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ざわめきは木々を通してこの場所にも届く。
境内での祭事はすべて終わって、七時開始の打ち上げ花火を待つひとの群れがたっぷりと参道を満たしている。子どもたちの甲高いわめき声、屋台の熱せられた鉄板が甘辛いソースを焦がす音、砂利を踏む無数の靴音、笛の音色、酔った笑い声、ロケット花火の発射音、百を超える話し声。それらが一体となった圧力は、雑木林の奥のひと気のない祠のまえであっても、人知れず作用している。
少女がふたりならんでいる。浴衣で着飾ったほうの少女はうずくまって下を向き、もうひとりは呆れたように腕を組んでその姿を見下ろしている。
なんどもいうがここを出ん限りヤナギめには会えないぞ。腕を組む少女が険しい顔で警告する。ここは誰でも来られる場所ではない。やつをここへ連れてくることは出来ん。だからここにいてはなにも始まらん。
わかっている。青い顔をしたチナミはかろうじて声を出す。わかっているよ、でも、もうすこしだけ、もうすこしだけ待って。こんなにたくさんひとがいる場所に出てくるのは、ひ、ひさしぶりだったから。なんだかからだが震えちゃって、動けなくて。
情けない。ろくに友だちも出来んわけじゃ。大仰にため息をついて見せてから、少女は手を差し出す。ほれ。手をつなげ。しっかりと握ってやる。そうすれば不安もすこしはまぎれるじゃろう。
チナミはちいさくうなずいて、震える指先をおそるおそる伸ばす。その手を握りしめる強い力を感じた瞬間、ぐいと引っ張られて立ち上がる。よろめいて間近に迫った少女の顔は不機嫌そうにゆがんでいて、でもそんな表情に似つかわしくないことをいってチナミを励ました。さすがとびきりの浴衣というだけのことはある。よく似合っておる。自信を持っていいぞ。
でも、派手過ぎないかな?
本物の花火に負けるわけにもいかんじゃろう? 少女は背後の空を振り返って肩をすくめた。このあとチナミは、夜空の花火よりも鮮やかに、ヤナギめの印象に残らねばならない。
顔を赤らめるチナミに、少女はささやく。さあ、ゆくぞ。誘導してやるから、目を閉じておればよい。ゆっくりと足をまえに進めるだけでよい。案ずるな。自分の足が地面を踏みしめる音だけを聞け。雑音に気を取られるな。迷妄にとらわれるな。自分がなにをしたいのかだけを考えろ。見たくないもののことは考えるな。そう、そうじゃ。ゆっくりとまえに進む、それでいい。それだけでいい。恐れることなどなにもない。失敗したらなどと考えるな。大丈夫、チナミは祝福されているのじゃから。
大丈夫、わたしは祝福されているのだから。
そして名前を呼ぶ声が聞こえる。
チナミは振り返る。チナミの心臓は、違う仕方で鼓動を早める。
やっぱりそうだ、偶然だな。覚えのある声、ずっと心のなかで繰り返し聞いていた声が、いま、自分に向けられている。自分の名前を呼んでいる。
のどがカラカラで声なんて出ないのではと思ったのに、とっさの返事はつかえることもなくチナミの口を出る。ヤナギくん、こんばんは。ヤナギくんもお祭りに来てたんだ?
目のまえの少年はああ、と返事をして腕を掻いた。雑踏のなか、当惑げに視線をそらせ、そしてまたチナミを見つめる。友だちと来てたんだけど、はぐれた。伊澤もひとりなのか?
