緻密な超大作を作る男性もいる。

 私には緻密さなんて1ミクロンもねぇけどなっ!!


 しかし。

 私はこの天敵と対峙させられている。

 何故なら。

 アティにも取り組んで欲しいから……ッ。

 アティには、ナイフの扱い方だけではなく、広く色々な事を知ってほしい。それは、ナイフの扱い方や馬の乗り方だけではない。火の起こし方は勿論、こうした刺繍や編み物、簡単な料理など、『性別による役割』を超えて様々な物に触れて、とりあえず簡単な事は自分で出来るようになって欲しいから。

 そして、自分の得意不得意、好き嫌いを認識して欲しい。

 どこにアティの得意な事が隠れてるか分からないから、取り敢えずまずやってみるしかないしね。

 それには、お手本を示さなければならないッ……!

『私は苦手だからやらない』では、示しがつかないのだ。くっそう。

 自分の指を針でブッ刺す、とかいう事はしない。流石にそれはない。

 しかし、綺麗に刺繍できない。寄っちゃうし歪むし間違えるし。

『これだから脳筋は』とマギーに溜息をつかれてしまった。


 マギーに少しずつ教えられて進めるアティは、まずは意図した場所に針を刺す練習をしていた。

 ちなみに、刺繍をやるよってなった時、勿論エリックも『お(↑)れ(↓)もやる!』って言い出したけど五分で飽きて、レアンドロス様、そしてイリアスとゼノを伴ってどっか行ってしまった。

 ああ~……私もそっちに行きたかったぁ……

「そこ。集中」

 窓の外をねたましく見ていた事をとがめる、マギーの厳しい声が飛んできた。

 はーい。

 そうだよね! アティのお手本にならなきゃいけないんだから! 苦手でも楽し気にやらないとダメだよねっ!

 楽し気にっ! 楽し気にっ……たのしげに……針ブチ折ったろかこの野郎ッ……なぜ形通りにいかないんだよっ……寄るなっ! 歪むな!! もう!!!


 コンコンコン

 ドアがノックされた音に集中力を欠き、思いっきり指に針をブッ刺してしまった。

いッたァァァ!!」

 イライラしていたから力いっぱい刺しちゃったよ!! 痛い! マジで痛い!!

「……刺繍以外の模様を布につけないでくださいよ」

 マギーから辛辣しんらつな声が飛んだ。もっと心配して……

「いてて……どうぞ」

 私は自分指を咥えつつ、ノックされたドアに向かってそう許可を出す。


 すると、部屋の扉がゆっくりと開かれた。

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