よるべ
なんでその子のことを思い出したか分からないが、季節がちょうど今頃だったからだろうか。
「30代になると記憶力かなり落ちますからね、がんばってください」
などとおじさんの教官に言われて、悔しい思いをしながら通っていた自動車教習所。
その子は同じ時期に通っている女子大生だった。
もともと可愛らしい顔立ちに派手過ぎないメイク、流行りを適度に押さえた優しい色合いの洋服。
はきはきして明るく、友達も多そうだった。大手企業に就職も決まり、仕事で必要だからと免許を取りにきていた。
いいなぁ、若くて可愛くて、将来も明るそうだし、男の子にも好かれそうだし。
というのが、私の第一印象だった。
その子とはすぐに言葉を交わす仲になって、ある時、勉強会というのに誘われた。
会場は電車を乗り継いで1時間ほどのところだと言う。
遠いがそちらの方が大きな街だし、帰りに買い物でもしようかと思って承諾した。
電車の中では楽しくお喋りをして、目指す駅に着いた。
会場に向かう途中の道で、その子はそれまでの態度と打って変わって少し言いにくそうに、行く先は宗教団体なのだと言った。
でも便宜上宗教法人になっているだけで、いろんな業界から講演者を招いて話を聞くのが会のほんとの目的なのだ、と付け足した。
私は思わぬ展開に、なんとなく自分を間抜けに感じながら、会場と指さされた無機質な白い建物に入った。中は盛況で、人でごった返していた。大部分は40代くらいの主婦層だったけど、男性や、その子くらいの若い子もいる。
便宜上宗教法人、とその子は言ったが、むしろ勉強会というのが口実だったと言うべきで、広間には立派な祭壇があり、お祈りしている人も居た。
私は入り口で入会の意志を問われて断ったが、その後も有無を言わさず小部屋に連れていかれ、母親ほどの年齢の女性から、マンツーマンで入信の勧めを受けた。
その人は大学教授の妻で、子供2人の母親でもあり、一時期はアメリカに住むなど申し分ない暮らしをしていたという。しかし平和と思っていた毎日がある日突然崩れ、長男が引きこもりになり、娘が非行に走った。夫婦仲も険悪になって行く中で、この宗教を知り、自分の傲慢さに気づき、改めるようになった。云々。
その女性は菩薩のような微笑みを浮かべながら、それらの話を語って聞かせた。
私は口を挟まず、女性が話し終えるまで大人しく聞いてから、言った。
それはとてもよい話だと思うし、宗教によって立ち直れたというなら、それは出会ってよかったのだと思う。宗教だから悪いとか怪しいと、一言で決めるつもりもない。
だけど私には家族や友達がいて、つらい時には彼らが助けてくれるし、彼らから学べることも、まだたくさんある。そういうものがなくなって、自分でも答えが出せないような何かにいつか出会ったら、この宗教のことを考えることもあるかも知れない。でも、少なくとも、今の私には必要ないと思う。
相手の女性は穏やかな微笑を崩さないまま聞いていたが、私がそれを言い終わったとき、その微笑みは永遠に顔から取れないのじゃないかと思うほどに張り付いていた。
私を誘った女の子は、その女性の陰で、私の話を黙って聞いていた。その女性と同じように、人工の優しい微笑みを、その子も身につけつつあるようだったが、私に向かって微笑んだその顔は、少し、寂しげだった。
その子は母親がこの宗教の熱心な信者ということで、私は母親にも紹介された。
母娘はとても仲が良く、意気投合してここに通っているように見えた。
だけど母親のほうがもはやなんの迷いもなくその宗教にどっぷり漬かり幸せを感じているらしいのに比べると、娘のほうはまだ、そこまでの居心地のよさを獲得してはいないようだった。
その後も彼女は私に施設の中を案内してくれ、私はそれらに興味を持っているふりをした。
帰り際、その子は、また勉強会があったら誘ってもいいですか、と聞いた。
私はぜひ、と笑って言った。
私はその宗教に興味はなかった。
だから勉強会なんてどうでもよかったのだが、私はただ、彼女が気になった。
彼女はどうしてこんな宗教に入っているんだろう。
若く、きれいで、性格もいいし、学歴もあるのに。
彼女は私が入り口で名前や住所を書かされていたとき、私のしていた安物の腕時計をやたらに褒めた。その褒め方がなんだか必死で、私は口の中が苦かった。
そんなことする必要ないのに。私なんかに。
また連絡します、と言って別れたが、その後、その子からメールが来ることはなかった。
電話番号も住所も書かされたわりに、その団体からは手紙も電話も来なかった。
(終)
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