第4話 侯爵を腰砕けにした。

 いつも通りアティの部屋で一緒に寝ていた時。

 ウトウトしていた耳に、若干のざわめきが入ってきた。


 私は、アティを起こさないようにそっとベッドを抜け出す。

 音がしないように部屋の扉を閉めて、ざわつきの中心へとスタスタと歩いて行った。


 行った先には、この家の主人──カラマンリス侯爵がいた。

 コートを持った執事を引き連れ、自分の書斎へと向かおうとしていた。


「おかえりなさい。侯爵様」

 私はガウンの前を両手で閉じつつ、階段の上からそう声を掛けた。

 ギクリと足を止める侯爵。

 ゆるりとした動きで私を見上げると、ああ、と一言呟いてすぐさま視線を外した。

 足早にその場を去ろうとしたので

「少しお話ししたい事がございます。お時間を頂けますか?」

 少し足早に駆け寄りつつ、そう投げかける。

「今日はもう休む」

 私の方を見ずに、侯爵はぶっきらぼうにそう吐き捨てた。

 が、ここで逃してたまるか!

「どうしても、今日、お話ししたいのです。その……夫婦のお話を」

 私はフワリと立ち止まり、右手は口に当て、左手は自分の腰を抱いて視線を外す。

 執事や他の家人が『あー、なるほど』という顔をしたのを見逃さなかった。そして、侯爵から少し距離を取る。

 さすが、カラマンリス侯爵家の家人たち。察しがいい。


「先に……行っておりますから」

 私は少しだけ声音こわねを落としてそれだけを告げると、ワザとパタパタという足音を立ててその場を後にした。


 ヨシ。これだけワザとらしくやっとけば、夜のお誘いだと周りの人間は思うだろうよ。よっぽど悪趣味じゃなければ部屋にも近寄らないはず。


 私は家人たちの姿が見えなくなった事を確認してから、そのワザとらしい歩き方をやめて、いつも通りの大股で夫婦の寝室へと向かって行った。


 ***


「どういうつもりだ」

 部屋に入ってきた侯爵の声は落とされていたが厳しかった。


 彼は、ベッドに座って足を組む私を一瞬苦々しく見下ろした後、サッと視線を逸らす。

 そんなに私を見たくないか。

 まぁ仕方ない。生理的に受け付けないのは体の反応だからな。

 それは別に構わない。

 そんなのどうでもいい。

 私が話したかったのはその事じゃない。


「何故、アティと触れ合わないのですか?」

 私は侯爵に負けないほど憮然ぶぜんとしてそう問いかけた。


 忙しいなら一言でもいい。

 声をかけて欲しい。

 言葉もいらないかもしれない。

 頭をひと撫でするだけでもいい。


 アティの存在を、ちゃんと認識してると意思表示して欲しい。


 今はまるで、ここにアティが存在してないかのようだ。

 これでは健全な精神は育てられない。

 家族から自分の存在を認めてもらう事が、健全な精神を育むのに絶対必要不可欠な事なのに。

 家族という最小単位のグループの中から子供は社会性を育んでいくのだ。


「……必要な事はしてやっている」

「して?」

 侯爵の言葉尻に思わずイラッとしたが、ここは我慢。我慢だぞ私。したい話に比べたら、そんなの瑣末さまつな事だ。


「足りません」

 そう鋭く返答したが、向こうは黙ったまま。

 タイを緩めシャツのボタンを外していく。ジャケットを部屋のかたわらの机に投げた。

 続いて袖のカフスを外そうとして上手くいかず、苛立っていた。

「家庭教師も子守ナニーもつけてある。それで事足りる筈だ」

「足りません」

「何がだ」

「愛情が」

 その言葉を言った瞬間、ハッキリとした怒りの浮いた顔で私をギッと睨みつけてきた。


 しかし、そこは彼も大人だ。

 ぐっと何かを飲み込んでから、細く息を吐いた。そして

「……私はアティを愛している」

 ポツリとそう呟く。

「存じ上げております」

 そう、分かってる。

 彼はアティを愛してる。

 彼は、別にアティを邪険にしたり、酷い扱いをしたりするワケじゃない。

「でも、それがアティには伝わっておりません。幼い子には、分かりやすい愛情を示さないと分かりません」

 抱き締める、頭を撫でる、声をかける、目を合わせる──それによって、子供は『自分の存在が認められている』『愛されている』と理解するのだ。

 いくら身の回りの環境を整えてあげたところで、本人がそれに気づくのはずっと先──大人になった頃だ。それでは遅い。


 彼は何も言わない。

 苦々しい顔をして、それでも私の少し横を見ている。私を直視はしたくないのだろう。

 でも、顔を向けてくれているだけでありがたい。聞く気があるという事だ。


「……恐らく、それをするには、まだお辛いのでしょう。

 しかし、そうこうしているうちに、アティは大人になってしまいます。子供の成長は待ってくれません。

