プラスティックアイ

あかいかわ

◇ ◇ ◇


◇ ◇ ◇


 キツネさまは目をほそめ、こがねいろの耳をパタパタ振って、心の底をじっと見透かすようなすごくいじわるな笑みを浮かべた。実際、その通り。キツネさまにはだいたいのことはもうお見通しなのだ。チナミをからかうときのいつもの口調で、キツネさまはいう。つまりおぬしには、そのとびきりの浴衣で着飾った姿を、見せてやりたい〈誰か〉がいる。そういうことじゃな?

 チナミはみるみる真っ赤になって、口をつぐむ。目が泳ぐ。汗がにじむ。

 ひと気のない雑木林の奥まった場所に、ふたりの少女がすわっている。古びた祠を背にして、盛り上がった樹の根方にならんで腰を下ろしている。木漏れ日はほとんど届かず、地面はわすかに湿っている。終始鳴り止まない重層的なせみの声のおかげで、ふたりの話し声は林のそとには漏れ出さない。誰にも届かない。交わされる言葉は、だからふたりだけのものだ。

 それでもチナミはうろたえる。言葉を見失う。たいせつに隠してきた秘密を、誰かに知られてしまうことを恐れるかのように。不用意に言葉にしてしまうことで、それが空気中に無尽蔵に拡散されてもう取り戻せなくなる。そんなことを、恐れるかのように。チナミはキツネさまの裾をつかむと、哀願するようなうるんだ目で見つめた。なにかいわなくちゃ。でも、感情は足を引っ張るだけで言葉をつくらない。うめき声以外になにも出てこない。キツネさまは小気味よく笑った。

 よいよい、わしにはちゃんとわかっとる。

 キツネさまは鷹揚にチナミのおでこを小突きながらいう。にやにやしながらいう。いいのじゃ。おぬしの好きな相手なぞ、わざわざ声に出さずともわしにはよーくわかっとる。隠しでも無駄じゃ。それはもうじわじわと滲んでおる。ともあれ、要はそいつに見せてやりたいのじゃろ? おぬしの自慢の晴れ着姿を。艶やかなその姿を、恋々と恋焦がれて仕方のないヤナギめに、なんとしても見せてやりたい。つまりはそういうことなんじゃろう?

 なんで名前いっちゃうの!?

 チナミは飛び上がって絶叫する。顔がもう一段階赤くなる。キツネさまはいかにも楽しげにカラカラと笑う。その甲高い笑い声の向こう、せみたちのわめき声の隙間を縫って、神楽の練習の音色が切れ切れに聞こえる。

 いきり立つチナミをなだめつつ、そしてそんな遠く聞こえる古楽器の音にこがねいろの耳を反応させつつ、キツネさまは悪だくみの相談ごとのように低いささやき声でいった。まあともかく、おぬしの勝負のときは来週、というわけじゃな。

 チナミはしばしまごつきながらも、震える両手をしっかりと組み合わせ、そしてちいさくうなずいた。

 夏祭りは一週間後に迫っていた。

 いつもは寂れた境内に、その日ばかりは大勢の人々があつまって大騒ぎに興じる。キツネさまによれば、もともとは数百年前の疫病に端を発する祭事だが、その由来を知るものはもう少ない。屋台が出て、古びた山車が引っ張り出されて、すこし離れた河原から打ち上げられる花火がフィナーレを飾る。ありふれた、取り立てて特別ななにかがある祭りでもないが、特別なことのすくないこの町にあっては、貴重なイベントごとのひとつだ。

 大人たちにとっても、子どもたちにとっても。

 のう、知っておるか。つり目がちの目をさらにほそめてキツネさまはひとの悪い笑みを浮かべる。この夏祭りではな、毎年たくさんの恋人が生まれるのじゃ。実に多くの人間が、これを機会にアイを告白する。狙い目は境内の裏手か、打ち上げ花火の最中じゃな。成功率は悪くないのではないか? 例年けっこうな数のつがいがこれを機に成立しておるぞ。ま、そのほとんどが半年も待たずに別れておるわけじゃが。

 意地悪なその最後のひと言に、チナミの表情はこわばった。

 表情の変化を捉え、キツネさまは心の奥を覗き込むようにチナミを見つめる。探るように、確認するように、言葉を加える。どうかしたかチナミよ? おぬしは臆病で引っ込み思案な女童なので、告白などという大それたことまではできないであろうから、関係ないと思うが、な?

