恋慕幾多

 そこでは、降るはずの無い雨が降っていた。

 陽菜は、シャワールームに座り込むと、お湯というには程遠い温度、言わば生温い水を頭から被り続けていたのである。

 それを彼女が雨と比喩したいのは、自分の頭を冷やすためと、雨ならばいつかは止むかもしれないと、この世界から抜け出す夢を見ていたからに過ぎないのだが、後者の理由は、彼女自身がそう認識したくは無い為、理解出来ては居なかった。


 ――止まない雨は無い。


 いつか何処かで聞いたようなその台詞を、頭の中で陽菜は勝手に再生したのだ。


 一糸まとわぬ姿の少女の頭に降り注ぐ雨は、やがて髪から顔へ、そして身体へと水の筋を作り、やせ細った動かぬ下半身を辿り、遂に排水口へと消えて行く。


 彼女は今、無性に羞恥心を覚えていた。

 こんな絶望的な状況なのにも関わらず、孝太と二人きりで宿に泊まる事になった事態に、陽菜は喜びを覚えてしまっていた事が、恥ずかしくて堪らなかったのだ。


「結局、自分の気持ちに嘘は付けないって事なんだろうな……。」


 シャワーの水音に、自分の声を紛らせる陽菜だったが、独白したところで彼女の羞恥は消えず、結局は彼女の心を押し潰す。


「なんで私は……こんなに……浅ましいのかしら……。」


 ◇


 日立達と別れた後、135号室の部屋が空いて居たので、迷うこと無くその部屋を借りた孝太。

 陽菜が思うに、多分以前に借りていた148号室に近かったからだったと思う。

 だから何だという訳では無いが、陽菜は孝太がその部屋番号を選んだ時、心が弾んだ。

 何故心が弾んだのかは、その時の彼女には分からなかった。

 必死になって隠している彼女の恋心は、どんどんと膨らみ続け、今では孝太の行動の一つ一つに、愛おしさを彼女自身の心が次々と産み出してしまっているのだが、人生で初めて味わったその感情を、すぐに自分で理解する事など、聡明な彼女にも難しかったのだろう。

 加えて、彼女自身が、『仲間に対して抱く感情では無い。』と、その感情を抱く事を必死に否定していたのだから、尚更理解する事は容易では無かった。

 

