本編

第62話 夏がはじまった。

 春が終わり、夏へと移り変わる。

 春を彩った花々が散って実を結ぶかたわら、木々の緑が濃くなり鬱蒼うっそうしげる。

 空の太陽の日差しは強さを増し、地面に落ちる影の色が深くなり──


「暑い……」


 私はヘバっていた。

 マジすか。マジすか。まだ夏本番じゃないってマジすか。もう既に湿気と暑さで死にそうなんですけど、これから更に酷くなるって、もうそれって人が住む場所じゃないんじゃないですかね違いますゥ!?


 私は北方の山岳森林地帯出身なので、寒さにはめっぽう強い代わりに暑さに激弱。

 特に、この湿度が無理……なんなのこれ。肌がふやける。気持ち悪いィ……

 いや、実は遠い記憶の中にある『日本の梅雨』よりかはマシだと、脳みそのどっかが自分を慰めていたけれど。

 無理なモンは無理ィ! 暑いんじゃ! 湿気が酷いんじゃ! 除湿器持ってこいやオラァ!!! そんなものはねぇ!! 早く開発されてエアコン様!!!


 既に汗だくでへばっている私とは対照的に、夫のカラマンリス──ツァニス侯爵は平然とした顔。さすがに木綿のワイシャツ姿でネクタイはしてないけれど。優雅に談話室のソファに浅く座り、足を組んで書類を読んでいた。

 娘のアティも軽やかな真っ白のワンピースに身を包み、反対側のソファで本を参考に単語の勉強をしていた。全然暑そうじゃない。肩には春先に子守頭のマギーが編んでいたサマーニットをかけてるのに。


 なんで? 何が違うの? 身体の作り? 遺伝子? それとも、そのワイシャツとかワンピースって普通の木綿に見えるけど実はエアコン機能搭載してんの?

 第一、コルセットがいけないんだよコルセットがッ!

 誰だッ!! こんなモン開発したヤツはっ!! ファッション業界のバーカ!!!


 まぁ、アティの真っ白でフワフワなワンピース姿が、もう完全に天使そのものだから、それが見れるだけでも幸せなんだけどさ。

 ……え? アレ、アティだよね? もしかして、暑さで朦朧もうろうとしてきてて、実は私を迎えに来た本物の天使だったりする?

 アティ並みに可愛い天使だね。アティと良い勝負の可愛さだよ。

 ……そんな天使と一緒に召されらいいかも……


 良くなァい!!

 私は気合を入れなおす。


「ちょっと外に出てきます!」

 私はガバリと立ち上がって、そう高らかに宣言した。

 そんな私の動きに、窓の近くで分厚い歴史の本を読んでいた、騎士見習いでウチに下宿しているゼノがビクリと肩を震わせて、本の向うから驚いた視線を私に向けて来る。

 同じく、アティもびっくりして「にゃ!」と声あげた。

 にゃ! って! にゃ! って!! 可愛すぎる!!! こんなところに猫さんがいるのかなー!? 可愛い猫さんだねー!? ……ヤバイ頭がどうかしそう。暑さのせいか。アティが可愛すぎるせいか。


 素敵に優雅で安穏とした幸せな朝食後の風景だけど、このままここで座ってたら、溶けて身体の形が保てなくなる!!

「しかしセレーネ、先ほどから暑い暑いと言っていたではないか。外に出たらより暑いぞ」

 まるで私と体感温度が十度ぐらい違いそうなツァニス侯爵が、そう呆れた声をあげた。

 同じように、アティがビックリした顔で、突然立ち上がった私を見上げている。

 確かに! 確かにこの談話室は、窓からささやかな涼風が吹き込んできて良いかもしれないけれど!!

 私には、ささやか過ぎて焼け石に水! 足んねぇ! 足んねぇよ風!!

 何ていうんだろうか!? 熱がね!? 体内に熱がこもって熱暴走しそうなんだよね!? それってじっとしてるからだと思うんだよね!? 違う!?

「兎に角身体を動かしたいのです! じっとしているのは性に合わない! スッキリしたいのです! 『気持ちいいな』って思える事をしたいのです!」

 そう! こんなジリジリじわじわ汗をかくんじゃなくって!

 身体が動きたいと、有り余ったエネルギーを消費したいと叫んでいるんだよ!


 私のそんな言葉を聞いたツァニス侯爵は、ふむ、と少し視線を下げて考えてから、口を開く。

「それなら私が今夜お──」

「ツァニス様。アティ様がいらっしゃる事をお忘れなく」

 近くで水出し茶をグラスについでいた子守頭のマギーから、絶対零度のツッコミが飛んだ。

 素敵マギー! マギーが言わなきゃ私がツッコミ入れてた! しかも、もっとどぎつい罵声を浴びせるところだったよ! ファインプレーだよマギー!

