第41話 ヒントを示した。
侯爵の手が私の肩にかかり──押し返された。
「服を、着てくれ。……頼む」
彼は私の身体を押し返して、ソファの上から転がり降りる。
そしてサッと立ち上がってプイっと私に背を向けた。
待ってましたとばかりに、私は落とした服を着た。寒かった。まだこの時期は
……侯爵、我慢してくれて良かった。
完全に彼を幻滅せずに済んだ。
アティの父親だから、幻滅したくなかった。
まぁ、まだ油断は出来ないけれど。
私に背を向けた侯爵は、ソファ横のテーブルに置かれていた酒をサッと継いでグッと
酒を飲み下し大きく息をついた侯爵は、背中越しに私に尋ねて来る。
「……私はどうすればいいのだ」
え。
ここまで来て、まだそんな事言うのかよ。
私はネグリジェの紐を結び終わって、床に落ちたガウンを拾いつつ口を開く。
「それを私に聞いてどうするのです? ツァニス様の意思はどこに?」
そう問い返すと、彼の肩が少し落ちた。
「貴方はもういい大人です。立場もある。周りに言われるがままにする時期は、とうに過ぎましたよね。
貴方はもう自分の意思で動ける筈です。その権利もある。誰にも邪魔はされない。
既に、そうして来た事もある筈です。
なのに、今度は私の言いなりになりたいのですか?
侯爵自身、お気づきではないのかもしれないですが、例え貴方の母だろうと、私であろうと、貴方の意思を変える事は出来ないのですよ」
そう答えたが、それは彼が期待していた言葉ではなかったのだろう。
背中を向けたまま彼は動かなかった。
はぁ。
まあ、仕方がない。
ヒントぐらいは出してあげなきゃね。自分の夫だし。放置しても私の立場も悪くなりかねない。
「私が貴方と結婚している事は揺らぎません。国にも認められた事実です。
そして──
貴方は私の正解を探す必要はないのです。
貴方は貴方の希望通りに動けばいい。
それによって、私とぶつかる事があるかもしれませんが、それは私が貴方と違う人間で、貴方とは違う意思や考えを持つからです。
必要なのは、二つの違う意見があった時に、妥協点があるかどうかをお互いで探す事ではないでしょうか?
結果、折り合いがつかない事もあります。でも、それはそうなった時に離れればいいだけで、妥協点を一緒に探す事にこそ、意味があるのではないでしょうか?
それに、お互いに我慢して溜め込めば、いずれ爆発して破綻します」
お互いに意見し合わないと、相手に押し付けたり
私も侯爵の意見を聞かなければ、彼は本当はどう思ってるかなんて分からないし、決めつけられ、押さえつけられたら勿論反発する。
彼は、今まであまりそういうやり取りを、身近な人としてこなかったのだろう。
父の言う事に従い、母の言う事に従い。
何も言われない部分だけ、自分の好きに出来た。
今だから分かる。侯爵が私との結婚を質素に内輪だけで済ませた理由。大奥様に、否定されるのが怖かったから、言わずに結婚したんだ。
恐らく──彼は侯爵嫡男として、正解しか求められてこなかったのだろうな。しかも、失敗したら
確かに。身分を考えれば『失敗を許されない』かもしれない。
だけれども、子供の時は違う筈だ。子供は失敗するもの。失敗を繰り返して学ぶものの筈。
その、本来失敗を許される子供の時期に、失敗する事に慣れておくべきだった。しかし彼にはそれが許されなかったのかもしれない。
彼も彼で、窮屈な子供時代を過ごしたのだろう。
だからといって、彼の今の行動を認めるのはまた違う。私が彼の言い分を全て享受して自分が我慢しなければならないのは嫌だ。
私も個人だ。彼と同じように。
私にも好みや我慢の限界もある。
私は侯爵のケア要員ではないのだ。
例え妻でもそんな義務はない。ケアするとしたら、それは私が彼を愛した時であり私がそうしたいと望んだ時だ。少なくとも今ではない。
それに、私は侯爵の付属品じゃない。
彼は、自分で自分の行動にケジメや折り合いを付けるべきだ。彼はもう立場ある人間なのだから。
「貴方が信じたいものを信じればいい。