 135号室の部屋の鍵を開けて扉を開けると、部屋の中に飛び込んで、そして同じくベッドに飛び込んだ孝太。


「っ……はぁ……疲れた……。」


 ベッドに寝たまま、顔を横に向けて陽菜を見た孝太は、ようやく気を抜ける、と、安心したような素振りを陽菜に見せる。


「しかし、僕も馬鹿だな。 日立に意地悪でこの部屋の番号を知らせなかったけど、どうせ僕を探知出来るならそんな事、意味も無いのにね。」

「あ……そうでしたね。」

「あいつ、指摘しなかったなぁ……それとも今になって僕の馬鹿さ加減を笑ってるんだろうか。」

「ど、どうでしょうか。」


 苦笑いを孝太に返すしか無かった陽菜。

 だが、個室で二人きりという状況をすぐに思い浮かべ、陽菜は頭に血が昇り、顔が瞬時に火照るのを感じて、


「さ、先にシャワーを浴びても良いでしょうか。」


 と、慌てて孝太に告げた後、返事も待たずにシャワールームに飛び込んだ陽菜は、中から鍵を掛けて――今に至る。


 ◇


 生温い水で、若干頭の冷えた陽菜は、水が滴り落ちて行く自分の痩せ細った下半身を見下ろしながら、必死に考えていた。


「本当に、どうしたら良いんでしょうか……。」


 自分の感情の行き場所と、これから先の未来を。

 だが、それは真っ暗な闇の中、手探りで出口を探している様だ――――まるで、出口の無いトンネルじゃないか、と、苦笑する陽菜。

 孝太と加奈の素質、種族的な問題は、未だ解決の糸口が見えて居ない。

 そして、時間が経つにつれ、どんどんと孝太に惹きつけられてしまっているどうしようもない自分の感覚も、どうして良いのか分からない。

 だが、それでいて殺人集団の討伐に成功したならば、自分の足が治るかもしれないという淡い期待。

 様々な色が交じり合い、だが最後は真っ黒な闇で途切れてしまう。


「何が大事なのか……それを考えないと。」


 そう言葉にする陽菜だったが、彼女にとって一番大事な物は、既に彼女自身では無く、同じ宿に居る、自分の仲間――いや、自分の想い人、孝太しか有り得ないと、遂に彼女は結論付ける事に成功し、途端、花が開いた様に、自分の感情が溢れ出す。


 二ノ宮孝太。

 ――――彼が好きだ。


 堪らなく、好きだ。

 唯一無二の存在なんだ。


「二ノ宮君……絶対に私が……あなたを守ってみせます……。」


 遂にそれを口にした陽菜は、溢れた感情と共に、双眸から涙を零すのだった。


 ◇


 現在、午後10時過ぎ。

 孝太はシャワールームに居る、多少長い時間その場所で『何か』をしている陽菜の事を考えながら、遅い夕食を口にしていた。

 陽菜が、好き嫌いのあまり無い人物だというのを彼は知っていたが、香辛料が効きすぎて居る食べ物は若干苦手だと言うのも彼女本人の口から聞いて居たので、珍しい食べ物ではなく、シンプルにバゲット、フレッシュトマト、モッツアレラチーズや生ハムなど、軽く抓める食事を食堂から購入して来ており、ベッドの横に備え付いて居たサイドテーブルにその食事が乗ったプレートを並べていた孝太。

 最初はシャワーから上がって来る筈の陽菜を待って一緒に食べるつもりだったが、あまりの空腹感に、つい食事に手を出してしまっていた。


「何……してるんだろ。」


 無粋だとは知っているが、つい呟いてしまった孝太は、慌てて首を横に振ると、千切ったフランスパンに生ハムとチーズを載せ、口に運ぶと咀嚼を始めた。

 しかし、長すぎる陽菜のシャワーに、『何故?』という疑問符は消えない。


「先にシャワーを浴びて来るとか言ってたけど……まさかね。」


 慌ててそのシャワールームに向かった陽菜だが、最後に口にした台詞がそれだった。

 個室、ベッド、そして先に・・シャワーと言えば、連想する事は一つだけ。


「何考えてるんだ僕は……三島さんがそんな……。」


 ――――秋月美緒。

 彼女の裸をつい思い出してしまう孝太。

 少年にとって、初めての女であり、初めて殺した人間でもある彼女。

 あの運転手によって犯された事により、汚れた、と、自分で揶揄していた秋月美緒の身体は、孝太にとって、汚いと感じる要素など一つも無かった。

 柔らかい彼女の肌は、触れた孝太の指先を最初は怯えながらも受け入れ、孝太は彼女の記憶を上書きするかのように、彼女が口を開いて、彼女に懇願されるまま、彼女の全てに触れた。

 髪を、頬を、唇を、腕を、手を、胸を、腹を、腿を、足を、全てを。


 触れた後、心地良さそうな顔を孝太に向けた美緒は言った。


『孝太君。 私の事、ずっと覚えて居てくれる?』


 その言葉に、涙が零れそうになった孝太だが、反面……柔らかい美緒の身体を、本当の意味で味わう事が出来る、と、彼のはそそり立った。

 

 そこから先は言わずともがな、彼は初めてながらも、無我夢中で美緒を身体で愛した。


 甘美な美緒の声は、孝太の動きに合わせる様にリズムを刻む。


『こ、これ、最初は痛いって……痛かったって……事にして。 初めてって、そういうもの、でしょ?』


 痛そうな顔など見せない美緒は、まるで懇願するように孝太に向かってそう言ったのだった。

 