 大人になってからでは、もう遅いのです」

 立ち上がって侯爵を正面から見据える。

 そうハッキリとぶつけた。

「知った事を……ッ」

 ギリリと歯軋りした侯爵は、私の肩を突き飛ばす。

 後ろに倒れた私の体が、ベッドの上で一度跳ねた。間髪入れずに侯爵が覆い被さってくる。

 顔の真横のベッドに侯爵の拳がメリ込んだ。


 殴りたかったのだろう。

 それを我慢したのはありがたい。殴られる覚悟で言ったのだから。

 でも、私はそんなことで黙る女ではない。


「逃げてはなりません。他のどんな事からでも逃げても構わない。でもこれだけはなりません。

 アティから逃げてはダメです」

 侯爵が、また腕を振り上げた。

 殴られる──と、歯を食いしばったが、拳は飛んでこなかった。

 侯爵は、手を強く握りしめ、震えさせていた。

「……できない……ッ」

 絞り出すかのような侯爵の声。

 その声は、本当に、とても、苦しそうだった。


 私は、そんな彼の頬に手を添えた。

 怒りではなく、恐怖に身を震えさせる彼が、とてもあわれだと思った。


「……写真を見つけました」

 私は、ガウンのポケットから一枚の紙を取り出す。

 それは、この間図書室の本から滑り落ちたモノだった。

「図書室の奥──それも、家人なら誰も手に取らないような、まだアティには早いと思われる児童書に挟まれておりました。

 その本は何度も読み返した跡がありましたから、きっと侯爵様の、思い出の本なのでしょう」

 その紙──写真を一瞥いちべつしてから、私は侯爵に差し出した。

 私から身体を離した侯爵は、震える手でその写真を受け取り視線を落とす。

 そして、大粒の涙をボロボロと溢し始めた。

「そこに写っておられるのは、前の奥様──アティの母親ですね。……アティにそっくり」

 彼は、ガックリと床に膝をついて、写真──アティにそっくりな美女と、その腕に抱かれた赤ちゃんが写った──を両手で抱えながら泣き崩れる。

「奥様を、本当に愛してらっしゃった。だから亡くした事が辛く、日に日に奥様に似てくるアティを見るのは──さぞかし辛かったのでしょう」

 私は、床にうずくまる彼の頭を、そっと撫でた。


 私も、兄を亡くした。

 双子の兄だ。

 自分の片割れ。

 兄が死んだ時は、身体が真っ二つに裂かれたかのような痛みを心に感じた。

 しばらくは、身体が半分なくなってしまったかのような喪失感にさいなまれた。

 だから、日に日に兄に似てくる弟の顔を見ると、兄を思い出して辛い時もある。


 ──けれど。


「だからといって、アティを放っておく理由にはならない」

 私は、撫でていた侯爵の髪をガッと掴む。

 そして、無理矢理顔を上げさせた。

 涙と鼻水でグッチャグチャなオッサンの顔にグイッと顔を近づける。

「彼女が死んだ事実は変わらない。

 でも『死んだんだから忘れろ』なんて言わない。忘れる必要はない。無理だし。無理だからこそ、一度思いっきり泣いてわめいて駄々だだねて、心から彼女の死をいたんで、受け止めて、最後にはちゃんと先へ進め。

 お前には、アティがのこされたろ」

 ギョッと見開かれた侯爵の顔。

 ベッタベタになった髭ごとヤツの顎を掴んだ。

「お前の妻だった女性は、いつまでもいつまでも自分の死にグッダグダ泣きベソかく事を望んでると思うか?」

 侯爵は呆然としたまま動かない。

 仕方ないので更に言い募る。

「アティの母親は、アティを愛してなかったのか?」

 そう発した瞬間、顎が左右に小さく揺れた。

「だろ? 彼女はアティを愛してた。幸せになって欲しいと、そう望んでた筈だ。

 で、どうだ? アティは今、幸せだと思うか?」

 少し間を置いて、また顎が左右に揺れた。

「じゃあ、お前がやる事はただ一つ。お前の最愛の妻が、やりたくてもできなくなった事を、お前が、アティに、やってやるんだよ。

 抱き締めて、優しく撫でて、声をかけて、目を見つめて──名前を呼んであげるんだよ」

 侯爵から手を離す。糸がひいた。

 ああ、手が……手がァ……。

 ガウンの裾で皮膚が擦れて痛くなるまで手をいた。


 侯爵は、ポカンとした顔で私を見上げている。

「分かったか?」

 確認のためにそう尋ねると、侯爵は一度、コクンと、頭を縦に振った。


「ヨシ。いい子だ」

 私は満足し、その場を去った。

 さーて! これで大丈夫だろ! 大丈夫じゃなかったら、また泣かせればいい。


 これで心置きなくアティの頭皮を吸えるぞ!!

 私はスッキリした心持ちで、アティの寝室へとスキップして行った。

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