私の言う事よりレヴァンの言う事を信じたいのであればそうするのは貴方の自由です。
貴方に誰も強制はしてはいません。それは貴方の選択です」
それだけを告げ、私は侯爵の書斎を後にした。
……うん。
侯爵の身体、反応してたなぁ。
よく思いとどまってくれた。
ちょっと、そこは嬉しかった。
***
「……戻ってくるとは思いませんでした」
そう、驚きの声をあげたのは子守頭のマギーだった。
寝付いたアティの様子を見る為に、アティの部屋に来ていたようだ。
そこで彼女と鉢合わせになった。
「旦那様に呼ばれたんですよね? 今日の事で」
アティが眠る部屋では話が出来なかったので、私はマギーと部屋の外に出た。
今日の大奥様&レヴァンとのタッグマッチは、家人の間でも話題になっていたようだ。まぁ、そりゃそうか。
「なんで? 戻って来るよ。アティと眠りたいもん」
むしろ、今日みたいな日はより一層、アティの頭皮の匂いで癒されたい。身体中、その香りでいっぱいにしたい。フワフワな髪の毛を撫でて彼女をぎゅうっと抱きしめて、アティの事だけ考えていたい。
「……まぁ、そうですね。事の後でも、アティと眠る事は、出来ますよね」
「え」
マギーの言葉に、思わずダミ声が漏れた。
『事の後』とか言われたくない。
「やめて。なんでそうなるかなぁ」
ゲンナリしてそう言うと、マギーは意外そうな顔をした。
「でも、あの件をうまく収めるにはソレが一番早いですよね」
ああ、確かに。マギーの言い分も一理ある。
侯爵の機嫌を取りつつレヴァンとはもう何もないのだと証明するのは、それが一番早い。
しかし
「脳みそ、あるからね。向こうにも、あると信じたいし」
言葉が通じなくて、自分の身が危険ならそうする。
でも、そうじゃないのだと、まだ少し信じたかった。
「……意外と潔癖なんですね」
マギーはヤレヤレといったテイで、大袈裟に肩を落として溜息をつく。
私はゆるゆると首を横に振った。
「別に潔癖なワケじゃないよ。その手段しかないなら私はそれを選ぶよ。
ただ、擦り減るんだよ。気持ちがさ。鈍感になって麻痺してく。自分の中で自分の価値も低くなってく。
それが嫌なだけ。
私は私を大切にしてんの」
自分で自分を大切にしなかったら、誰が大事にしてくれるんだ。他人は心変わりする。そこに依存していたら危険だ。
それに、自分を雑に扱ったら、他人も私を雑に扱う。
それは、身に染みて理解しているつもりだ。
「……また、随分と自分を過大評価してるんですね? 貴女に、そんな価値が?」
マギーの
エグいな、彼女の言葉は。
私は笑って彼女の顔を見返した。
「あるよ。私の中ではね。
他人の中の私の価値なんか知らねェ」
そう言い捨てると、マギーもフッと鼻で笑った。
「
まるで、それは彼女が彼女自身に言ってるようだった。
「あ。ちょっと待って。私だって常にずっと鋼鉄じゃないよ? 傷ついたり疲れたりした時は、アティの匂いを嗅いで癒されたいし」
一応、否定しておかないと。私だって弱る時もあるからね!
「……変態ですね」
マギーが言葉とは裏腹に、そう楽しそうに笑った。彼女は笑うと眉尻が下がってちょっと困ったような柔和な顔になる。
「え、マギーはアティの匂いに癒されないの?」
そんな筈はない。
「そうだとしても、誰にもそんな事言いませんよ」
あ、なるほど。そうか、確かに。
うん。じゃあ、マギーもアティの匂いに癒されてる、と。でもそれは隠している、と。承知した。
「あ、マギー。時間あるなら少し飲もうよ。ワイン、自分の部屋に隠してるんだ」
時々、飲まずにはいられない時用の秘蔵ワインだ。もう既に開けてあるから、酸化し切る前に飲み切りたいし、今日はなんだか飲みたい気分だった。
そう尋ねると、マギーは視線を宙に漂わせ少し考える。
そして
「私はワインにはウルサイですよ」
そう、ニヤリと笑った。
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