驚いて周囲を見渡すが、彼女の姿はない。チナミの指先はもうなににも触れていない。静かに納得して、困った笑顔をヤナギに向ける。わたしも。わたしも友だちと来てたんだけど、はぐれちゃったみたい。でも別にいいんだ。あとは花火を見て帰るだけだし。
じゃあいっしょに見ていかないか、とヤナギはいった。花火を見るのにいい場所を知っているんだ。よかったら案内するよ。その誘いの言葉をチナミは、かすかな既視感をともなって聞いた。こうなることがわかっていたみたいに。だから過度な動揺はしなくてすんだ。ひと呼吸おいて、意識的な微笑みを浮かべてチナミはいった。うん、ありがとう。じゃあついていくよ。
ヤナギは歩き出す。そのあとをチナミは追う。
大丈夫、わたしはちゃんといえる。揺れる彼の背中を見つめながら心のなかでチナミは何度も繰り返す。この足が止まったらいう。ちゃんという。ちゃんとわたしの気持ちを伝える。もうなんべんも練習してきた文言を、一字一句そらんじる。その通りしゃべるだけ。それですべては完了する。大丈夫、わたしはちゃんといえる。足が止まったらいう。大丈夫。わたしは祝福されているのだから。
無意識のうちに、ヤナギのシャツの端をつかんでいた。違和感に気づいて振り向くヤナギと、ぶつかりそうになって目が合う。どうかした? 中立的なヤナギの表情に、チナミの頭は一瞬で真っ白になる。え、あ、なにが? 自分がヤナギの裾をつかんでいることに、ようやく気付く。あわてて離す。ふたりともいま、足は止まっている。
なにかいいたいことでもあったか?
尋ねながら、ヤナギは穏やかに微笑む。うん。この表情だ、とチナミは思う。わたしが大好きなのは、この表情だ。
なんでもないよ、とチナミは答える。すこしだけ困ったように笑って、言葉を続ける。ただちょっと、人ごみに目がまわって。それでふらっとしちゃったみたい。
大丈夫か? ヤナギは眉をひそめてそう尋ねる。たいしたことないよ、と取り繕うチナミに手を差し出し、ぎこちなくではあれヤナギは伝える。よかったら、手をつなごう。人ごみがしんどいなら、目をつむっててもいい。おれがちゃんと誘導するから。
でも。チナミの顔はもう赤い。わたし、手のひらすごい汗かいてるよ。
まあ、おれもだ。そういってヤナギは苦笑する。ほら。見てみろよ。触ってみればもっとよくわかる。
ありがとう、そう答えてチナミは差し出された手を握る。不思議と周囲の雑音が一段階、静まったように錯覚する。ヤナギは歩き出す。引っ張られるその強さにほっとする。厚さのある彼の手のひらの熱にほっとする。さっきよりずっと近くなったヤナギの存在にほっとする。わたしは祝福されている。
でも。
ヤナギくん。
先を行くその背中に声を掛ける。ふたたび立ち止まるヤナギ。ふたたび出会う視線。すこしだけ目をほそめてヤナギは尋ねる。うん。どうした? 心臓が鼓動を早める。大丈夫、ちゃんといえる。いえる、いえる、いわなければ。チナミは口を開く。そして遅れて声が出る。ヤナギくんは、あとどれだけ、いつまで、この町にいるの?
ヤナギはそっと目をそらす。そしてなにかを考える短い時間のあと、チナミに向き直って口を開く、その瞬間、離れた場所でふいに群衆の歓声が沸き起こる。続いて野太い口笛のような発射音のあと、湿った空気の破裂するにぶい炸裂音が上空に轟いた。七時。色とりどりの火花が空に整然と球をえがく。始まっちゃったか。そうつぶやいて、ヤナギは握りしめる手の力をさらに強める。行こう。話はそのあとだ。
引っ張られる。足取りは駆け足に近いけれど、でも無理な速度ではない。連続して花火の打ち上げられる甲高い音が夜の空気を貫き、爆発する。そのたびにあちこちで拍手や叫び声が沸き返る。無数の視線が鮮やかに染まった夜空へと向けられる。大勢が熱狂する。大声で騒ぐ。でもチナミの視線は、相変わらずヤナギの背中に固定されている。みんなの関心の埒外にふたりは向かう。誰もふたりの姿に目を向けない。
もう、人ごみなんて関係ない。
