加萌のおばちゃん
小さい頃、父方の大叔母が好きだった。
加萌(かもい)という家に嫁いだので私は加萌のおばちゃんと呼んでいた。
私の祖父の妹にあたる人だった。
父は大叔母にすっかり心を許していて、子供の私にもそれは分かった。私が加萌のおばちゃんを好きなのは、父のその思いが乗り移っていたせいかも知れない。
父は大叔母をおばさん、ではなく親しみを込めてねぇちゃん、と呼んでいた。
「おばちゃんて呼び!お小遣いやるから!って、言うんや」
と父は笑っていたが、ねぇちゃんと呼ぶことをやめなかった。
幼い頃兄弟から離されて、子供のない親戚に里子に出された父(昔の農村にはよくあることだったが)にとって、近所に住んでいた大叔母はほんとの姉のように思えたのだろう。
大叔母は優しい人だった。
それでいて茶目っ気もある人だった。
この人は、いつも私を温かく迎えてくれるという直観が子供心にあった。
だから1年のうち数えるほどしか会う機会がなくても、私は大叔母に何の垣根も感じないで懐に飛び込んでいくことができた。
大叔母は家庭を持ちながら、地元の病院で看護師をしていた。
大正生まれの大叔母の年代で、しかも田舎で、そのように職業を持っている女性はほとんどいなかったように思う。家で野良仕事をしている時はどこにでもいそうな田舎のおばあちゃんなのに、病院ではキリッと白衣を着て、別人のようにかっこよかった。しかしどの場所にいても大叔母は変わることなく、いつも優しい人だった。
大叔母が我が家に遊びにきたある日のことだ。
私たちは居間でテレビを見ていた。その頃流行の刑事ドラマが流れていて、いつもは(刑事物なんて野蛮だと言ってきかない)母に止められるのだが、その夜は加萌のおばちゃんもいたし何となく特別な気がして、見ても怒られないかもという淡い期待を抱いた。私は大叔母に向かって得意げに、今クラスで大人気の刑事ドラマの説明をした。大叔母は、まあそう、まさみちゃんが好きなドラマなんやね、と言い、あの茶目っ気たっぷりの目で微笑んでくれた。
が、やはり母はそのドラマを見る事を許してくれなかった。私は皆の前で母に叱られ、おまけにさっさと寝なさいときつく言われた。決まり悪くなった私は大叔母が助け舟を出してくれないかと、たぶんすがるような目で見たと思う。
しかし、大叔母は曖昧に笑っているだけだった。
たとえ弁護してくれなくても、「まぁ、お母さんがそう言うならしょうがないねぇ」とか、「もう夜も遅いから、おばちゃんと一緒に寝よか」とか、気休めのようなフォローでよかったのだ。大叔母はそのようなフォローが上手な人だと思っていた。
ところが、私の予想に反して、大叔母はその場で固まってしまったように一言も発しなかった。そしてその場に似つかわしくないニコニコ顔をやめることもなかった。それはちょっと異様な光景だった。
たぶん大人の世界ではいろんなことがあったのだろう。
大叔母が父の実家から長年絶縁されているとか、それは誰にでも優しくしすぎて実家の誰それの機嫌を損ねたからだとか、なんだかそういう込み入った話は親戚中集まったお酒の席などで、小さな私の頭越しに繰り返されていた。
そういう事情が、大叔母を必要以上に控えめな人にしてしまったのだろうか。しかし当時の私に理解できるわけはなく、その時は加萌のおばちゃんがかばってくれなかった、ということだけが強く心に残ってしまった。
それから、大叔母は私の中で急に遠い人になり、その後自分の学年が上がるにつれて、親に連れられて親戚を訪ねるようなことも減って行った。
父が自死した時、私は大学を出て東京で働いていて、実家に戻った時にはもうお通夜の準備ができていた。
あまりに急なことで、私は父の体に触ることもできなかった。それは、大好きだった父そのものでありながら、もう私たちのいる此岸の人ではなく、その意味で他の遺体と変わりなく、よく知っているようでまったく知らない誰かだった、いや父だった、間違いなく父なのだが、なんと言ってよいのか分からなかった。生きているのか死んでいるのかさえ、よく理解していなかった。
