第37話 家庭教師を落とした。
「あの場では水を差すワケにもいかなかったので今聞くが──」
「あの場で聞けないなら聞かないでください」
今日の修行が終わって昼食を取り、エリックたちは帰宅しアティがお昼寝の為に部屋に戻った時の事。
屋敷の廊下でこっそり話しかけてきた
一瞬苦々しい顔をしたサミュエルだったが、気を取り直したのか改めて口を開く。
「アティ様にナイフの扱い方など教えてどうする気だ」
ああ。あの場では同意したような顔をしてアティに色々教えてくれていたのに、内心疑問に思っていたワケね。
……それなら最初から止めに入るべきだろうに。
アティに遠慮したのかエリックやイリアスに遠慮したのか。
そういうのは「心遣い」とは言わない。
「私の行動に疑問があって、アティに教えるべきではないと思うのであれば、その場で進言してください。ちゃんと意図を説明して、アティにも納得できるようにしますし、貴方の言い分に私が納得すれば、教えるのをやめますよ」
「どの口が……言っても
何なんだこの男は。後からグチグチぐちぐちと。
しかも。とんだ言い草。失礼な。私にだって聞く耳はあらぁ。
「
まぁ、貴方が納得するまで説得はしまくりますけどね。貴方が納得しなければ教えるのを
私だって自分が完全に正しいとは思っていませんし。野蛮な? 『北方の暴れ馬』ですから? 私の
「ぐっ……」
嫌味をぶち込んでやったら、
そうだよ。今言ったのは、以前お前が私にいきなり面と向かって吐き散らかした言葉やぞ。
「……じゃあお前──セレーネ様は、アティ様にナイフの扱いを教えた方が良いという正統な理由をお持ちなのか」
お。持ち直したな。意外と打たれ強いな。
私は、勿論、と
「確かに。貴族令嬢はナイフなど使う事は、通常生活の上では殆どありません。
しかし、それは物事が順調に進んだ場合のみです。
将来はどうなるか分かりません。貴族令嬢ではなくなる可能性もあります」
そう、例えば、私が何か失敗して、アティがやっぱり悪役令嬢として断罪されてしまった時とかね。
「身の回りのあらゆる事を他人任せにして、自分独りでは何もできない状態のままだと、『いざ』が来た時に困るのはアティ自身です。
そんな日が来ない事が理想ですが、その日が来ない保証はないのです」
『しない』と『できない』では、
「刃物を使う事は生活の基本中の基本です。何も、私のように鹿を解体できるようになれ、とは言いません」
「……鹿、解体できるのか……」
そこはツッコミノーセンキュー。
「しかし、ナイフを使う事にすら慣れていないのでは、そもそも生活も成り立ちませんから。
その『いざ』という時に私が
「随分、悲観的な事を言うな」
サミュエルが、ポツリとそう感想を
確かにね。悲観的と言われたらそうかもしれない。
でも、悪役令嬢・アティには、その悲観的未来が濃厚なのだ。今から対応策をあれこれ模索していても無駄じゃない。
「楽観的でいたくても、できない事もありますから」
そう言ったら、思わず苦笑が
私だって、気楽に生きられるなら気楽に生きたい。
でも、状況がそれを許さない事の方が、貴族という身分で生まれてしまった女には多い。いや、貴族に限らない。今の状況の中では、女性という性別に生まれてきたが最後、楽観視しては生きていけない。
あ、そうだ。
大切な事を
「一つ、聞きたい事があります」
私が改めてそう言うと、何故かギクリと肩を震わせるサミュエル。なんでじゃ。
「な……なんだ」
そう身構えんな。
「貴方も、アティには『誰か貴族の男と結婚してその男の子供、しかも男児を生む事が、ただ一つの正解』だと思いますか?」
声のトーンを落としつつ、しかし真剣にゆっくりと噛んで含めるように、サミュエルにそう尋ねた。
一瞬、すぐに口を開きかけたサミュエルだったが、私が何を言わんとしているのか気づいたようで、その言葉を飲み込んだ。
そして、思案する。
そうだ。ここでうっかり「それがどうした?」とでも返答してみろ?
前にされたあらゆる罵倒をしかえしてやるからな。
よく考えて返答してくれよ。
暫く視線を泳がせていたサミュエルだったが、小さく一つ息を吐いてから顔を上げ、真っすぐに私を見て言葉を口にした。
「正解だとは思わない。が、一つの道ではあるだろう」
そうだね。
私が欲しかった言葉はそれだね。
でも、それだけかな?
私が何も言わずただニコニコと、彼からの更なる返答を待っている事に気づいたサミュエルは、視線を一瞬下げた。
「……アティ様にそうして欲しいか、と言われたら。正直そうして欲しいと思う。それがアティ様が『安全に生きられる道』だと思うから」
彼の返答に、私は少し、安心した。
良かった。思考停止していないようで。
『そういうものだから』とか言われたらどうしようかと思った。殴らないよ? 足をひっかけて転ばせるぐらいで済ましてあげたよ。
そうだね。
サミュエルの言う通り、現状、女が安全に生きる道のスタンダードがソレだ。
それがスタンダードであれば、家庭教師である彼はその道にアティを導くのが普通だろう。
彼のそんな言葉を受けて、私は小さく、笑った。
「──もし、それ以外の道があるとしたら、貴方はどうしますか?」
そう問いかけると、サミュエルが一瞬目を見開いた。
そして
「それが、『アティ様が家督を継げばいい』に繋がるのか?」
前に質問された時の言葉が、再度出てきた。
私は小さく頷く。
「そうですね。それも沢山ある道のうちの一つですね」
「だが、無理だろう。国が認めていない」
速攻でサミュエルに否定された。確かに。国の法律ではそうなってるね。
「今は、ですね」
私がそう笑うと、彼はギョッとした。
「……悪い顔してるぞ」
あ、マジ? かもね。私今、とっても楽しいから。
「何事にも『前例』があります。その前例は、最初は『今まであり得なかった事』だった筈ですよね?」
「そうだが……」
言い淀むサミュエルに、私は彼にグッと顔を寄せて囁きかける。
「その『前例』を作ったとしたら、その作った人は、それを導いた人間は、最初は異端と叩かれるでしょうが……のちのちにそれが標準になったとしたら。どう言われるように変化しますかね」
言い終わって彼から離れた。
一歩引いて彼をよく観察してみたら。
彼は口元を抑えて、自分の足元を凝視して考え込んでいた。
「……何事にも最初がある、か」
そうボソリと呟いたのを、私の耳は聞き逃さなかったよ!!
よし。してやったり。
サミュエルに考えの種の植え付け完了。
ホント、彼のこういう根は素直で単純で聞く耳を持ってくれているところ、好きよ。
考え込むサミュエルをその場に残し、私は自分の部屋の方へと足を向けた。
と、ちょっと立ち止まって振り返る。
彼がそれに気づいて顔を上げた時
「『最悪』の時を想定して準備するのは勿論ですが、『最高』の為に色々動くのも、また必要だと思いませんか?」
そう笑ってみせた。
その時に見せた彼の顔は、私につられたのか、わずかに頬を
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