やがてふたりは雑然とした林のなかに分け入り、なだらかな傾斜をのぼる。まわりにはもう誰もいない。喧騒も遠い。あそこだ、とヤナギは声を掛ける。昔あった石段の名残なのだろうか、いびつではあるが四角く切り取られた幅広の石がみっつ、勾配にならんでいる。その場所にたどり着き、振り返ると、空を閉ざしていた樹々の梢の鬱蒼とした葉叢が開け、大きく漆黒の夜空を覗かせている。
そしてそこに大ぶりの華が咲く。
次々と破裂音を響かせて開くたくさんの花火がそこに見える。赤に、青に、黄に、緑に。光の点列は視界いっぱいに拡がり、開花の瞬間の揺さぶるような空気の震えもここには力強く届く。
いい場所だろ。石段に腰を下ろすように身振りで促して、ヤナギは自慢げにいう。ここからのほうが河原に近いんだ。視界は開けてないけど、花火を見るには十分だ。それにひとも来ない。人ごみが苦手でも、ここならじっくり見られる。
うん、とチナミはつぶやく。握られた手は、まだつながれたまま。
それで、もっと早くいおうと思ってたんだけど。あいたほうの手で腕を掻きながら、ヤナギは訥々としゃべり始める。あのさ、引っ越し、実はしないことになったんだ。
振り返るチナミ。ヤナギの表情は、恥ずかしげにこわばっている。
親父の転勤が短く切り上げられることになって。ヤナギはどこか腹を立てるように口早にいう。三年以上っていう予定が、きゅうに半年になって。そのあとはまた、ここへ戻ることになって。だったら単身赴任でいいやって、まあそれはそれでいいんだけど、でもさ、あんなにお別れ会だとか最後のあいさつだとかいろいろあったのに、普通にまた二学期から同じ学校に戻るんだよ。笑えるだろ。
それって。チナミはまだ自分の聞いたことが信じられないという面持ちで尋ねる。二学期からもまた、ヤナギくんと会えるってこと?
重量感のある爆裂音が空気を震撼させ、連続的なしだれ柳の山吹色が尽きることなく夜空を飾る。膨大な光の粒子は夜の闇を引き裂き、昼間のような明るさのなかで花火以外の音が消え、チナミの目のまえにはヤナギの唇の動きだけがひそやかに提示される。そして苦笑する表情。ヤナギの言葉は聞こえない。でもチナミには十分に伝わる。また会える。からだの奥がじんわりと熱を持ち、無邪気な浮遊感に縛られる。
握りしめる手に力がこもる。
火薬の咆哮はまだ続く。音と光は夜の闇を排除する。耳を突く爆裂音はおびただしく生成され続けいつまでも鳴りやむ気配さえ見せない。轟音は轟音で塗りつぶされ、そしてそのなかに形を変えた静寂があらわれる。あらゆる物音は吸い尽され、ひとつに溶け合い、ささやかな声は跡形もなくかき消される。チナミは口を開く。精一杯に声を張り上げる。用意してきた文言を、一字一句丁寧になぞる。視線は夜空を向いている。おそらくはヤナギも。色とりどりの火球を眺め、その消滅と新たな生成を確かめながら、チナミは光に吸い込まれる無力な言葉をただ一心につむいでいく。
やがて、あっけないほど急速に、光も音も夜の衣に溶け込んでしまう。最後の破裂音のあと落下する光の粒は貪欲な闇のなかにあっさりと飲み込まれ、そしてすべては消滅する。目のまえにはもう、茫漠とした無音の闇が控えるだけ。遠く喝采が沸き起こる。真昼のように明るませていた光はもう、どこにもない。
なあ。取り戻された暗闇のなかでヤナギが尋ねる。伊澤、さっきなにかいった? 花火の音がうるさくて、よく聞こえなかったんだけど。
うん。チナミはそう答えて、そして困った顔で笑う。でも、別にいいんだ、聞こえなかったならそれで。だって、二学期になってもまた会えるんでしょ?
だからいまじゃなくていい、とチナミは答える。吸い込んだ空気のなかにかすかな硝煙の匂いを嗅ぎ取り、あの光と轟音が確かに存在していたことをもう一度だけ思い出して、チナミは静かにいう。また会えるなら、いまじゃなくてもいいんだ。いまじゃなくても。
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