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ふいに右手を差し出して彼女はいった。ね、プラスティックに見えるでしょ?
僕はその指先をそっと盗み見る。白くなめらかなその肌は、確かに合成樹脂めいているといえなくもない。触れてみればもっとよくわかるよと彼女はいった。そしてさらに、指先を僕に近づけた。でも、僕は断った。運転中だから。彼女はしばらく右手の位置をキープしていたけれど、やがてあきらめて音もなく引っ込めた。
また、沈黙が戻った。
ふたりの間に生まれる奇妙な張り詰め方をした空気は相変わらずだ。
前方の車両に追いついて停止する。蕾雨はなにもいい出さなかった。日はすでに沈み、青くほの明るい夕闇のなかにテールランプの赤い光が列をなす。それが先のほうから順番に消え、ふたたび車が前進を始めたところで、彼女はまた口を開く。
からだがね。声はまどろんでいるかのように低くなめらかに響く。どんどんプラスティックに変化しているみたいなんだ。すこしずつ、でも着実に。
僕はひたすら意図がつかめず、返す言葉を見出だせない。
でもときどき思うんだ。自分の指先をぼんやりと眺めながら彼女は続ける。それはそれで悪くないかもなって。ひんやりして、かたちも崩れなくて。わたしが心配しているほど、それは悪くはないんじゃないかって、思い始めている。プラスティックのからだというやつは。
なにかいわなくては。焦燥感に駆られた僕は、ふと頭をよぎったささやかな知識に逃げ込む。〈plastic〉のもともとの語源は、可塑性、つまりかたちを柔軟に変えられるということにある。金型があって、そこに原料を注ぎ込めば、そのかたちにおさまるということだね。だからかたちが崩れないというのは語源的にいえばすこしそぐわない。もちろん製品としての合成樹脂のこと、プラスティック製品ということであれば、かたちが変わらないというのはまあその通りではあるんだけれど。
そんな僕の言葉を最後まで聞き、そして嘲笑的な乾いた笑い声とともに彼女は答えた。さすがキシ先生は、なにもかも森羅万象よくご存知でいらっしゃる。
僕は口をつぐんだ。
居心地の悪い沈黙のあとで、彼女はその空気をさらに不穏にさせることをいう。クラスの連中にね、プラスティックってあだ名を付けられているんだ。
とっさに向けられた僕の視線に構わず彼女は続ける。わたしには人間味が欠けているんだって。情緒がないんだって。だから他人の感情も理解出来ないし、表情も硬い。もちろん面と向かっていわれるわけじゃないけれど、でも、陰口というものは、なんだかんだで伝わるものだから。
くだらない。僕は即座にいった。彼女はどこか酷薄な笑みを浮かべたものの口は開かなかった。僕はすこし間を置いてから言葉を続けた。そんなくだらない連中のいうことなんて、無視すればいい。影響されることなんてない。君に人間味が欠けているなんてまったくのデタラメだ。確かに表情はすこし硬いかもしれない。でもそれは、感情がないなんてことじゃない。僕はそれをよく知っている。とんでもない。君はどんな意味合いにおいてであれ、プラスティックみたいなんてことはない。
ほんと? からかうような口調で彼女は尋ねる。へえ、ふうん。わたしにはちゃんと、人間味が備わっている?
もちろん、僕は力を込めてそう答える。
人間味があるのなら。場違いにいたずらっぽい笑い声を交えながら彼女は質問を重ねる。わたしにも、ちゃんと小説が書けるのかな?
小説?
予想しなかったその言葉にうろたえ、僕はあいまいに言葉をにごす。いや、どうだろう。よくわからないけれど、それは別に関係ないんじゃないかな? 小説を書いても、書かなくても、それがなにかを意味するわけじゃないと思うけど。でも、どうして? 小説を書いているの? 彼女はちいさく笑って、そしてそれ以上はなにも口にしなかった。
また、前の車に追いついて停車した。車列ははるか前方まで続いている。
時計を見る。渋滞はまだ当分抜け出せそうになかった。七時には、間に合わないだろう。
七時には間に合わないかもしれない。おそるおそるそう伝えると、予想に反してどこか楽しげにさえ聞こえる声で彼女はつぶやく。せっかく台風が予想よりも早く過ぎて、中止にならずにすんだのにね。視線を窓のそとに向け、よどみない声でひそやかにいう。わたしは、拒まれているのかもね。
拒まれている。僕はその言葉を繰り返す。そして尋ねる。誰に?
神さまに、と蕾雨は答える。静かに、でもどこか根の張った印象の声で。僕はなにもいわなかった。
比重の大きな沈黙がまた車内に充填される。僕たちふたりともこの場に的確な言葉を取り出せないでいる。聞きたいことはいくらでもあったし、またそれは、聞くべきことでもあるはずだった。新しい学校はどう? うまくいっていない? 担任の先生はどんなひと? 困ったことがあったとき、ちゃんと相談できている? でも僕は踏み出せなかった。なにもかもを以前と地続きのままにさせておきたかった。夕方も迫るころに前触れもなしに部屋を訪ねてきた彼女のことを、僕はどこか予期していたようでもあった。
夏祭りに行きたい。玄関のまえに立つ彼女はまず最初にそういった。〈ひさしぶり〉のひと言もなかった。懐かしい、命じるような口調で続きをいった。だから車を出して。
了承して、車の鍵を取りに部屋へ引き返すとき、僕はほんとうにこの一年間の空白をなかったもののように錯覚していた。まるでこれがあの台風の日の続きででもあるかのように。もちろん、目の前の彼女に変化はあった。背が伸びてすこし痩せた。顔立ちはやや大人らしくなった。挑むような目の鋭さは、ずいぶん落ち着いた。それはこの一年間の空白が確かに存在していた証だった。僕のいないところで彼女は成長した。その変化から僕は、恣意的に目をそらしているだけだった。
そしてもうひとつ、違いがあった。
着るものに頓着しなかった、以前の彼女。ぼさぼさに乱された髪を気にもとめなかった、以前の彼女。そんな彼女に似つかわしくない、その艶やかな姿に、僕は最初から気付いているはずだった。わかっているはずだった。それなのに僕は、その変化さえなかったことのように留保している自分に、いまさらながら、気付いた。
いい忘れてたけど。粘性のある重い空気を突き破るように、僕は決意して口を開く。その浴衣、すごくきれいだね。花火の柄? とてもよく似合っているよ。
ゆっくりと車が動き出す。ありがとう、とすこし遅れて彼女はいった。視線はまだそとの景色に向けられていた。内向的な、硬質な声で低く続ける。とびきりの浴衣だから、お世辞であったとしても、そういってもらえて、とりあえず、うれしいよ。
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