私は混乱していて、父の体のそばに行くことさえ怖かった。
私の家族全員、多かれ少なかれ同じように戸惑っていたと思う。
その時、加萌のおばちゃんがやってきた。
大叔母は私とは正反対だった。
何のためらいもなく、がばと父の体に取りすがっておいおいと泣いた。
いつも物静かな大叔母からは想像もできない激しさで、父の顔に自分の顔をくっつけたり、父の頬を何度も撫でたりした。
弔問の人からお悔やみの言葉があると、
「あんた!聞こえてるぅ」
と聞こえるはずもない父の耳に口を寄せ、叫ぶように言った。
私はそれを見て、肉親の肉の意味をはっきりと知った。その時はあまり行き来のない親戚のひとりに過ぎなかった大叔母が父とどれほど深くつながっていたか、父がどれほど大叔母を恃みにし、また大叔母もそうであったか、に気づかされた。
その絆を通して、父が送ったさびしい青年時代が透けて見えるような気がした。
他の親戚も続々と来てくれたが、誰も加萌のおばちゃんほどのことはしなかった。伯父さんも、伯母さんも、私の母でさえ。
大叔母はその数年後、亡くなった。
看護師だった大叔母は自分の体の状態もある程度分かった上で、入院はせず、亡くなる前々日まで畑仕事をしていた。
一度母と大叔母を訪ねた時、笑いながら話していたのに、急に
「あれが逝ってしもうてから、精が無うて…」
と弱々しい声で泣き始めたことがあった。
自分の痩せ細った体のどこかにまだ水分が残っているならどうか涙として出てきてほしい、というような、苦しい泣き方だった。
大叔母は長く患わなかった。死期まで他人に気を遣って、極力迷惑をかけないようにあっさり逝ったのだろうか、と思えるような最期だった。
お葬式の日は、雨だった。
その地区は、日本でも珍しく土葬する習慣だった。大叔母の息子をはじめとする数人がスコップを振るって雨に濡れた土を掘り起こすのを、ぼんやり見ていた。
静かなお葬式だった。
大叔母の家は今でもその息子が住んでいるが、ほとんど交流はない。でも、家の前は時々、通りかかることがある。
県道のそばで、すぐ裏手が小さな山で、山が陰になってあまり日当りのよくない家だ。
県道は大叔母の家の前まで来て反り返るように進路を変えており、大叔母の小さな家は県道に押されて山すそギリギリまで引っ込まされているように見える。家自体も古く、壁の漆喰は県道を通る車の排気ガスで汚れ、黒い瓦は埃にまみれて白っぽくなっている。
他人の家なら、何度そのそばを通ってもほとんど気づかないかもしれない。それほど目立たない家だった。
父と昔訪れた時も、2度に1度は返事がなかった。
玄関を入ると土間があり、その右手に上がり框がある。畳三畳ほどの、訪問客に応対するためだけのような部屋があって、奥の壁に沿って仏壇が置いてある。その手前に置かれた大きな水墨画の衝立が、外部からの目隠しをしている。
衝立のせいで、家の奥があまり見えない。私はいつも、その衝立の向こうに声が届くようにと思いながら、おばちゃあああん、と呼んでいた。
それがひんやりとした土間に響き、しばらく待っても返事がないと、私はそっと
「おってないんちゃうん」
と父に言う。
でも父は知っている。
「おらへんなぁ。裏の畑やろう」
と言ってずかずか上がり込み、家の反対側の畑を見に行く。
裏の畑は小さくて、腰をかがめて農作業をしている加萌のおばちゃんがすぐ見える。
こちらに気づき、いつものように笑って、麦わら帽子を取りながら
「まさみちゃん、元気けぇ」
と言いながら、私たちに近づいて来る。
(終)
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