 ◇


 女の味を知ってしまった男子中学生が、その初めての女の事を忘れる事など出来る筈もない。

 加えて、その女を殺さなくてはならないという罪悪感が孝太の心を満たして居た。

 美緒の中に精を吐き出した後の事。

 まるでとても気持ちが良かった事実を覆い隠す様に、抱いていた罪悪感と共に、孝太は美緒の首に、ショートソードを思い切り突き立てた。

 犯しながら殺すという事なので、美緒と繋がったまま刺したのだが、同時に痛みも和らぐのでは無いかという孝太の考えでもあった。


『ご……ぷ……っ! やっ……ぱ……ごふっ! 死に……たくっ! 無いっ!』


 しかし、大きく目を見開いた美緒は、口から大量の血を吐きながら、涙を流しながら、孝太の胸に手を当てて、彼を押し退ける様に力を加えた。

 それが殺すのを止めてと言う懇願なのは孝太もすぐに理解したが、同時に彼女の中が収縮し、孝太は不覚にも、それに快感を覚えてしまう。


『な……に……気持ち……良さそうな……顔……して……る……の……。』


 続けて、声にならない声で、孝太に向かって、『へんたい。 だけど、好き。』と、美緒の口が形を作った。

 やがて美緒の双眸から光が消え、四肢からも、力が抜け、その手足はだらりとベッドに伸ばされ、彼女は絶命すると、ベッドのシーツは喉から流れる血で、真っ赤に染め上げられた。

 孝太は、どうにもならなかった美緒の運命を嘆き、既に事切れた彼女の頬に、自分の頬を押し付けながら、嗚咽と共に止めどない涙を流した。


 孝太は美緒では無いので、彼女が結局は死を否定し、まるで恨み言の様に『好き』という言葉を孝太に残した理由は分からない。

 だが、確実に言えるのは、孝太にとって一生忘れる事の出来ない美緒との一連の記憶は、『忘れないで。』という彼女の言葉通り、彼の中にしっかりと刻まれたという事だ。


 ◇


 男は悲しい生き物だ。

 いや、男の性が悲しいのか。

 孝太は美緒との事を思い出して……興奮して居た。

 そう言えば、もう何日も出して居ないな、と、自分の下腹部に手を伸ばす孝太。


「こんな時だってのに……僕は……。」


 ちらりとバスルームのドアを見る孝太。 まだ陽菜はシャワーを浴びているようで、水音がそのバスルームから聞こえて居た。

 陽菜が裸でその中に居るという想像をし、悲しくも彼女の裸を連想し、更に興奮を覚える孝太。

 だが、陽菜の裸は、孝太の頭の中で、織部加奈の姿に置き換えられる。

 それは陽菜にとってはとても失礼な話となるのは孝太にも分かっていたが、孝太は加奈の人を殺す暴力的な手足、赤いメガネ越しに見える攻撃的な眼差し、血を垂れ流し、腕が折れても立ち上がる精神力、その全てに魅入られて居たのだ。