「……既に、シャワーを浴びたかのように汗だくに見えるのですが」

 嫌味ったらしく、家庭教師のサミュエルが、ゲンナリした顔で私にそう漏らす。

 確かに! 知ってる! 言われなくても自分で分かっている!


「というワケで! 出かけませんか!? 例えば街に行ってみるとか!」

 私はパチンと両の手を合わせて提案してみる。

 思ったが吉日! 有言即実行! 私はマグロ! 泳いでないと死んじゃう!

「えぇ……また急すぎませんか?」

 サミュエルが嫌そうな顔した。

 ですよね。確かに急でした。いつも急ですみません。

 しかし。

「いきたい」

 ツルの一声が、サミュエルのそばから上がった。

 アティだ。

 本から上げた顔から、溢れんばかりに目を見開いてキラッキラさせている。菫色ヴァイオレットの瞳から小さな輝く星を沢山ポロポロ零しながら、サミュエルの顔を見上げた。サミュエルがウッと言葉を詰まらせる。

 ははは! アティの頼み事を断れるかなー?

 アティも随分と活発になった。提案するとノッて来る事が増えたなぁ。良い事だ。嬉しい。素敵。流石アティ。最高。可愛い。


「ゼノも行きますか!? まだこちらに来たばかりです。せっかく領地外に出たのだから、色々見て回るのもいいでしょう」

 私がそう言うと、そう言われると思ってなかったのかゼノが目をまん丸にして私を見返してきた。

 え? 意外だった? まさかゼノを置いて行くワケないじゃん。

 ゼノの養父・レアンドロス様に『剣を教えてくれ』と言われたけど、『街に連れて行くな』とは言われてないもん。見聞を広げる良い機会だって!

 ゼノは、手にした本を閉じて少し逡巡する。

 しかし、その表情は嫌そうというより『どうなんだろう?』と自分に問いかけているような顔だった。

 うん、ゆっくり自分で考えるといいよ。ゼノはゼノのペースで進めるのがいい。

 ここでは、誰もゼノに強制しない。

 カラマンリス邸に下宿中のゼノは『メルクーリ辺境伯の養子で嫡男』じゃない。

 ただのゼノだ。

 ここにいる間は、せめてその責務からは解放させてあげたい。

「行きます」

 ゼノは、幼い顔にちょっとはにかんだ笑みを浮かべて、そう頷いた。

 そうこなくっちゃ!


「ツァニス様はどうしますか?」

 私たちのやり取りを微笑ましく眺めていた侯爵に尋ねてみる。

 彼は口の端を少しだけ持ち上げたが

「お誘いは嬉しいが、私はやる事がある」

 そう、やんわりと断った。

 ま、そうだよね。書斎にこもらなくなったとはいえ、彼には仕事がある。先ほどから見ている書類も、多分仕事のうちの一つなのだろう。

 しかし、その言葉に目に見えてガッカリしたのはアティだった。

 さっきまでキラキラしていた瞳を陰らせる。

「おとうさま、いかないのですか?」

 ああん! そんな切なげな声で! 侯爵羨ましい! 私にもそんな風に言って欲しい!!

 父親と一緒に出掛けられると思ってウキウキしてたんだね。そうか残念だったねアティ。

 ……え? ちょっと待ってアティ。私だけじゃ不満なの? 私だけじゃ足りないの? アティ……それはそれでちょっと私も切ないんですけど。


 肩を落としたアティを見たツァニス侯爵が、ソファから立ち上がって向かい側に座るアティの前に膝をつく。

 そしてその頭をゆっくりと撫でた。

「すまないなアティ。私は仕事がある。セレーネとゼノと楽しんでくるといい。

土産話を期待している」

 ……侯爵も変わったなぁ。

 そんなちょっとしたスキンシップすら、以前は全くしなかったのに。

 ほら。実際に、すぐそばにいる家庭教師サミュエル子守頭マギーが、目をひん剥いて驚いてるよ。

 アティ自身も、父親の変化にビックリしているようだった。口をポカンとあけてツァニス侯爵の顔を見返している。

 しかし、ジワジワとその顔が崩れ、花が綻ぶかのように笑顔になった。

「はい!」

 元気よく返事し、侯爵の首に抱き着いた。


 幸せの光景。いい。うん、いい。私、イイ仕事した。

 そうやって胸に広がる甘い気分に浸っていると

「セレーネ様は身支度を。その状態で行く気ですか?」

 冷たい台詞を、子守頭マギーからぶっかけられた。

 確かに。ですよね。はい。分かっております……


「それでは、それぞれ準備して玄関で集合で!」

 私は気を取り直して景気よくそう言うと、ゼノとアティが元気よく「はい!」と返事をした。


 街への散策! 楽しみ過ぎる!!

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る