第75話 熱を出した。
背中がゾワゾワしてたのは、別に悪い予感がしていただけだからじゃなかった。
熱出した。
しかも結構な高熱出した。厳密には、夜の時点でもう出てたみたい。
マギーと話が終わった後、私は倒れるように自室のベッドにもぐりこんだ。
いくら夜といえど、こんなに寒いワケがないという程の悪寒に
朝方目が覚めたら、身体は震えるほど寒いのに頭は火が出そうなほど熱く、そして地面が回ってた。
「季節の変わり目でお疲れが出たんでしょうな」
屋敷専属の医師が、あっさりそう告げて出て行った。
熱冷ましはくれたけど、体温があがりきっていない時点では使うなと言われた。ヤバイぐらい上がったら使えと、世話役のクロエに念押ししていた。
まだダメなの。マジですか。
アティとゼノが心配そうに、部屋の入口からこちらを覗き込んでいた。
風邪がうつるといけないからと、部屋へ入る事を禁じた為だ。アティの肩を抑えながら、マギーが呆れた顔して私を見ていた。
うう……視線が痛い。
ツァニス侯爵は部屋には来なかった。
まぁ、昨日あれだけ散々ボッコボコにしたんだ。来ないのは当然だな。
「今日こそ、部屋で大人しくしていてくださいませ」
クロエが、念押ししてきた。圧力が凄かった。ですよね。すみません……
あー。でもなぁ。
確か今日はエリックとイリアスが来る筈だったんだよなぁ。
執事長が断りの連絡を入れると言っていたけれど、大丈夫かなぁ。
部屋の扉が締められて全員いなくなると、途端に訪れた静寂に耳が痛くなった。耳鳴りがする気がする。
でも動けないし丁度良い機会だから、最近から今日まで起こった事を頭の中で整理しよう。
頭の中で──アカン。なんか、頭の中だけで考えるの難しくなってる……理路整然と考えられない。
ってか頭あつい。きもちわるい。のどかわいた。さむい。からだがいたい。きもちわるい──
──ふと気づくと。私はある屋敷の中に立っていた。
あれ? ここって……実家じゃね? あれ? なんでここに……って、そうか。実家にいるのは当たりまえか。だって自分の家なんだもん。実家だし。実家なのに、なんだろう、なんか知らない場所でもある気がするなぁ。気のせいか。
ふと。長くどこまでも続く廊下の先に、人が立ってる事に気が付いた。
あれは
「セルギオス!」
セルギオス。私の兄。セルギオスだ。今までどこに行ってたんだろう。ずっと会いたかったのに。
遠いけど、分かる。あれはセルギオスだ。私が見間違えるワケがない。
彼は私の声に気づかないのか、むこうを向いたまま振り返らない。
「セルギオス!!」
すっごく頑張って呼んでみたけれど、喉が苦しくて声が出ない。
なんとか彼に気づいて欲しくて私は彼の方へと近寄ろうとする。
しかし、身体が物凄く重い。頑張って足をあげようとするのに全然前に進まない。
「セルギオス!!!」
気づいて欲しくて全力で叫んだ。苦しい。息が詰まって上手く声が出ない。身体も動かない。凄く頑張ってるのにうまく先に進めない。
そうこうしているウチに、向うにいた筈のセルギオスの姿がなくなってしまっていた。
なんで、どうして。
そう思っていると、気づくとまた違う場所にいた。
外だ。ああ、セルギオスとよく遊んだ崖の上の老木のところ。
夕日が見える。茜色に染まった空が、なんだか酷く毒々しい。
「セレーネ」
いつの間にか後ろに立っていたセルギオスが、私に声をかけてきた。
どこに行ってたんだろう。すっごく探したのに。
セルギオスが、私を笑顔で見てる。
「お前だけ幸せになって狡いな」
え、なんて?