 つまりは、他人がそれを恋だと言うのなら、実際にそうなのかもしれない、と、孝太は荒い息を吐く。

 加奈の小さな身体をぴったりと包み込む彼女の赤いタイトローブ。

 そのローブのスカートの中から伸びる真っ白な足。

 そのスカートがめくり上がって、見えてしまった彼女の下着。


 それを思い出して、どくん、と、心臓が跳ね上がるのを感じた孝太は、同時に我慢する事の出来ない衝動に負けてしまい、ズボンの中に手を差し入れるのだった。


 ◇


 慌ててバスルームに駆け込んでいた陽菜は、替えの下着を準備する事も、寝間着を準備する事も忘れて居た。

 しかし、既に色々と心を決めていた陽菜は、それは詮無き事、と、裸にバスタオル一枚を身体に巻いて、車椅子に座ると、静かにバスルームのドアを開けて、部屋に戻った。


 陽菜にしては大胆な行動をしているのは彼女にも分かっていた。

 これから陽菜は、その格好で孝太を挑発しようとしていたのだから。

 でも、どうせ彼の事だから、恥ずかしがって俯いて、こちらを見はしないだろうと高を括っては居たが。

 悪戯心半分、期待半分と言ったところかもしれないな、と、笑みを浮かべる陽菜。


 しかし、その陽菜の笑みは一瞬で固まった。

 部屋に戻った陽菜は、孝太が背中を向けて、何か・・を必死に動かして居るのを見てしまったからだ。

 そう言った知識に乏しい彼女でも、孝太が何をしているのかは分かった。

 ごくり、と、唾を飲み込んだ陽菜は、ゆっくりと孝太のベッドの後ろに車椅子を動かすと、車椅子を固定し、両手で身体を持ち上げて――――孝太のベッドにその身体を埋めた。


「っ!! み、三島……さん!!」


 振り返って、彼女の姿を認めた孝太は、慌てて下腹部から手を退ける。

 悪いことをした子供が、その瞬間を親に見つかった時の様な顔を見せる孝太。


「ち、違うんだこれはっ! あの……その……。」


 言葉にならない言い訳を必死にする孝太。

 その孝太に近づいて行く陽菜。 すると、孝太は陽菜の姿を改めて認識して、目を丸くする。


「な……その……格好……。」

「…………ねぇ、二ノ宮君。 それ、手伝って、あげましょうか?」


 ◇


 結果的に、陽菜の挑発は、ある意味大成功したと言えるだろう。

 陽菜の身体は余す所無く孝太の手や口によって愛され、彼女は三度、孝太の若い精をその身に受けた。

 両親が知ったら激怒するだろうな、と、下腹部を撫でる陽菜だが、彼に愛された証拠である液体が、こぽりと溢れ、シーツを濡らす。

 その光景を見て、自分は処女だったのに、淫らになりすぎたかしら、と、汗ばんだ額を手で拭う陽菜。


 孝太はいつしか、陽菜の胸の中で、眠りに付いて居た。

 よっぽど気を張り詰めて居たのだろう彼は、まるで糸が切れたかのように、今では幸せそうな寝息を立てており、陽菜の手によって彼の柔らかい髪が撫で付けられると、心地よさそうに陽菜の胸に更に顔を押し付けて来る孝太。

 多少重いのだが、その重さが、今の陽菜には心地良かった。


 しかし、心地は良いものの、改めて自分のした事を考えると、本当にそれで良かったのかという疑問が頭を過ぎる。

 実は孝太は、陽菜が手伝ってあげましょうかと言った言葉の後、しどろもどろになりながらも、織部加奈の名前を出してしまった。

 しかし、その口を、陽菜は自分の唇で塞いで、バスタオルを開けて一糸まとわぬ姿になると、自分の胸を孝太の腕に押し付けた。

 すると、孝太の方から陽菜の身体を、まるで獣の様に求めて来たのである。


「これって、寝取ったって事なのでしょうか……。」


 呟く陽菜に、応える者は誰も居ないが、自分で言って確信を覚えて居た陽菜は、バツが悪そうに額に手を乗せる。

 でもこれで陽菜も、指輪を薬指に付けるのを、躊躇わなくても良くなった、と、実際人差し指から薬指へと付け替える。

 その行為に、これ以上無い悦びを感じた陽菜は、ふるり、と、肩を震わせた。


 陽菜にとって、動かない下半身は、動かない事もしかりだが、コンプレックスそのものだった。

 だが、その下半身の中で、男を悦ばせる部分は、正常に機能し、かつ三度もその行為を求めさせた。

 その結果は、陽菜に多大な自信を取り戻させていた。

 佳苗が指摘していた通り、陽菜自身は自覚していないかもしれないが、彼女の容姿は端麗。

 車椅子に乗っていた事が実は更に神秘性を加えており、前の世界では彼女を隠し撮りしていた三年生も居た程であった。

 そんな女性に裸で求められて、我慢しろという方が男にとっては難しいのだが、それを陽菜が気付いて居る様子は無く、ただ満足気に、機能を果たした下半身、腹の部分を撫でる。