 小刻みに移ろっていたチナミの視線が、ふいに力を持ってキツネさまを見返す。その鮮やかな反転にキツネさまは内心ちいさく驚く。ううん、告白するよ。チナミはいつになく力のこもった声でいう。わたしは来週の夏祭り、ヤナギくんに告白する。

 いったい全体どうしたのじゃ? 困惑げな表情を浮かべて、でも実際にはちゃっかりと面白がって、キツネさまは尋ねる。そんな思いつめたような顔をして、いつものおぬしらしくもない。きゅうにまたどうしたことじゃ?

 チナミは震えを抑えるようにおおきな深呼吸を二度したあと、いくぶん低い声で静かにしゃべり始める。二学期が始まるまえ、ヤナギは別の県に引っ越してしまう。親の仕事の都合、なんだって。きゅうに決まっちゃったんだって。淡々と感情を落ち着けて話すその声音に、もうずいぶん長いこと気持ちの整理のために使ったということが、見て取れた。最近あまりここへ遊びに来なかったのは、そういうわけかとキツネさまは納得する。だからね。チナミは不思議なほどさっぱりとした声でいう。だから会えなくなるまえに、自分の気持ちを、ちゃんとヤナギくんに伝えたいと思う。伝えることができたら、それだけでいいんだ。それだけで。

 間近にいたせみが鳴くのをやめる。

 キツネさまは慈しむような目でチナミを眺めた、そのあとで、ふいに口の端をゆがめ、けっこう、といった。けっこうけっこう。悪くない。想いを伝える、よいことじゃ。素晴らしい。うむ。まずもってその勇気を称賛するべきじゃろう。わしとて邪魔したり揶揄したりするつもりなど毛頭ない。その大事な舞台に粗末なこの神社を使ってもらえるということは控えめにいって大変光栄なことじゃ。陰に陽にこの場所を守り続けてきた甲斐があるというものじゃ。

 しかしじゃ、とキツネさまは続けた。さっきからおぬしの話を聞いていると、どうにも腑に落ちん。気持ちを伝える、それはけっこう。じゃが、それがここでなければならない理由はなにかあるのか? わざわざ来週まで待たなければならない理由はなにかあるのか? 夏祭り? そんなもの待たずとも、いますぐデンワで伝えてもよい。便利な時代じゃな。そうでなくとも、ヤナギめの家を直接訪ねて話してもよい。出かけるところをつかまえて話しかけてもいい。なんでもいい。方法はほかにいくらでもある。チナミよ、何故そうしようとしないのじゃ?

 ふたたび顔を赤くしてうつむくチナミ。切れ切れの、不明瞭な言葉はろくに形をなさない。指先がまた小刻みに震え始める。

 キツネさまは演技的におおきくため息をついてみせ、そんなんじゃどーせフラれるわな、と低くつぶやいた。

 本物の痛みが生じたみたいにチナミの顔がゆがむ。鋭利な感情が走り抜ける。なにか反論しようと口を開いても、けっきょくなにも言葉にならない。涙がもうすこしで瞳からこぼれ落ちそうになる。気の毒なほどの振幅で肩が震える。うちのめされている。

 そんなチナミの肩をキツネさまはやさしく抱きしめる。そして問いただす。チナミよ、おぬしは想いを伝えるだけでほんとうに満足なのか?

 確かめるような長い沈黙のあと、静かに首を振るチナミ。

 ヤナギめにとびきりの浴衣姿を見せてやりたいのは、すこしでも勝算を上げたいから。そうじゃろう?

 うなずくチナミ。

 これでもう会えなくなるなんて絶対に嫌だ。そうじゃろう?

 うなずく。

 すなおでよろしい。

 キツネさまは満足げに微笑むと、立ち上がり軽快に大樹を駆け上った。せみが数匹びっくりして飛び去った。枝にまたがったキツネさまは高らかに笑った。恋するチナミよ、よかろう。夏祭りにヤナギめに告白することを許可してやろう。じゃが、フラれることは許さんぞ。精一杯のおめかしをしておくことじゃ。とびっきりの浴衣を身にまとってな。告白をするためのお膳立ては、わしがぞんぶんにしてやろう。任せるがよい。

 じゃがもちろん、見返りはきっちりといただくがのう?



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