「お前だけ自由にできて狡いな」
違うよセルギオス。私そんなつもりじゃない。
「僕はこんなに辛いのに、なんでお前ばっかり」
違うったらセルギオス。私は──
「なんでお前なんだよ」
分からないよ。私だって分からないよ。セルギオスの方が頭もいいし要領もいい。なんでもすぐに上手くなっちゃうし、皆にすっごく好かれてた。
なんでお前なんだってみんなが言ってるけど、私だって分からないよ。
「お前は女の癖に弁えないし乱暴者で、手が付けられない。女が学を付けたって生意気になるだけだ。女が一人で馬になんか乗るんじゃない。剣なんか覚えるんじゃない。武道なんて身につけるんじゃない。可愛げがない。反抗するな。殴られても大人しく下を向いてろ。歯向かうんじゃない。何を言われても笑顔でいろ。何も言われても丁寧に接しろ。抵抗するな。男に求められたら素直に従え。抱いてもらってるんだからありがたく思え。女として見てもらえるウチが花なんだから。それ以外に女に何の価値がある。大人しくしていろ。父に従え。男に従え。ケアをしろ。ケアされなくても文句言うな自分でなんとかしろ。家に居ろ。とじこもっておけ。外を見るな。何も見るな。何にも口出しするな。そこで大人しく裸で寝そべっておけ。若いうちしか価値がないんだから。何も考えるな。回りに流されておけば、楽になれるぞ」
やめてよなんでそんな事言うの? セルギオスはいつも応援してくれてたじゃん。
「僕が死んで、お前が生き残ったんだから。せめてそうやって世間の役に立て」
何言ってるの? セルギオスは今ここにいるじゃん。死んでないじゃん。死んでないじゃんか。死んでないよね? そんなワケないよ。だってセルギオスが死ぬ筈ないもん。
「役立たず。お前が死ねばよかったのに」
──やめてよやめて。
「やめてよッ!!!」
自分のその声で、ハッと気が付く。
天井が見える。カラマンリス邸の私の部屋の天井が。
胸が苦しい。物凄い倦怠感で身体を動かすのがツライ。息が苦しい。汗をびっしょりかいていて、ネグリジェが肌に張り付いていた。
夢だ。
夢を見ていた。
どっからが夢だ? いや、そもそもセルギオスが出て来てる時点から全部夢だ。
だって、セルギオスは死んだのだ。死ん──
胃からせりあがってくる猛烈な吐き気に、私は枕元に置かれていた洗面器に顔を突っ込んで吐いた。
ヤバイ。もう勘弁してよ。
ただでさえ身体がツライのに、精神攻撃してくんな。誰がしてきてんのか知らんけど。
いやしかし……来たなぁ……久々。心にダイレクトアタック。心がへし折れるどころか木っ端微塵だ……
でも。これだけは分かる。セルギオスはあんな事言わない。確かに私の健康を羨んでいる側面もあった。
でも、彼だけだ。泣いてる私を慰めてくれたのは。『セレーネはセレーネのままでいいんだ』って言ってくれたのは、兄だけだ。
こうも言っていた。
『僕の代わりをする必要はないんだよ』
って。
──ああ、ダメだ。今日はダメだ。耐えられない。
「セルギオスに会いたい……」
涙がとめどなく溢れて来た。汗と一緒に枕に染み込んでいく。
クロエが入ってきたらビックリしちゃう。
止められない嗚咽が外に漏れないように、私は布団を頭まで被った。
***
目を開けても、そこは暗闇だった。
身体の感覚が変だ。膨張しているような圧縮されているような。身体にかかってる布団が痛い。耳がおかしい。耳に水が入ってしまった時のような、何かに塞がれているような感じがする。
また、夢を見ているのかな。
薄暗いところに、誰かの影がある。その陰が、私をじっと見下ろしている。
でも不思議と嫌な気持ちはしなかった。
だから
「セルギオス……?」
そう思って声をかけてみた。
影はゆっくりと動き、汗で髪が張り付いた額を冷たい手のひらでそっと撫でてくれた。
セルギオスだ。きっとそう。だってこんなに私に優しいのは彼だけだから。私に優しくしても対価を求めないのは、彼だけだから。
会いに来てくれたんだ。願ったから、セルギオスが来てくれた。
「セルギオス……私、ダメかも……」
痛みが走る喉でなんとかそう呟くと、相手の身体が動いた。『何が?』と聞かれているような気がした。
「少し疲れちゃった……人とぶつかるの……心がすり減る……自分の方が変なんじゃないかって……時々、そう思っちゃうよ……」
もしかしたら、私の方が頭がオカしくなって、認知が歪んでしまっているのではないかと、思えてしまう。こんなに沢山人とぶつかるのは、つまりそういう事なのではないかと。
「でも……」
違う、きっと、そうじゃない。
「黙ってるとモノ扱いされるんだ……モノ扱いされる事が正しいなんて、思えないんだよ……少なくとも、アティがそうされるのを見るのは嫌だ……」
涙が溢れてきた。
そう。セルギオスもアティも。私が大切にしている人を、モノ扱いされる事を見るのは悲しい。私も、自分がモノ扱いされる事は嫌だ。
セルギオスが、私の涙を拭ってくれた。
そして彼は言う。少し肩の力を抜いたらどうだ、と。
私は首を緩く横に振る。
「油断してると足元
何故かみんな、私に膝をつかせて服従させたがる。だから、油断していたらあっという間に底辺に転げ落とされる。
「みんな……私の事が……嫌いだし……」
声を上げる女が嫌い。口うるさい妻が嫌い。
笑顔でニコニコ、何をしても許して包み込んでくれる女では、私がないから。
セルギオスが笑う。お前でもそんな事を心配するのかって。
「そりゃね……敵意向けられるって疲れるし……」
敵意も好意も、相手が期待する下心が透けて見えるから嫌だ。
セルギオスからは、唯一そんなものは見えなかった。
身体も求めない。愛も欲しがらない。双子だから、妹だからとも言わなかった。
「でも、セルギオスがいるから、平気。あとアティも……アティもね、私をちゃんと見てくれるんだ……
だからね……アティを守りたいの……セルギオスは……」
守れなかったから。私が弱すぎて。
なんだかまた眠くなって来た。夢を見てるのに眠くなるなんて不思議だね。
眠る前に、私はセルギオスに手を伸ばす。
すると、彼は私の伸ばした手をそっと握ってくれた。
『おやすみ』
そう言われたので、私はそのまま素直に意識を手放した。
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