 彼女は、最初にされるときも、特に痛みを感じる事無く、逆に性的な刺激により、今まで自分では出した事の無い様な声を上げてしまった。

 これがおかしい事なのかどうかは分からないが、一つ言えるのは、好きな人に抱かれるのは、とても気持ちが良いという事だと陽菜は思う。

 自分が身体を許した事で、明日も、明後日も、これからも毎日求められてしまうのかと思うと、先程まで孝太に愛されて居た部分が、またされる事を期待して、一瞬収縮すると、また孝太の体液が漏れ出し、尻の割れ目の方に垂れて行った。


「毎日していたら、赤ちゃん出来ちゃうかもしれませんね。」


 頬を染めながらそう言う陽菜は、本気でそれもあり・・だろうな、と、考えて、一層、足を直して、孝太の隣を歩きたいと言う希望を強く抱くのだった。


 ◇


 朝起きた時、孝太は一瞬自分の目を疑った。

 裸の三島陽菜、その彼女の胸を枕にして、眠っていたのに気付いたからだ。

 その陽菜は、可愛い寝息を立てており、事後ではあるが、三度愛してしまった彼女を今では心から愛おしく感じてしまっている事に、自分はなんといい加減な人間なんだろうと自己嫌悪に陥るも、柔らかい彼女の胸に再び顔を埋めると、陽菜の鼓動を聞き、肌の柔らかさを感じて、結局は幸せな気分になってしまう孝太。


「おはようございます。 孝太・・。」


 突然自分の頭に掛けられた、愛しい人からの自分の苗字では無く、名前を呼ぶ声。


「おはよう、陽菜・・。」


 彼も、彼女の苗字では無く、名前を呼んで返した。

 すると、軽く微笑んだ陽菜は、自分の胸に顔を埋めて居る孝太の頭に、手を乗せる。


「そんなに私の身体、好きなんですか?」

「ち、違っ! い、いや、違わないけど……。」

「ここと同じように、正直に言えたら、今、またしても良いですよ。」


 孝太の下腹部に手を伸ばしながら、耳元でそう囁く陽菜だった。


「す、好き……だ。」

「もっと言って下さい。」

「好きだよ、陽菜!」

「私も、大好きですよ、孝太。」


 ◇


 昨晩に用意していた食事は、既に乾ききっており、そのままでは食べられそうには無かった。

 また朝に一度陽菜を抱いた孝太は、空腹を覚え、それに手を出そうとしたのだが、諦めてダストボックスに全てを破棄した。

 その時、そう言えば、と、陽菜が昨晩から何も食べていない事に気付く孝太。


「陽菜、お腹空いてないの?」

「え……あ、はい。 そう言えば空いてますね。 かなり。」


 でも、満たされて居たから忘れて居ましたとばかりに、下腹部を撫でる陽菜。


「陽菜は……なんか、凄いな。」

「凄い?」

「魂まで、全部、陽菜に持って行かれた感じがするよ。」

「それって、こういう風にしても良いって事ですか?」


 左手の薬指を見せる陽菜。 そこには、銀色の指輪が嵌められて居た。

 若干頬を染めながらそれを見せる陽菜に、孝太はしっかりと頷いた。


「僕達は、付き合ってるって事で、良いのかな。」

「そんな軽いものなんですか?」

「軽い? 付き合うって軽い事な……ああ。 そうか。 ここは前の世界じゃなんだから、別に陽菜と僕が勝手に結婚してもおかしく無いって事?」

「結婚とか、重すぎる女ですかね、私。」

「いや……そんな事無いよ。 陽菜らしいって言うか……その……僕はそう言って貰えて、嬉しいよ。 遊びで、とか、そういうのは……僕には逆に無理だったから。」


 陽菜は、孝太の責任感が強い事は知っていた。

 だが、あっさりと、さも当然とそう言う彼に、涙をポロポロと零してしまう陽菜。


「え……? 僕、何か変な事言った?」

「違いますよ、嬉しいんです。 だって、一生結婚なんて、出来ないって思ってたんです、私。」

「あ……。」


 彼女の視線の先には、動かない彼女の両足があった。

 彼女の場合、容姿のお陰でそのような事は実際無かったと孝太は思うが、障害者が結婚するという事は、相手がその障害を受け入れるという前提が必要不可欠だ。

 確かに、普通・・に結婚するという意味では、難しかったかもしれないな、と、孝太は考える。

 が、今はそんな心配をする必要はもう無いのだ、と、孝太は彼女の頬に手を伸ばすと、彼女と優しいくちづけを一つ交わした。


「陽菜。 ……二ノ宮陽菜に、なってくれる?」

「はい……。 はいっ……!」


 幸せで溢れた涙で頬を濡らし、何度も頷く陽菜だった。


 ◇


 二人の束の間の幸せな時間は、すぐに過ぎ去って行った。

 日立との約束の時間が、刻一刻と迫って居たからである。

 そして、その約束の時間が近付くに連れ、孝太と陽菜は双方無言になっていった。

 また人を殺すという行為は、今の二人には正直楽しいとは言い難い事となってしまっていたのである。


 ただ、幸いな事に、その殺人の先には、二人が共に望む未来が一つだけ待っていた。

 だから二人は待ち合わせ場所に歩みを進める。

 陽菜の足が、動かないからといって孝太が彼女を捨てる等と言う事は有り得ないが、孝太こそ、陽菜に、自分の妻に、彼女の足で再び大地を踏み締めて、二本の足で歩いて欲しかったのだ。

 佳苗は、孝太に愛される為の理由として足を治す事を陽菜に言っていたが、その目的は、逆に陽菜が孝太に愛を確かめさせる手段となってしまった。

 それは多分佳苗にとって皮肉に聞こえるかもしれないが、流れ始めた二人の時間は互いに交じり合うと、二人にとって要らない物は、その流れから除外され、必要な物だけが残っただけの話だ。


 その時、残念ながら、二人の流れの中に、織部加奈の名前は無かった。

 孝太は、恋と知った加奈に抱いていた感情より、陽菜との肉欲を交えた関係を選んだ。 それは、とても後ろめたい事であり、彼はそれを恥じていた。

 そして陽菜も、彼女自身が漏らしていた様に、孝太が加奈を好いて居た事を本当は知りつつも、身体を使って寝取った事の後ろめたさがあった。

 加奈にとって、二人がどんな関係であれ、彼女の仲間なのであれば、共に歩める相手だと考えて居たのだが、孝太と陽菜が抱く、それぞれの後ろめたさから、加奈を積極的に探そうという行動の優先順位は、自然と他の優先事項に前を詰められ、どんどんとその重要性を下げて行ったのである。


 人間、たったの一晩でそれだけ変わるのかと二人が問われれば、実際変わったのだから頷くしか無いのだが、こればかりは誰が悪いという訳では無いと、二人は考えて居た。

 確かに後ろめたさはあるが、実際のところ、加奈と孝太は何か約束を交わして居た訳ではない。

 ただ、同じ亜人種だという素質の同一性があるだけの存在なのである。

 時に人は、人に対してとても残酷になる事が出来る。

 何故なら、人は特定の人を特別として選んでしまった後、それに害する物を切り捨てる必要性に迫られる場合があるからだ。


 こうして、織部加奈が一人で迷宮の中で二人の帰りを待っていた頃、その二人は勝手に結ばれて、勝手に加奈の事を、切り捨てまではしないものの、本当の腫れ物の様に扱う事になったのだった。

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